☆☆☆

消えること


 毎度の辛気臭い話だ。人の死というものを最初に知ったのは小学1年か2年、姫路に住んでいるころだった。姫山住宅という、今でいえば団地のようなところがあった。三軒ほどの平屋の住宅が連なった長屋のような棟が幾つもあり、そこは東町、西町というように区分けされていた。それとは別に、やはり木造で大きめの大所帯のアパートのような建物もあった。そのアパートのような建物の一室で首を括った人がいるという噂があっという間に広がった。不気味な話だったが、その部屋のそばまで行った。多くの人が詰めかけていた。もちろん子供などが近くに入れるわけもない。遠巻きにしているだけでも、暗い部屋で自ら命を絶った寝巻き姿の男の姿が見えるような気がした。「襖に血で書かれた遺言があった」という話も聞こえた。何か書かれていたのは確かだろうが、血で書いたというのは作り話のような気がする。死というものを認識していたかどうかはともかく、建物の通路の暗さやその場の放つ重苦しい空気などにショックを受けたことは間違いなく、50年以上を過ぎた今でも忘れない昭和30年代初めのことだ。 



 それからも親戚内の弔事を聞きはしたが、長寿で天命を全うした者に対してのショックは別のものだった。ミュージシャンとして働き出して知り合ったバンマスに、元シャープス&フラッツでドラマーとして名をはせた武藤敏文さんがいた。当時は独立してニュー・シャープスというバンドを率いていらっしゃった。レギュラーとして鴬谷のグランドキャバレーに出演する傍ら、不定期に米軍キャンプの仕事などがあった。どういう縁か、一度だけ誰かの代わり、いわゆるトラで鴬谷の店に行った。すると武藤さんから何かにつけて頻繁に電話が入るようになった。その頃ウチには迷惑な電話魔がいて、うっかり取ると1時間も2時間も付き合わされた。武藤さんはその間中イライラと待っていたらしく、開口一番「しかし、長い電話だよなあ」と仰った。何が気に入られたのかは分からないが、とにかく自分のバンドに来いと何度も何度も誘われた。ある夜は「何か、そうだ車買ってあげるけど、どうだ」とまで仰った。絶句した。そりゃあ、ま、気に入られて気分が悪いはずもないのだけど、ちょうど新宿のピットインに出演して盛り上がっていたころだ。大所帯の中で演奏する心境にはなれなかった。ある日は楽屋で話し合いになった。武藤さんは昔の写真アルバム持参で、海外の多くのジャズメンと共演した際のスナップを嬉しそうに何冊も見せてくれた。この場所に一緒に行こうよと熱弁を振るわれた。トラで行くのは問題なかったが、武藤さんの誘いを断るのが申しわけなく思えて少し間を空けようとした頃だった。訃報が入った。武藤さんの趣味の一つがモーターボートだった。その日は子供を乗せて東京湾に出ていたそうだ。もしかすると時間の読み違えで焦っていたのか、帰りに操舵を誤り橋桁に激突し亡くなられた。子供の安全を確認して沈まれたと聞いた。武藤さん亡きあと引き継がれた方の元でも何度か演奏したが、もう来る必要はないなと痛感して行かなくなった。亡くなってからだ。武藤さんの人柄に惹かれていたことが分かったのは。縁は不思議なものだと思う。相性というものがあって、その人の前に出ると自分の悪い部分が首をもたげて来る場合もあるし、その逆に素直になって穏やかでいられる場合がある。武藤さんの場合は後者だった。嫌味な自分はすっかり影を潜め健全でいられた。死というもの、あの時初めて何かを失う悲しさというものを知った。

拍手[0回]

コメント

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

カレンダー

10 2018/11 12
S M T W T F S
2 3
5 6 7 9
11 12 13 15
18 19 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30

最新記事

アーカイブ

最新コメント

[09/26 s・f]
[09/26 ぐれじゅー]