☆☆☆

楽譜とCDと



 さて、PCの打ち込みで音楽を作るときは音源が充実していた方が何かと好ましい。それで次々とキーボードや音源モジュールが増えていくわけだが、昔使っていたサンプラーを再度立ち上げた話は書いたばかりだ。古いSCSIの機器を入手して準備は万端のはずだった。しかし、この外部ディスクを操作するマニュアルが見当たらない。操作方法をまったく覚えていないから困ったことになった。音出しは出来たが、立ち上げる度にフロッピーから音源を供給するのでは手間がかかり過ぎる。そうなのだ、この時代の機器はフロッピーが大活躍だったのだ。フロッピーから読み込んだ音源をハードディスクに移すというのが大事なところなんだが、それが覚束無いわけで意気消沈と相成った。こうなれば家捜ししてマニュアルを見つけるしかない。
 前々から整理しなきゃと思っていたから、いい機会だってなものだ。本棚には僅かな本と数多くのスコアなどの楽譜類、CDが詰め込まれている。マニュアルそのものは30ページ足らずの薄い冊子だからどこにでも紛れ込む可能性がある。で、大捜索が始まった。なかなか見つからないのは仕方ないが、懐かしい譜面などが現れてついつい見入ってしまう。その時間の方が長くなる。しかしながら譜面類のその多さに我ながら驚いてしまった。曲集に関しては日本の出版社から出ているものはほとんどなく、すべてアメリカのサイトから取り寄せたもので100冊近くある。中にはビートルズの全曲完璧スコアもあるのだ。どういう経緯で買ったかは覚えていないが1万円ほどで入手した。オーケストラスコアも同様。使う当てがあるわけでもないのに、もうこれは収集癖と言ってよい。ただ一曲だけのために買った映画音楽の曲集もある。それで探していることも忘れて曲集を検分しているようなことになった。それが一段落して思ったのは、結局のところ譜面とCDに囲まれて生活していること。例えば更に歳を食って楽器も吹けなくなり、耳も遠くなって音楽から遠ざかる日が来るとすると、楽譜もCDも処分するに違いない。そうなると何もなくなっちゃうなあというのが実感だ。結局マニュアルは見つからなかったのだけど、何もない部屋でボーッと過ごす自分の姿が見えたような気がして少々複雑な気分だけが残った。

拍手[0回]

レースしているわけでもないのに


 郊外に越してきて10年ほどが経つ。未だに慣れないのは車の運転で、都心部に比べれば大雑把というか下品だ。運転する人に共通するのは信号で止まりたくないという心理だが、それもここいらでは際立っている。どちらかと言えば都心部の方が運転マナーはいい。それは道路事情にもよる。例えば赤坂の大きな交差点で、信号が黄色で横断を決行したとすると、交差点そのものが大きいものだから道半ばで完全に赤になってしまう。途中で黄色に変わったものならいざ知らず、黄色で突っ込んで行くのは無謀ともいえる。しかしながらこの町では黄色は「まだ行ける」という判断になるらしく、右折車は赤になってから焦ったように何台か連なって曲がって行く。ま、それがここでのルールらしいから仕方ない。先日、東中野の駅前で元アイドルのおばさんが信号無視の揚げ句に自転車を撥ねて逮捕と相成った。赤信号で止まりたくなかったのか、まだ行けると判断してしまったのかは分からないが、無茶な運転であることは間違いない。うまく自転車を除けることが出来たとしても逮捕されてしかるべき運転だ。その上、飲酒だという。酩酊で判断が狂ったのかどうかは知らないが、事故を起こした瞬間「しまった」と思っただろう。たぶん日常的に飲酒運転を繰り返していたものと思われる。今回も事故さえ起こさなければ誰にも分からなかった。むかしの演奏仲間には毎夜のように飲酒運転で湘南方面に帰るヤツがいた。危ないことこの上ないのだが、ケラケラ笑いながら「ほんじゃ、また」などと言って帰っていった。彼が飲酒運転で捕まったという話はついぞ聞くことがなかった。ま、そんなものらしい。
 今の人たちはこぞって大きな車に乗りたがる。まるで小型バスのような車が流行らしい。車幅感覚がつかめないらしく、特におばさん系の車には擦った痕のある車も多い。それに車そのものの性能が著しく向上し、スピードは出るし故障も少なく至れり尽くせりの装備も整っている。それは取りも直さず凶器としての完成度が上がっていることを意味する。




 黒澤明監督の「天国と地獄」の戸倉警部の台詞の中に「自動車」という言葉が度々使われていた。「わたしは自動車で移動する」というように。1963年(昭和38年)当時、今のように「車」と省略せずに「自動車」と言っていたらしい。マイカーブームは1964年のオリンピック以降に訪れる。それに先駆けていたのは1960年のマツダクーペと1958年のスバル360で、小型過ぎるほど小型だったが、手の届きそうな価格で誰もが車を所有できるという夢を与えた。たいしたスピードが出るわけもなく、のどかな時代の優しい車たちだった。
 ぼくらの2世代ほど前のバンドマンの車の話には笑えるものが滅法多い。スタジオミュージシャンとして多忙を極めたころ、移動が面倒だというので各スタジオにドラムセットを置いていたというチコ菊池さんの話に大笑いしたことがある。
「ほら、車ったってさ、当時のオレらの乗れる車はだいた中古車でさ、それも恐ろしく安い車を見つけて買ってくるんだよ。いわゆるポンコツ。それでさ、乗せてもらった車は助手席の床に穴が空いててさ、道路が直に見えるんだよな。ま、それでも問題ないんだけど、困ったのは雨の降る日でさ。むかしは今のようにどこでも道路が舗装されているわけだじゃないだろ。水たまりが出来ていたりすると、運転しているヤツが「来るぞ」ってなことを言うわけよ。で、水たまりに突っ込む前に足を上げるんだよ。そうしないと水しぶきがひっかっちゃうからさ。助手席に乗って走っていると、オレらの車の前方に凄い勢いで転がって行くものが見えるんだよ。よく見るとタイヤなんだよね。タイヤじゃねえかなんて言っていると車が次の瞬間ガタンって傾いちゃってさ。外れたタイヤが転がっていってたんだよね。もう大笑いでさ」
 植木さんの話も若いころのものだった。「友達の車に5人ぐらい乗って、さあ帰ろうって車を出したのはいいけどね、ハンドルがおかしくなっちゃったらしくてね、右に切れないのよ。真っ直ぐと左折は出来るんだけどさ。みんなを送って行かなきゃならないし、走らないわけじゃないから行こうぜってことになってね、左折だけで走ることになったんだよ。左折しか出来ないから目的地はすぐそこなのに大回りすることになったりするんだよ。みんな必死で考えるんだよね。先が袋小路で戻れなくなるからそこは曲がっちゃダメだとかね。それでクルクル左折だけでみんなを送り届けたんだからたいしたものというか、今思い出しても楽しかったなあ、あれは」
 穏やかな時代の話だけど、車なんてものはたいしたスピードなど必要ないし、長距離ならともかく、そこらを走るのにスピードを出して走っても所要時間に大きな差があるわけじゃない。一刻を争うような事態になっているとも思えず、みんな気を取り直してのんびり行こうよ、ってなことだ。

拍手[0回]

魚問


 2015年の直木賞を得た東山彰良氏の「流(りゅう)」の中に、中国の詩人の一節が象徴的に引用されている。「魚が言いました・・・わたしは水の中で暮らしているのだから あなたにはわたしの涙が見えません」(魚説・・只因為我活在水中、所以你看不見我的涙)
 痛みや悲しみは、だれでも抱えているのだけど、他人のそれは見えず、自分だけが抱えているように思って悩む。わたしたちはみな魚なのだ、と解釈すると小説のやるせない感情が浮き彫りになってくる。ま、深い詩だ。相手を理解することが何らかの希望になるというようなものでもなく、生きるものの哀しさを、ただ放り投げたような詩だと思う。

拍手[0回]

その日のために



 昼のテレビ番組で、縁者のいなくなった古い戦没者慰霊碑などが多く、その処置に困っているという話を聞いた。小学生のころを思い出した。僕らの町にはやたらと寺があった。狭い町内に3つあったし、隣町にもあった。墓所は子供の絶好の遊び場だった。怒られたこともあったが、冬場にたまさか雪が降ったりすれば、早朝の内に雪合戦などもした。もちろん、夜の墓に行くものなどいなかった。夏休みには肝だめしの会場になることもあったあの恐ろしい墓場に好き好んで行くものはいなかった。昼間は怖いなどと思ったことはないのだから不思議なものだ。どの寺の墓場にも荒れた一角が必ずあった。墓参りする人を無くした墓は草が生い茂り、墓石も黒ずんで彫られている文字の読めないものもあった。それらは無縁墓というらしい。放置された無縁墓は解体撤去されるらしいが、それはかなりの年月の後だと思われる。将来的に墓を守る人がいなくなることが予想される場合は「墓じまい」というものが用意されている。寺の管理から抜けるときにお布施がいくらか発生し、墓を解体する費用、遺骨を改葬先に納骨する費用などなど、これが案外かかる。墓じまいすることもなく無縁墓となっているものは全体の4割ほどあるという。墓も慰霊碑も死者のことを知っている人たちのためのものだ。弔う人たちのよりどころのようなものだから、知っている人が誰もいなくなれば存在は宙に浮いて無意味なものに成り果てる。ギターの松木さんは葬儀など一切を拒否して亡くなった。それに倣おうと考える。死んだ自分には何も分からないからそれでいい。葬儀も身内だけで行なうのが望ましい。墓場の一画に収められるのも、自分には分からないとはいえ何だかありがたくない。骨は拾ってもらうにしても、そのうち土に還して頂くことが望ましい。何も今日明日にという話ではないが、歳を取るとそんなことを突然考えて狼狽えたり焦ったりするものなのだ。

拍手[0回]

避難の転校



 転校生の話には続きがあった。転校して1年、4年生になっていた。ある日、伊勢湾台風を経験した名古屋の小学生がこの学校に編入してきたので、その時の体験談をお話して頂くことになったと先生が言う。質疑応答のようなものもあったような気がするが、だいたいはその見るからに利口そうな女の子一人で一時限近く話した。立板に水、淀みなくスラスラと、たぶん僕らのクラスに来るまでに幾つも教室を回ったに違いなく、そもそも流暢だったものがさらに滑らかさを増し、つっかえることなど一度もなく体験談をお話しになった。同じぐらいの歳の子の、その流暢さに舌を巻いた。たぶん自分のクラスで話したのを聞いた教師が「これは・・」と驚いて、その運びになったものだと思われる。
 彼女らの住んでいた地域はいわゆる海抜0メートル地帯で、海面より土地が低かった。台風の強風は強烈な高潮を生み、決壊した堤防もあるほど海は荒れ、かなりの範囲で町は水没した。この時の被害者は5000人を超えている。多くは流木による犠牲者だったという。台風が直撃したときの恐怖なども聞いたはずだがあまり覚えていなくて、唯一記憶に残ったのが割合きたなく尾篭な話だった。とにかく一命をとりとめた者たちがいることの出来る場所は屋根の上だった。水で流された家も多かったから、あがる屋根があっただけでも幸運だった。屋根の上で水の引くのを待つ孤立した人たちがポツン、ポツンと見えたそうだ。そこら中が水没しているわけだから、避難する場所も早急には確保できない。食糧だけは舟で運搬されていたものと思われる。とりあえず助かった人たちは水の上にぽっかり突き出た屋根の上で過ごすことになった。助かった安堵は屋根の上での生活の厳しさに勝っていたようだが、困ったのはご不浄だった。それで、数日経つとあちこちに便が包まれた紙包みのようなものがぽかりぽかりと浮いていたそうだ。ましてや当時は水洗ではなくほとんどの家がくみ取り式の便所だった。その汚水も拡散しているわけだから衛生上の問題は深刻だった。地域によっては水が引くまでに半年を要したところもあるらしい。この台風によってトランジスタラジオが普及することにもなった。
 伊勢湾台風は台風の恐ろしさを伝える際に必ず引き合いに出されるものになった。あの女の子がどれほど学校にいたのかは知らないが、全校30クラスほどをほとんど回ったのではないだろうか。

拍手[0回]

カレンダー

08 2018/09 10
S M T W T F S
1
3 6 8
10 11 13 15
18 20 21
23 24 26 27 28 29
30

アーカイブ

最新コメント