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失恋の歌


 何十年も前に住んだアパート再登場。右手は裁判所官舎の敷地で、建物までが大きく空いていて、狭い部屋だったにも関わらず閉塞感はなかった。そんなことが居心地のよさにも繋がり、駅前の広い部屋に越すまで何年も住むことになったのだと思われる。



 ここには様々な想い出があるが、今日たまたま中島みゆきのまとわりつくような歌を聴いて、あの夜のことを思い出した。帰宅は夜遅くなった。アパートは大久保通りから10メートルほど入ったところにあり、街灯はあったが、夜は幾分寂しげな通りになった。部屋は3階だった。階段に差し掛かった時、先客の女性がいてすぐ後を上がるようになった。突然、その女性が振り向いて騒ぎ始めた。何事かとまごついたのだが、どうやら痴漢と間違われたらしきことが分かった。冗談じゃねえ、ってなところだ。女性はかなり酔っていた。3階に上がってドアを開けるまでヒステリックに叫んだりしていたが、住人だと知ると治まった。しばらくして、ドアのチャイムが鳴った。先ほどは申しわけなかった、お詫びといってはなんだが、少し酒に付き合ってくれないかという。懇願するような様子が気の毒にも見えて、たいして飲めもしないのだが少しだけだったらと付き合うことにした。名前をよく聞くレミーマルタンのおどろおどろしい瓶が出てきた。いい酒は酔い心地もいいものだということをその時知った。取り留めのない話をして小一時間もいただろうか。「いやいや、勘違いは誰にでもありますから」などと分かった風な口をきいてお暇することにした。今でも銀座のホステスなどを見ると、だれでも年上に見えてしまうほどで、女性の年齢というものは分からないのだが、歳はともかくすらりとした美人だった。そんな人が階下に住んでいることも知らなかった。部屋に戻った後、彼女の部屋の開け放った窓から繰り返し繰り返し同じレコードが聞こえてきた。聞いているうちに、それが失恋の歌だと分った。どうやら男に振られたか別れ話をしたかで、情緒不安定になっていたらしきことを知った。一緒に飲むことで少しは気持ちが紛れたかもしれなかった。それまでにも一度も会っていなかったわけで、そこから先も会うことはなく、いつの間にか越して行ったことを新しい住人が挨拶に見えて知ることになった。

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