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博多の日々



 佐賀という町を後にしたのは高校卒業の年1968年だった。在学中からアルバイトのように演奏活動を始めていたが、卒業して間もなく大牟田に仕事で行くことになった。これは「70年代」の話でも書いているからそちらで詳しいが、とにかく佐賀で付き合ったドラムのバンマスの陰謀に乗せられたというのが正しい。そんなに大きい町でもないし、少々当てが外れて困惑していたが、いつまでも留まる気はなかったし、とにかく楽器を吹いて食っていけるのならこの際どこでもいいやってなものだった。ドラムのバンマスにギター、テナーサックスがいたのは確かだが、ベース奏者の記憶はないところをみると妙な編成のバンドだったことは間違いない。その変則的なバンドで、プロというのはおこがましくも楽器一本で生きていくことが始まったわけだ。その店で初めてホステスという女性たちがいることを知ったし、いわゆる水商売的夜の町の実体を経験することにもなった。音楽の面で言えば、思い描いていた世界とはまったく違う少々焦りを覚えるようなもので、当時ヒットしていた千昌夫の「星影のワルツ」を何度も何度も吹くような案配だった。これは何とかしなくちゃと考えている折に、やはり佐賀のバンマスのバンドでベースを弾いていた柳川在住のベーシスト鳥井さんが嬉しいことを提案してくれた。鳥井さんは大変な目にあっているこちらを気にかけてくれていたらしく、博多の知り合いに紹介するから少し待てということだった。大牟田には都合3ヶ月ほどいただろうか。博多のグランドキャバレーとして有名だった「赤坂」のマネージャーに会うために博多へ赴いた。テストを兼ねていて、ワンステージだけ演奏することになった。譜面がまったく読めないわけではなかったが、スウィングビートのシンコペーションだらけのおたまじゃくしは手も足も出ないものだった。「えっと・・」と考えている内にどんどん小節は進行するし、終わったと思うと次の曲のドラムカウントが始まる。30分のステージで一音もまともに吹くことなく終了。もはや悪夢以外の何ものでもなかった。これは採用されることなど考えられないなと落胆した。やっぱりプロの世界は手強いと思い知ったわけだ。何か違うバイトでも探すことになるのかと居直る体だった。しかし、マネージャーの牧野さんは鷹揚に笑いながらビックリするようなことを仰った。「とりあえず、メインのフルバンドの他にナインピースのチェンジバンドがあるから、そっちで修業してから考えようか、なっ。ギャラは月3万円な。頑張れな。」月3万円のギャラは大卒初任給を上回るもので、当時の水商売の景気のよさの一端が窺える。そのころ、バンドはいつも人不足だったようで、少しでも楽器を扱えれば即戦力にはならなくとも大事にされたのだ。チェンジバンドは基本的に大きなコンボのようなもので、譜面も少なく客のほとんどいないワンステージ目はジャムセッションに近いものだったから願ったり叶ったりの一面もあった。昼過ぎに店は準備のために開けられる。一時ごろになると毎日そそくさと楽器を持って店に入った。広い店の中の好きな場所で大きな音を出すことができるのはありがたかった。チェンジバンドに慣れてきたころ、こいつは小さな編成でも行けるなと牧野さんは考えたらしく、一人欠けても大した問題のなかった、だいたい「ぼーや」と呼ばれていた若手は、「おまえ、しばらく鳥栖って町にある店に通ってくれないか」などと言われ、2ヶ月ほどは専用のバスで通うことになったりした。防府にも行かされたし、便利屋的な使い方をされることも多くなった。そのようなことを労うかのように米軍キャンプの仕事を次々と入れてくれたのはとてもありがたかった。員数合わせのようなものだったが、兵隊と一緒に並んでトレイを持ち純アメリカ式の食事を頂くのがありがたかったのだ。店には従業員のための賄いがあり、一ヶ月幾らだったかは覚えていないが食券を買い、食うや食わずの生活をしていても夕食だけはきっちりと頂くことが出来た。しかしながら、同じようなメニューに飽き飽きしているところに、米軍のキャンプで頂くでっかいステーキやトレイにドサッと乗っけられるマッシュポテトは涙なしでは頂けないようなご馳走だったわけだ。
 当初、漠然と考えていた夢というものがあった。シンフォニーの書ける作曲家になるのが夢だった。それは笑っちゃうようなことだったが、それに向かっていると信じていたことは確かだった。しかし、博多での一年近くの日々の中で、楽器を演奏して生きることを楽しく思っていることを自分では充分に自覚していた。まだ19歳だったし、自分で言うのもなんだが、吸収する力はまるでスポンジだった。日々の進歩を感じ取ることが出来た。当時は無理しちゃって的にオーネット・コールマンやアルバート・アイラーなどを聴き漁ったりしていたが、未知なるものへの憧憬は止まることを知らず脹れ上がっていった。
 書き続けるときりがないわけだが、博多時代の続きは「70年代」にでも改めて書こうかと思う。

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故郷


 懐かしくも珍しい写真データが出てきた。2004年の11月に母が亡くなり、住んでいた県営アパートを整理する際に撮ったものだ。老朽化した建物を建て替えるためにしばらくは別の住居に移動していたが、新しくなったアパートに戻り、母にはここが終の住み処になった。戻る際には以前住んでいたものと同じ位置の部屋が用意されていて、お役所の粋な計らいに感心したものだ。北側の4階の階段から撮ったわけだが、この景色を中学、高校を通じて毎日見ていたことになる。



 もちろん見ていた景色はこれとは違う。左側の住宅のいくつかは県営住宅として建てられていたから昔からここにあったわけだが、遠くに見える住宅のほとんどはなく、広い範囲で田んぼがあるだけだった。遠くに見える山は脊振山で、電車は左から右へ移動する案配になるが、山を越すと福岡に入る。佐賀という町を故郷として認識したことはないような気がする。10年間も暮らした町ではあったが、八幡、佐賀、姫路、佐賀と転々とした自分には充分に馴染めぬままに過ぎ去った日々のようなイメージが残っている。早くこの町から抜け出そうと、そればかり考えていた。だからと言ってこの町が嫌いとかいうものでもなく、いいことは違う場所にあると闇雲に考えていたに過ぎない。若いということはそんなものなのだ。

 春にはレンゲで田が紅く染まったし、田に水が張られる時期になると夥しい数の蛙が現れた。ヤツ等がゲコ、ゲコ、ガーガーと一斉に鳴き出すとそこら中が蛙の声になった。それを邪魔しに行くのが面白くて何度か行った。小さな砂利を集めて田に投げ入れる。すると聞こえる範囲の蛙はプツンとスイッチを捻ったように押し黙るのだ。シーンとした静寂が訪れて、そこからの間が笑っちゃうほど面白かったのだ。押し黙った蛙たちは何かの異変を感じて息を潜めていた。みんなで「ウッ」ってな感じだ。しかし我慢できないヤツが現れ、遠くで控えめにゲコッと声を出す。ま、声だか何だかは知らないが蛙語を喋るわけだ。その一匹の蛙の声でみんながホッとしたような溜め息を洩らす。実際に溜め息が聞こえたわけじゃなくとも、聞こえたような気がしたのは確かだ。息を潜め肩に力が入った状態の蛙がホッとして力を抜くような気配だ。そのゲコッに安心して他の蛙がそれに続く。それもどこかで固まって鳴き出すのではなく、均等に測ったような距離で鳴き出し、次第にその間隔が狭められていくという風なのだ。元通りにみんなが鳴き出すまでに10秒もかからなかったかも知れないが、次第に数の増える様子はまるで数学だった。あれも自然の摂理に違いない。蝶が飛び、蝉が鳴き、トンボが空を舞い、蛍が川べりを妖しく照らす。蛇などという招かざるヤツ等もいたが、一年中周りに何某かの生きものがいて、そいつらを追っかけ回しつつ日が過ぎた。そんなことを思い出していると、それが故郷というものかと思い至る。上京して50年経っても佐賀の町での10年の記憶の方が鮮烈で身に染みついているようか気がする。どうやら故郷というものは場所ではなく、そこで感じた心の軌跡とかそういうものであるらしい。

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血脈



 このところ日中はほんわかと暖かい。もしやと桜の樹を撮ってみるとほんのり色付いた芽が見える。「お待たせしております」ってな感じだろうか。春だ、春だと騒ぐものでもないが、近ごろは桜が咲いたかと思うとすぐ初夏のような陽気になったしするし、この桜の花が咲くまでの一時こそが春であって貴重だとも思える。

 一ヶ月ほど前にブックオフで見つけて買っていた佐藤愛子さんの「血脈」という本があった。分厚い単行本で上中下の3巻。角田光代さんの長編はほとんど読み終え、短編集も数少なくなってきていたし、ここらでずしっと重いものでも読もうかと思ったわけだ。確かに重量は重いし、なかなか手を付けられずにいたのだけど、読み出してすぐ捕まってしまった。



 佐藤さんの父親は戦前の文壇で相当な活躍をした佐藤紅緑氏。この方は昔の人にありがちな遊び人でもあって、妻との間に4人の男の子があり、妾のイネにも一人産ませている。妾にはもう一人子供がいたが、その子も実子として認知している。それで佐藤愛子さんの母親は、紅緑が最初の妻を離縁してまで惚れ込んだ女優志望の女性シナだった。このシナとの結婚が佐藤という家を崩壊させる要因だったようにここでは書かれている。シナの舞台活動の為に奔走したようだし、とにかく彼は惚れ抜いたらしい。先妻との間の子供の長兄が八郎で、後に作詞家として知らぬ人もないほど有名になった佐藤ハチローだ。イネとの間に出来た子供の一人は後に大垣肇という劇作家になった。この本ではすべての人が実名で書かれている。さて、先妻との間に生まれた4人の男児は、親の放蕩への抗議だったのか、とにかくろくでもないヤツに育ってしまった。八郎も当初は暴れ者でいわゆる不良の最たるものだったが、文才が彼を救った。この本にはとにかく金の話が多い。次男は親からどうやって金を引き出そうかといつも考えていたようだし、紅緑はかなり苦労したようだ。女性関係のだらしなさは八郎にも引き継がれ、3人の女性と結婚を繰り返して5人の子供を儲けたが、彼の場合も男の子どもたちはあまりいい育ち方をしていない。八郎は妻妾同居などというバカなこともやっている。次々に起こる諍いごとを追うだけで3巻成り立っているようなものだけど、作り話ではなく事実が書かれているわけだから、小説というよりも手記のようであり、ずんずん引き込まれてしまうのだ。金があったからそうなったのか、そもそもそんな人たちだったのかは分からないが、金にまつわる話は切りがなく続く。佐藤愛子さんの結婚にしてからそうだ。彼女の最初の結婚は、夫が軍隊時代に覚えた麻薬依存が原因で終わるが、次の結婚は良家の坊ちゃんだった夫のだらしなさで彼女は追い込まれていく。彼もまた作家志望の若者で、その巧みな弁舌に惹かれて結婚したのだが、わけの分からない会社を作るあたりから脱線し始める。彼女は夫の抱える借金に追われる立場になっていくのだ。「血脈」でも触れられてはいるが、「晩鐘」ではその経緯が細かく書かれている。どういうわけか「晩鐘」は実名で書かれていない。彼とは籍も抜いて他人になっていたのだが、それでも金の無心に来る度に出していたらしい。愛情などすでになかったそうだけど、佐藤愛子という人はどうやら放って置けない方らしい。親分肌というか姉御肌というか、侠気の強い方であることは間違いなく、その筋に行けば相当な親分になっていたかも知れない。彼女の芥川賞の候補になった「ソクラテスの妻」や直木賞を受けた「戦いすんで日が暮れて」などは彼女の日常の体験から生まれたものだ。このような本を読むと、作り話である小説というものがしばらく読めないなあ、ってのが実感なのだ。

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迷子


 近ごろやたらと高齢者のトラブルを聞く。車で女性を押し倒した人もそうだし、ご近所との諍いで揉めている人もいる。なんでもスーパーの万引き犯は高齢者が多いらしい。万引きはしみったれたことだが、生活困窮の末ってなケースもあるだろうから情けない話ではある。それぞれは小額でもスーパー側の被害は案外大きいと聞く。よく分からないのは近所とのトラブルで揉めている爺さんたちで、ごみ屋敷とか、生活道路として定着していた道を私有地だから通さないなどと塞ぐ手合だ。こちらも高齢者に近付きつつあるというか、ま、突入しちゃっているわけだが、同級生のようなものだから、知っていれば「おまえ、何やってんだよ」と言うこともできようが、見ず知らずであればそうもいかない。彼らが豹変する切っ掛けは連れ合いを亡くした辺りからだという。たぶん孤独感に苛まれ、あらぬ方向に心が動いてしまった結果ではないかと思われる。誰かと交信したいのだけどその術はとっくに忘れてしまっていて、どうすればよいのかがすでに分からない。心境は手負いの獣のようでもあり、孤独感は深い。もう吠えるしか術はない。吠えれば誰かが振り向いてくれる。怒鳴れば誰もが怖いものを見る目つきで恐れてくれる。「こりゃあ、いいや」ってな感じで深みに落ちていく。95歳になる作家の佐藤愛子さんは「歳を取り、周りにいた人が次々と消えていくと、予想していたものとは桁外れの孤独感に襲われる」というようなことを書いておられた。そうなんだろうと予測はできるが、実際にそうなってみなければ怖さは分かるはずもない。家にはねこ2名がいて、それはそれで交流できているわけだが、それが去って周りからも人が消えていくと考えたらこんなに怖いことはない。想像しただけでも、穏やかな日々が消えていくわけだから気分は3段階ほど落ちる。そんな日がやって来て耐えられるかどうか。その日に備えてご近所に怒鳴る為の訓練をしておく、ってのは違うし、そう簡単に意地悪爺さんになれるものでもない。たぶん荒れている爺さんたちは、まったく予期していなかった立場の変化に戸惑い迷子になっているに違いない。そもそも自分は何だったのか、というように弱い自分と向き合うことが怖いのだと思われる。目下のところ、その日が来るとすれば、強くあらねばと言い聞かせつつ待つしかないのだ、これが。

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虚像


 若くしてスターに登りつめる代表がアイドルという存在だった。そこに至るまでの確固たる方法があるわけでもなく、しかしながら目指す女の子はそこら中にいた。いろんな噂を耳にした。ずいぶん昔の話だ。どんなプロダクションだったかは謎だが、ある養成所ではスッポンポンの裸で一時間畳の間に座らされる訓練があると聞いた。みんな「ええーっ」と声を上げたが、その養成所にいたという女の子と付き合った仲間が言うものだから半信半疑でも「そうなんだ」と声を顰めた。そういった訓練は羞恥心というものを取り除く目論見で行われていたという。なんと乱暴なやり方かと驚いたが、アイドルと呼ばれた人には元ヤンキー、いわゆるスケバンのような存在で闊歩していた方もいたからあり得ないことでもない。箱入りお嬢様では務まらない世界というか、何にしても度胸が大事だってわけだ。どちらにしても容姿に自信のある若い子が大勢集まるそのような場所では二十歳を過ぎるともう望みはないとも聞く。ずいぶん前にアイドルを目指していたことがあるという女性と知り合った。付き合ったわけではないが、交流があって幾度かライブにも足を運んでくれた。すでに若くなく、中年にさしかかる一歩手間だったが、若いころはさらに美しかったに違いないと想像させる華やかさがあった。しかしながらその歳になってもアイドルへの執着が消えていないのが理解できなかった。普通に生きることを拒否しているようにも見えたし、そもそも普通に生きることが分からないようにも思えた。 
 ほとんどテレビを見なかった時期に誕生したスターの一人が天地真理という人だった。見ないといっても、この方はあらゆるメディアでもてはやされたから見るともなく見ることになった。ヒット曲も知っているほどにだ。先日、彼女の全盛時の姿を見て驚いた。その可愛さは群を抜いていた。後にも先にもこんなアイドルはいないと断言できるほどに見えた。ブームを巻き起こしたのもむべなるかなってな感じだ。まさに70年代のスターだった彼女も30代半ばになるとアダルト映画に出演したりして迷走し始めた。アイドルのまま歳を重ねることは不可能だろうし、どこで転換を図るかは難しい。週刊誌は「元トルコ嬢だった」などとバッシングしたこともあったし、良からぬ噂を撒き散らすことに余念がなく、人気の陰りに追い討ちをかけた。スターというものは虚像であって、実際にどんな人なのかは知らずともいいわけだが、ほじくり返して転覆させずには置かないのがこの世界らしい。そんな流れもあって彼女は消えていった。そして60歳近くになって再びテレビに姿を現したとき、彼女はそこらにいる普通のおばさんになっていた。歳を取れば誰だって変わる。変わらないわけがない。芸能界には70を過ぎても若いころの輝きを維持し続ける方もいるわけだが、その方が異常なのだ。倍賞美津子さんは年齢に逆らうことなく存在感を失っていないが、稀な方であることは確かだ。
 天地さんは容姿のケアーにまったく無頓着だったらしく、あまりといえばあまりの変わりようだったが、見られるということを意識せずに生きるということはそんなものらしい。だが、70年代の彼女の輝きが特別なものであることは間違いないのだ。

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