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季節は巡り


 駐車場への行き帰り、つい花たちに目がとまってしまう。春なんだなー、ってなことを言いたくなってしまうわけだ。



 東中野に住んでいたころも、桜の季節は「ほーっ」とか「へー」などというのはあったけど、このような花を見かけたことは記憶にない。



 いわゆる大邸宅の庭先などにはあったかもしれないが、コンクリートで囲まれたような町並みでは無理というもの。

 

 猫を抱えて越してきて10年、四季折々楽しませていただいている次第。
 冬の間は生け垣にも痕跡は見当たらず、もう死に絶えたかと思わされたおっちゃんの家の薔薇も芽吹き、もうすぐそこらが真っ赤に染まるってな案配。

 
 自然の摂理とはいえ、こいつ等は四季のスパンをしっかり認識しているらしい。ってなことに感心しつつ一年の3分の一が過ぎようとしている。速い、時の経つのが実に速い。

 先ごろ毎年行われる同窓会の案内が来た。今年はパスすることにした。当たり前のことだけど、未来への展望など出るわけもなく、同窓会というものは概ね昔の話しかしない。御多分に漏れず年寄の集まりだから病気自慢とかは出るけれど、昔の話だけが共通の話題だから仕方ない。懐かしさだけで語られる昔の話は罪がない。その後それぞれに歩いてきた道は不問に処し、その短い時代だけを摘みあげて愛おしむってのが少々疲れることに最近気付いた。高校卒業30周年の集まりは超が付くほど面白かったが、やはり同窓会というものはその位の時の経過があって初めて成り立つような気がするわけだ。

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支持率



 内閣支持率が下がったと昼間のワイドショーのような番組で盛んに言い、現政権もこれまでかと煽り立てる。聞かれた方が深刻に考えているわけもなく、最近の報道から適当に答えているような気もする。だいたい示された数字はいつだって胡散臭い。こういった茶番は常にマスコミからの発信で、彼らの遊びに付き合わされている国民という図式にも見えてくる。と、まあ、誰が首相になろうと結局は同じだし、何十年にもわたって繰り返される政権攻撃を見てしまうと、そんな風にも思えてしまう次第。

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凶暴なこと


 1972年といえば、一度はビッグバンドに入ったものの、主な仕事は歌伴の旅とダンスホールで、たまにテレビ番組の収録などもあったが、とにかく自由な時間の少なさに音を上げ、キャバレーやクラブで演奏している方がいいやってんで夜店の仕事に戻ったころ。上京する少し前に安田講堂事件もあったし、ただ騒いでいるだけのように見えていた学生運動は沈静化する兆しもなく、新宿駅が封鎖され、次の日に行くと、あちこちの騒乱の跡が残っていたりした。一度は駅のホームで対峙する集団を見た。双方30人以上はいただろうか。ゲバ棒(竹竿のようなものだったと記憶している)を手にした2つの集団が、向かい合って声を出していた。どちらも先頭の列は膝をつき、次の列は中腰、最後の列は直立ってな案配で、全員ヘルメットにタオルで口元を隠す姿だったから異様な光景には違いなかった。驚いたのは女性の姿が多かったことだ。掛け声は「ヤーッ、ヤーッ」というようなものだったが、なにしろ20代前半の若者が本気でぶつかりあえば、只事ではすまないだろうという緊迫感だけはあった。それでも、見ている方からしてみれば「この人たち、何やってんだろう」というものでしかなかった。
 そんな折、あさま山荘事件が起きた。連合赤軍の5人が人質をとって立てこもった。調べて分かったのだが、2月19日から2月28日というから、実に9日間も騒ぎは続いていたわけだ。



 テレビは昼夜を問わず中継を続けていた。仕事に行く前も、帰宅してからも、毎日、テレビを点けるとそればかりだった。実際、凶弾に倒れた人もいるわけだが、9日間の中継を見続けたわけでもなし、事後のニュースでそんなことを知らされた。見ている人のほとんどは彼らの主義主張など知ったことではなかったし、相変わらずバカやってんなあ程度であって、所詮は他人事でしかなかった。取り囲む機動隊と銃撃戦やって、一体どうしたいのだろうとしか思えなかった。革命闘争などと言われても「なんのこと?」ってな案配だったが、彼らはそれを信じていたのかどうか。もしかすると信じようとすることに精を出していただけではないかとも思えた。
 あさま山荘の事件の時点では、彼らの山岳ベースでの凶行、12人の仲間のリンチ殺人については明らかになっていなかった。事件が収束した後に発覚して大騒ぎになった。陰惨な事件の経緯については多くのことが語られているし、ここでは触れない。「光の雨」はこの事件を劇中劇の体裁で映画化したものだが、主犯格を演じた山本太郎が役者の立場で言う台詞がある。「ビビってたんちゃうか?」
 次々に仲間を死に追い込んでいた成り行きに平静であるはずもなく、内心動揺していたのだろうと推察されるわけだが、逮捕後に各々が手記でそのことを記述している。後に獄中死した主犯格の森はこの時28才、永田は27才。あさま山荘に立てこもった5人は24才、25才、26才、19才、16才。
 このことを書くきっかけになったのは、ある本で読んだ次の一節だった。これは立てこもったメンバーの一人の手記の一節。「少なくとも、十二名に対して総括を求める側に立ったもの、とりわけ、指導的メンバーは、警察に対して文字通り徹底抗戦し、その結果殺されて初めて、十二名に対する申し開きが立つ、とでもいう思いがあった・・・・」
 知的な集団が暴力遂行の魔力に搦め捕られ、エスカレートするばかりで戻るに戻れず崩壊した様子を見ることが出来るし、ほとんど言いがかりで相手を追い詰めた根のところに、そもそもの人の凶暴性が見えて恐いのだ。

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 加山さんが所有することで知られているクルーザー「光進丸」が燃えたというニュースが報じられた。エーッと驚き、16年ほど前のことを思い出した。当時僕らは加山さんの大掛かりなツアーで全国を回っていた。ストリングセクションもいたし、コーラスにはタイムファイブがいるというツアーだった。そのツアーの半ば頃、リズムセクションとホーンを担当するバンドのマネージャーから話があった。加山さんが皆を船に招待したいと仰っているわけだけど、まさか断るなどという不心得者はいないだろうな、ってな調子で始まった。その前に、それとなくその期日辺りの都合を訊かれていたから、有無を言わせず決定した期日を知らされることになった。マネージャーの作戦勝ちだった。もちろん遊びだから拒否する理由はないのだけど、なにしろ当時はツアーでご一緒していたわけだから、僕らとしては仕事の延長のようで、手放しで喜ぶという気分にはなれなかったわけだ。なにしろ船だ。乗ってしまうと自由はない。
 昔のことで何人いたかはよく覚えていないが、10人ほどで行った。船の係留地は沼津辺りだったと思うが、当日向かうのでは朝が早過ぎるというので、前夜に近くの町に宿を取り一泊して船に乗り込むという段取りになった。当日の朝、ピアニストは体の具合が悪いと言って離脱。残された者にしてみれば「あっ、逃げたな」ってなものだった。
 船に乗り込んだのは昼ごろだった。加山さんは「カレーうどんの美味いの作るけど喰うか」と歓待してくれた。若大将自家製のカレーうどんはやたら美味かったことを覚えている。その日の夕食に何を頂いたかはまったく覚えていないのだけど、カレーうどんだけは強く記憶に残っている。船は豪華なものだった。調度品も何も立派なもので、これは究極の道楽に違いないと思えた。事務所のスタッフには不評だったようで「係留にかかる費用がバカにならなくてね」などと聞いた事もあった。維持費が大層かかる道楽だったらしい。
 アシストする若い通いのスタッフも何人かいたし、加山さんは船の中では船長と呼ばれていた。昼間、漁船が近付いてきた。近隣の漁師とも付き合いはあったようで、彼ら夫婦は加山さんの顔を見ると「あ、なんだ・・・・か」と言い、クルーザーが底引き網にからんでいるようだから対処してくれというクレームを残して去っていった。早速スタッフの一人が海に潜っていった。その時の中年の漁師の顔には、海に生きる人のたくましさが刻まれていた。そこらのオジさんオバさんでは、まず見ることのない強靭な力を感じて圧倒された。夕食の前には小型の板きれのような舟艇に乗り、高速ボートのスリルを味わった。
 夕食が終わると何もすることのない時間が始まった。船にはテレビなどあるわけもなく、外は海の暗闇。歓談するったって毎日のように顔を突き合わせている連中の集まりだ。加山さんが寝室に消えるのを待っていたかのようにカードが始まった。何もすることがないから、しばらく観戦することになった。途中で誰かが現金を出すと遊びではなくなり、本格的な博打に変わった。クルーザーでの休日の最後が博打じゃ、しょうがねえなってなものだったが、ま、そこらはバンドマンとマネージャーの集まりだ。見る見るうちに顔つきの変わっていく様を見ていて「博打ってのは怖いな」と恐れ入った。朝方までやっていて相当負けた方もいたらしい。
 わけの分からない休日は終わり、船を降りた時には安堵のため息が出て、なんだか一つ仕事を終えたような気分で帰途についた。あの船が無くなってしまったのかと残念な気もしつつ、また一つ閉じこめられる記憶が増えたなと思う次第。

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かゆくなる話



 姫路で暮らした子供のころ、一度だけ「うるしかぶれ」を経験した。近所の悪ガキ連と山を歩き回り、その際に「うるし」に接触したらしい。本人に思い当たることがあるはずもなく、次第にみにくく腫れてくる腕を見た誰かに指摘されて知った。触れたあたりが見る見るうちに粒々の腫れで覆い尽くされる不快な現象に蒼ざめた。どのように治ったのかは覚えていないが、この世には知り得ていない怖いことがあるのだと学習した。
 小学生のころ、何度も「蕁麻疹」になった。原因は覚えていない。「じんましん」は今でもあるようだが、食物アレルギーだとかストレスだとか、原因は特定できないケースが多いらしい。成長するに従ってかからなくなっていったから、アレルギーというよりも、多感な少年の知恵熱のようなものではなかったかと思える節もある。

 最後に蕁麻疹が出た日のことを覚えている。新たなバンド生活を始めた博多でのことだ。博多のバンドに入るに当たって、住む部屋はバンドマネージャーの牧野さんが用意してくれた。「何とかするから」と言われていたのだけど、こっちは新たに部屋を借りるほどの資金は持ち合わせていないし、どうなるのだろうと不安に駆られていた。牧野さんのとった方法は絶妙だった。それまで「キャバレー赤坂」で仕事をしていたトランペット奏者を岡山に送りこむという乱暴なやり方だった。牧野さんは博多の店だけでなく、岡山や広島辺りまでバンドメンバーをブッキングしていて、そのようなことは軽くできたのだ。そこで、岡山に送りこむ人の部屋が空くわけで、「ぼーや、おまえがそこに入れ」ってな話だった。突然の移動話にトランペット奏者は憤懣やる方ない様子だったが、話は即決で揉めている暇もない。言われた次の日に岡山に向かうことになった。そこで彼の案内で部屋に赴いた。寝るだけの部屋という体裁で、たいした家具などはあるはずもなく、それでも急な引っ越しで持って行けない洗面器などを無理やり買わされた。彼は岡山で寮に入ることになっていた。
 水道も何も共同の部屋は自炊することなど考えられなかったし、朝と昼はパンで済ませたりしたが、食事は外食以外の選択肢はなかった。バンドメンバーには店の賄いのチケット(有償だが)が配られていて、夕食は控室脇にあった小さな食堂で頂くのが基本だった。仕事が終わるのが夜11時半。お腹は減るわけだが、帰りにどこかに寄って食事をするほどの金もなく、だいたい昼の残りのパンなどでしのいだ。あの頃カップラーメンがあれば、そればかり喰っていたに違いない。バンドのギャラは15日置きに支払われた。最初のギャラを頂いた日、食料を備蓄しなきゃと色々買ってきた。その中にコンビーフ缶があった。金属の鉤のようなものが付いていて、それで周りを捻り切る例の缶だ。それまでに食べた記憶はなかったが、これをパンにはさんで食べるのは悪くないと思えた。食べて一時間もしない内に発疹が始まった。「わーっ大変なことに」ってな感じだ。あれ以来コンビーフ缶は食べていない。
 牧野さんは、時々店の仕事を休ませてでも米軍キャンプでの仕事などに使ってくれて、その際には特別なギャラが発生した。ウハウハだった。店のバンドの主要メンバーが抜けるわけにも行かず、もっとも若い「ぼーや」は使い勝手が良かったらしい。2ヶ月もすると給料が増え、ギャラを頂いた日には、帰りにレストラン「ハチロー」で憧れのカツ定食などを頂くことが出来るようになった。何もない部屋に一人でいるのはこの上なく退屈で、昼過ぎには店に行って練習する生活を博多では続けた。
 で、そのコンビーフ缶だ。美味かったと言われれば首をひねるしかない。モサモサとパンにからむ食感はどこか罰ゲームのようだったし、たぶん、そのとにかく飲み込んでしまえば何とかなるってな我慢がストレスとなり、忌まわしい蕁麻疹を引き起こしたに違いない。

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