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野菜を食べにゃあいけんよ


 ここ数年は野菜によって季節を知る。昔は野菜の旬の季節など気にしたこともなく無頓着だったが、1日300グラム以上の野菜を義務づけられて止むなく食い、ほとんど十日置きに通う野菜直売所で覚えてしまった。秋も深まるとブロッコリーがのさばり出すってな案配。



 それまで聞いた事もなかった野菜の代表が「つるむらさき」だ。これも緑黄色野菜だということで恐る恐る手に取った。



 少々ぬめりのあるポクポクした食感で、匂いも癖がある。美味いかどうかというとよく分からない、というかゆで立ては悪くないが保存は要注意。タッパに入れて保存すると、癖が強くなって食べにくくなる。しかし、贅沢は言っていられないのだ。なにせ300グラムだ。夏から秋にかけてはつるむらさきが大活躍だが、これからは小松菜の季節になる。ややこしい料理はせずにひたすらお浸しでムシャムシャと食う。レタスは好きだが、緑黄色野菜としては失格だからサニーレタスがメインになる。医者に最近は食べるということが全然楽しくないと言うと、「わかるわー」と笑われた。脂の多いものも遠巻きにするしかないし、塩分はご法度で糖分だって要注意。食べるものは限られて楽しいわけがない。むかし芸能人の結婚式の仕事に係わったヤツがあまりのギャラの少なさに呆れて怒り、パーティ会場にあった伊勢エビを6尾ほど食ってやったと息巻いていたが、そんなことも羨ましがってはいけないのだ。

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ターニングポイント


 人生に転機というものがあるとすれば武藤さんの誘いに応じることもその一つだったに違いない。ビッグバンドで演奏する道があった。切っ掛けは他にもあった。ゴダイゴでホーンセクションを手伝っているとき、ちょっとした揉め事が事務所とプレイヤーの間であり、ま、それは金銭的なことも絡んでいたのだけど、ホーンセクションを替えることになってしまった。しかしながら何が起きているか知らないこちらはトラブルに関与していなかったから、残って欲しいと言われた。自分のトラブルではなかったが、自分だけ残るというのも後ろめたいような気がして固辞した。しばらくして浜田省吾というロック歌手のツアーを何本か手伝った。ある夜、旅先のホテルで会食に招かれた。たしか彼のお姉さんがマネージメント担当で、ウチのバンドに加入しないかという話だった。誘いは光栄な話だったが、当時の彼のバンドのツアーは年に50箇所を超えていた。3日に一回としてもリハーサルを含めて年の半分は拘束されることになる。それはそのバンドの活動で生きる事がすべてになることを意味していた。頭を下げて断った。誘いに乗っていればロックの世界でサックスを吹くおっちゃんになっていただろう。



 ツアーを何年も続けることはあまりなかった。その中で3年続けた山下さんのツアーは珍しいことだった。そもそも自由な職業に就いたはずだった。それなのに自由を束縛されるような立場になることだけは避けたかったのだ。その山下さんのツアーも3年目が限界だった。来年も、という申し出を断ることになった。彼に感謝することはあっても嫌いだとかいうものではなく、自由が欲しいというような心持で辞することになった。ま、多くの事務所サイドからは生意気なヤツと取られたかも知れないが、フワリフワリと流れるように生きるのが好きだった。大仰にいえば、他人の音楽ではなく自分の音楽で生きることが大切だと信じていたというか、信じようとしていたのだ。あの時こうしていればという後悔があるわけではない。ビッグバンドのリード、ロックのサックス、どれもその立場にいる自分を想像できない。そんなことを言えば、スケジュールが合わなかった山口百恵さんのラストツアーや、海援隊のツアーなどに参加していれば、劇的な変化はなかったにせよ何らかの影響はあっただろうが、結局は今の場所がいるべき場所だったと思うのが正しいのだ。

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消えること


 毎度の辛気臭い話だ。人の死というものを最初に知ったのは小学1年か2年、姫路に住んでいるころだった。姫山住宅という、今でいえば団地のようなところがあった。三軒ほどの平屋の住宅が連なった長屋のような棟が幾つもあり、そこは東町、西町というように区分けされていた。それとは別に、やはり木造で大きめの大所帯のアパートのような建物もあった。そのアパートのような建物の一室で首を括った人がいるという噂があっという間に広がった。不気味な話だったが、その部屋のそばまで行った。多くの人が詰めかけていた。もちろん子供などが近くに入れるわけもない。遠巻きにしているだけでも、暗い部屋で自ら命を絶った寝巻き姿の男の姿が見えるような気がした。「襖に血で書かれた遺言があった」という話も聞こえた。何か書かれていたのは確かだろうが、血で書いたというのは作り話のような気がする。死というものを認識していたかどうかはともかく、建物の通路の暗さやその場の放つ重苦しい空気などにショックを受けたことは間違いなく、50年以上を過ぎた今でも忘れない昭和30年代初めのことだ。 



 それからも親戚内の弔事を聞きはしたが、長寿で天命を全うした者に対してのショックは別のものだった。ミュージシャンとして働き出して知り合ったバンマスに、元シャープス&フラッツでドラマーとして名をはせた武藤敏文さんがいた。当時は独立してニュー・シャープスというバンドを率いていらっしゃった。レギュラーとして鴬谷のグランドキャバレーに出演する傍ら、不定期に米軍キャンプの仕事などがあった。どういう縁か、一度だけ誰かの代わり、いわゆるトラで鴬谷の店に行った。すると武藤さんから何かにつけて頻繁に電話が入るようになった。その頃ウチには迷惑な電話魔がいて、うっかり取ると1時間も2時間も付き合わされた。武藤さんはその間中イライラと待っていたらしく、開口一番「しかし、長い電話だよなあ」と仰った。何が気に入られたのかは分からないが、とにかく自分のバンドに来いと何度も何度も誘われた。ある夜は「何か、そうだ車買ってあげるけど、どうだ」とまで仰った。絶句した。そりゃあ、ま、気に入られて気分が悪いはずもないのだけど、ちょうど新宿のピットインに出演して盛り上がっていたころだ。大所帯の中で演奏する心境にはなれなかった。ある日は楽屋で話し合いになった。武藤さんは昔の写真アルバム持参で、海外の多くのジャズメンと共演した際のスナップを嬉しそうに何冊も見せてくれた。この場所に一緒に行こうよと熱弁を振るわれた。トラで行くのは問題なかったが、武藤さんの誘いを断るのが申しわけなく思えて少し間を空けようとした頃だった。訃報が入った。武藤さんの趣味の一つがモーターボートだった。その日は子供を乗せて東京湾に出ていたそうだ。もしかすると時間の読み違えで焦っていたのか、帰りに操舵を誤り橋桁に激突し亡くなられた。子供の安全を確認して沈まれたと聞いた。武藤さん亡きあと引き継がれた方の元でも何度か演奏したが、もう来る必要はないなと痛感して行かなくなった。亡くなってからだ。武藤さんの人柄に惹かれていたことが分かったのは。縁は不思議なものだと思う。相性というものがあって、その人の前に出ると自分の悪い部分が首をもたげて来る場合もあるし、その逆に素直になって穏やかでいられる場合がある。武藤さんの場合は後者だった。嫌味な自分はすっかり影を潜め健全でいられた。死というもの、あの時初めて何かを失う悲しさというものを知った。

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 20代のころ、インスタントラーメンをよく食べた。貧しかったというのもあるが、どちらかというと好きだった。野菜を炒めてトッピングしたり、これと御飯さえあれば「よしよし」ってな具合だった。若いころというのは、立ち食いの富士そばをわざわざ電車を降りてまで帰りに寄ったりしたように、特別美味いものを食べたいなどと切に願うものではなかった。腹が一杯になれば何の問題があろうかってな調子だった。もちろんたまには歌舞伎町の「にいむら」で豚カツなどを食べることはあったにせよだ。



 食い物で多少贅沢をするようになったのはツアーで地方に頻繁に出かけるようになってからだったような気がする。ツアーというものはステージとホテルと空港、駅しかない。それは知らず知らずの内にストレスを抱えることになる。仕事そのものがストレスだというわけではない。移動、次の町、ステージ、ホテル、朝から移動、次の町という繰り返しで気分が窮屈なところに閉じこめられるのだ。それを食事で解放しようと考えるわけだ。どの程度の効果があったかは定かではないが、こういうことにかけてはとても熱心なメンバーもいた。ここに来たからにはこれを食べなきゃダメだという風に誘われてそこら中を歩き回ったこともある。昼食に三千円の天丼を食すという無茶ぶりに音を上げて付き合わなくなったけど。
 その土地によっての違いもあった。鹿児島の次が大阪ということがあった。どういうわけか2日連続で焼き肉屋に入った。肉質も値段もほとんど同じで、鹿児島の肉は2倍の量があった。北陸方面を回ったツアーは毎日打ち上げの宴会があった。4日か5日連続でテーブルに大きな舟盛りが並べられた。主催者が違うから仕方ないのだけど、何日も続くとその刺し身の大きな舟盛りを見るだけで「うげっ」となり、お茶漬けでいいのになどと思ったりした。旅先のその土地その土地で美味い物を頂いたはずだが、ほとんど覚えてはいない。

 心臓疾患のあと、塩分を控えるように厳命されて食生活は恐ろしく変わった。スーパーに行くと必ず包装の裏を見る。だいたい塩分量が明記されているから、それを参考に買う。近ごろは塩分控えめの塩まであるから驚きなのだ。食感は普通に塩だが、半分はカリウムで成り立っている。塩分を控えるのは動脈硬化を防ぐというか、そもそも固くなっているのだから元通りというわけには行かないが、これ以上の悪化を防ぐというようなことだ。さて、インスタントラーメンだ。何年ぶりかで食べてみた。懐かしくも美味いものだった。しかし、スープはとんでもない塩辛さで驚いた。まるで塩水を飲んでいるようなものだ。塩分量5グラムなどと書かれている。小さじ一杯の塩だ。警鐘が鳴る。若いころはこんなものを飲み干していたことになる。血管も若いから少々の事にはびくともしなかったらしい。
 栄養士に言わせれば、食餌療法をしている場合は羽目を外していい日などないという。いつも節制しているから今日ぐらいはというのはなく、ダメージは蓄積されるものだから要注意ってなことだ。これが難しい。ちょっとならいいかなどと思ってしまったりするのだ。再発すれば明日はない。食事でペースを逸脱した際には、何をやってんだ的な後悔があとから必ずやって来る。

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 台風の余韻で暖かい日だったが、見上げれば紛れもない秋の空。小学生のころ夏休みの自由課題で雲を取上げたことがあった。思い立って始めたはいいが、毎日の雲の様子を描くのは退屈なことだった。夏はだいたい積乱雲、いわゆる入道雲がほとんどだったし、日誌のページは変化のないつまらないものになった。それで、雲の名を少しは覚えたが、今日の空の雲が高積雲なのか巻積雲なのかはよく分からない。うろこ雲というのが巻積雲なのだが、うろこ雲状の高積雲というものもあるらしい。しかしながら秋の雲であって、夏にこのような雲を見ることはない。

 ノーベル賞の受賞者がまた日本から出た。知らない学者だ。医学の世界では有名な方だったらしいが、ノーベル賞の受賞で突然注目される。文学賞の大江健三郎氏や川端康成氏は知られていただろうが、物理学、化学、医学の分野での受賞者がそれ以前に話題になっていたという話は聞かない。受賞者の名前が発表されてもほとんどの人の反応は「それ、誰?」に違いない。受賞理由の説明があってもさっぱり分からない。特に物理学賞に至ってはチンプンカンプンと言っていい、しかしノーベル賞だ。それは立派なことに違いないというので褒めそやす。私らには理解できないことを成し遂げたことを評価するのであって、大方の人たちはよく分からないけど目出度いことだと言うのだ。よく考えれば妙なことだ。分からないことだから、数ヶ月もすればみんな忘れてしまう。日本に学者がどれほどいるのかは知らないが、結局のところこのような賞を受賞しない限り知られることはない。ノーベル賞というのはそういうものらしい。ま、金メダルも同じようなものだけど。

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