☆☆☆

ペット



 最近、最も腹立たしかったのが猫を50匹以上も殺めたバカなオヤジのニュースだ。ご近所の飼い猫までさらっているから、動物愛護法違反、窃盗に加えて器物損壊罪などが適用されるという。しかしだ、平気な顔でインタビューにに答えたりしているのもむかつく。日頃、猫から迷惑がられるほど可愛がっているものとしては、腹立たしいだけでは収まらず、もし近くにいるならば思いきり殴ったり蹴ったりしたい。日本でのこの類いの犯行に関しての罰則は、動物愛護法が適用されて、2年以下の懲役または200万円以下の罰金が最も重い刑。アメリカは日本よりも厳しく、2015年に起きたネコ連続虐待致死事件について、裁判所は懲役16年の判決を出している。 日本での殺人事件の判例と同じような量刑だ。刑を重くすればいいというものでもないが、定期的といってもいい周期で現れる、動物虐待を面白がりヒトが生き物の中で特別だと勘違いしているヤツ等、これも他人をターゲットにする前に社会的に隔離すべきだと考える。

 クリスマス・プレゼントなど、子供にペットの仔犬や仔猫をサプライズで与える動画がアップされていている。突然のプレゼントに女の子の多くは泣き出してしまう。多くの子供たちが「オー・マイ・ゴッド」と叫ぶ。彼らは単に犬や猫を迎え入れただけでなく、なにか特別で崇高なものを手にしたようにも見える。

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女優



 先日、芸人と結婚報告の会見を行なった蒼井優という女優さんについて、以前見た「フラガール」での演技はたいしたものだと感心したものの、その後の活躍についてはあまり知らなかった。どちらかと言えば、いわゆるアイドル的な立場の人だと思っていたわけだ。幾つかの作品で見かけたことはあったような気もするが、主演作品などまったく知らなかった。そもそも邦画を見ることは極めて少ない。大作などと言われるものを見て「なんだ,これは」的に落胆したことも多いし、遠巻きに眺めるだけのものだった。しかし、動画サイトにアップされている山田洋次監督と蒼井優さんの対談を見て、おそろしくクレバーな方だと思い、この女優さんに興味を持った。それで立て続けに何本ものビデオを借りてきて見ることになった。印象は変わった。全力で映画に立ち向かい健闘している女優さんだということはよく分かった。いくつかの作品、「アズミ・ハルコは行方不明」「人のセックスを笑うな」の二作品は映画のテンポにまったく付いていけず、冒頭の10分ほどで見ることを止めた。山田監督も対談で仰っているが、最近の若い役者さんは台詞の語尾がはっきりしない。ただでさえボソボソと喋るから台詞がよく聞こえない。字幕がついていないと謎のシーンが頻発する。青井さんもそのように指導されてきたらしいが、山田監督の映画でそれを指摘されて驚いたという。山田洋次監督が若いころ先輩に教えられたのは、女優さんは壊れ物を扱うように大事にすることだったらしい。だから、あろうことか人前で脱ぐ女優さんの裸を撮るなどとんでもないことであって、作品の中でベッドシーンなど一度も撮ったことはないという。そんなシーンを撮ることの多い昨今の作品に対する不満のようなものだけど、確かに蒼井さんの作品には多く、他の女優さんもそうなのかも知れないが、そんな役回りで重宝されている感すらある。ま、男女関係を描く映画には不可避かも知れないが、それを軸に話が進む展開が多い。暴力とお色気だけで映画が成り立っているような気さえしてくるわけだ。暴力と色気、さもなくばアニメというのが今の流れらしい。山田監督は、女優は雑事に心を奪われない日々の平穏が重要であって、そうでなければ成長できないと仰っている。彼女は「誰が好きかということではなく、誰と一緒にいる時の自分が好きかが重要」と語っている。芸人さんとの結婚に平穏を求めたのかもしれない。しかし、余計なお世話だけど、こんな女性を嫁にする男性は相当な覚悟が必要な気がしてくるわけだ。

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移ろい


 肌寒い日と夏日が交互に来る妙な気候が続く。



 ここ数年は新宿に出かけることも滅多になくなり、ま、新宿に限ったことではなく渋谷だって六本木だって銀座だって同じようなものだが、足が遠のいてしまった分世情に疎くなってきたような気がする。なにしろ、新宿にまだ都電の駅があったことを知っているのだ。靖国通りの歌舞伎町のゲート前辺りに発着所があった。一度乗った記憶があるが、どこで降りたかは覚えていない。区役所通りの辺りを左折してゴールデン街の横を通り抜けるような道筋で、左折した途端に通路は狭くなった。渋谷は道玄坂がすべてのような町だったし、六本木は交差点傍のアマンドだけがやたら目立つ薄暗い町だった。50年も経つのだから当たり前のことだが、その町の変化に付いていけていない。六本木のクラブで演奏する先輩の店を演奏を聴くために訪ねたことがあった。ベーシストの先輩はカウンターに案内して「あのね、間違ってもこっちのテーブル席には座らないようにね。大変なことになっちゃうから」と真剣な表情で念を押した。テーブル席にはテーブルチャージというものがあって、何も飲み食いしなくともチャージ分の料金が発生することをその時知った。「ピットイン」で演奏するようになったころ、新宿は我が物顔で歩ける庭のようなものだった。「ピットイン」の朝の部が終わり、ベースアンプをゴロゴロ転がして急ぐベースの早川と共に次の演奏場所、西武新宿線の新宿駅近くの「タロー」を目指した。ピットインはまだしも、タローは集客状況の芳しくない店だったからギャラはまったく期待できなかった。しかし、僕らはそんなこと気にしちゃいなかったし、演奏する場所があるだけでもありがたいってなものだった。ピアノの明田川さんは米屋を営む親戚の家の米蔵を改造して「アケタの店」を開店して演奏場所を確保した。ずいぶん経って再び出演した際には土間ではなく板が張られていてガッカリもしたのだけど、当初の足元は土間で客席はビールケースを逆さまにして座布団を敷いたものだった。20年ほど前に演奏した時には、ほとんど部外者のようなものだったし、その気安さもあったのかスタッフが客の入りを書いた閻魔帳のようなものを見せてくれた。客がゼロの日が月に10日間ほどあったのに驚いた。それでもまだ続いているのは凄いことだと思う。なにせ、ジャズライブのデビューを飾った店だから思い入れは深い。八王子には「アローン」という店があって何度か演奏したが、そこは無くなってしまった。新宿に行くと、どうしてもあの頃の面影を探そうとする自分がいる。知っている喫茶店が残っていたりすると、それだけで和むような案配だったが、今はかけらも見つからなくなった。2002年にスカラ座が消えたのが止めのようなものだった。コマ劇場も姿を消し、新宿は知らない町になってしまった。町が姿を変えることに異議はないし、時の移ろいは誰にも止めようがないわけだが、記憶の一角が次々に壊され、記憶そのものが痩せ衰えていくような気がして、歳を取るということは残酷というか悲しいものだとつくづく思う。

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懲役100年


 二歳の子供などといえば、親は我が身を捨ててでも守ろうとするのが普通だが、虐待して死に至らしめるなど狂人で間違いない。認知症は老人専用の言葉ではなく、このように若くとも、判断能力の著しい低下、暴力行使の認識ができない症状などに関しては、重度の認知症と捉えるべきだと考える。日本ではこのような事件の場合、量刑は軽い。15年ほどの懲役がほとんど。同じような事案で、アメリカの場合は「終身刑に加えて85年の懲役」というデータがあるから、その落差は大きい。煽り運転の揚げ句に被害者を死に至らしめた加害者の場合は18年の懲役。これだって相当軽いと思われるが、子供の虐待死の場合は保護責任者遺棄致死(懲役3年から20年)で裁かれる。通常の「殺人罪」は懲役30年以下だが、この区分けはよく分からない。それで、結果的にこのような狂人たちが20年ほどで出てくることになる。死刑にしろとは言わないが、どこか無人島のような場所に隔離して通常の社会復帰などさせてはいけないような気がする。
 そこで虐待死などが起こると必ず出てくるのが「児相」だ。児童相談所が本来どのような目的で作られているかは知らないが、虐待などの疑いがあれば逸早く駆けつけることになっているらしい。「これはケガであって、虐待ではない」などと恫喝されてスゴスゴ引き上げてくるようなケースが多すぎるような気がして、そんな輩に対抗できる、もっと屈強な男は用意できないのかといつも思っていた。しかしながら、一時保護を強制的に行なう権利は持っているものの、その行使の後に虐待ではないことが判明して揉めたケースもあって、強く行使できない背景もあるらしい。で、恐る恐るその家に赴いて、遠慮がちに対話して帰ってくるわけだ。結果、子供が死に至り、会見の場で職員が頭を下げて詫びるというのが恒例になってしまっている。警察も動くが、やはり強く出れない事情があるらしく、後手に回っているうちに事件は起きる。この悪循環を絶つ方法はないように見える。で、結局は虐待する親に問題があるわけだから、量刑を「終身刑に加えて85年の懲役」式に変えることが望ましい。

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変曲



 まず、知らない曲のオーダーがあって、その曲をスコアに起こすところから始まったわけだが、アレンジが本格化してきた。オリジナルを作る時と大差ない集中力と忍耐力が必要で、何かのアイデアが湧くまではそれなりに苦しむ。今回はバカラックの曲が2曲あって、それがもっとも難しい。バカラックの曲はあれこれと変更をすることに適さない楽曲で、曲中のコードの変更はたいした効果が得られない。前奏や間奏に工夫の余地はあるが、ようするに個性的でシンプルなメロディとコードが調和していることを示している。ダイアナ・クラールの「Look of Love」はクラウス・オガーマンのアレンジで録音されていて、前奏はFペダルで自由に展開している。その部分はなかなかいい雰囲気だが、テーマに入る寸前のコードはF分のE♭マイナー6/9で、Gマイナーでメロが始まる。えっ、そこなの?ってな具合に意表を突かれる。流れからいえばB♭マイナーが順当な気がするからだ。テーマに入ってからも分数コードであれこれと独特の流れが作られている。しっとりと聞こえる編曲だけど、実はとても手強い工夫がなされているわけだ。そこらの斬新なやり方でも難なくこなすところがピアノを弾くクラールの強みだ。ま、普通に考えれば歌い出しの音は取り辛い。この編曲を聴いて、むかしのコンサートのことを思い出した。あるジャズ女性歌手の、たぶん初めてのホールコンサート。かなり大掛かりな編成で力の入ったステージだった。アレンジは急進的な書法も取り入れる有名なピアニストだった。「ダニーボーイ」はシンプルな曲で、そのままではポップになり過ぎるということだったのか、かなり風変わりな和音が使われていた。和音というより旋法だが、B♭キーとFキーが並行してるような流れだ。一瞬二つの調性が同時に流れるように聞こえるものだった。バックのサウンドもあやふやになりがちな4度構成。リハーサルでは問題なかったが、本番になると緊張もあって、歌は実際の5度上から歌い出してしまった。それでも全体の流れは曖昧なサウンドだったから、そもそも風変わりだし、ミスノートのように聞こえないところが曲者だった。途中で気付いたに違いないけど、歌い出したものを止める勇気が彼女にはなかった。そのまま歌い続けた。そして中間部に差しかかって事故は起きた。5度も上で歌い出したものだから、盛り上がる部分で声域をはるかに超える音域になってしまった。そこでオクターブ下げたかどうかは覚えていないが、散々な出来になってしまった。終演後、彼女が声を上げて泣くのが見えた。悔しかったに違いなく、気の毒だった。無茶な、意味のないアレンジだと思った。工夫と混乱は紙一重だと痛感した。ミュージシャンはオリジナリティを求めるあまり、時々奇をてらうような領域に入ってしまうことがある。不用意に入り込んでしまうと抜け出しにくくなる。風変わりがオリジナリティとは別なものだと気付くまでに長い旅を強いられる。ドミソに戻れなくなるのだ。もちろんチャレンジすることは必要だし、偉大なミュージシャンは常にチャレンジしてきた。しかし、彼らはいつだってドミソの重要さから逸脱することはなかった。それは映画「バード」で、パーカーの音楽について語られる言葉「彼の音楽は新しく、身近だった」がすべてだと言ってもいい。若いころ、オーネット・コールマンがアイドルだった。オーネットの音楽に感じていたのはドミソだった。オーネットは奇をてらうようなラインを吹き続けていたわけではない。根底にあるのはドミソで、それがあちらに飛び、こちらに飛びというように転調する仕掛けだった。ようするに彼は最後までブルースを忘れなかったわけだ。

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