☆☆☆

病巣


 駐車場の桜の樹は開花が遅れていて、今日か細い一輪を見つけたのみ。蕾は赤く膨らんでいるから明日あたりから焦ったように咲き始めるものと思われる。



 このところいわゆるイジメ自殺に関して、調査委員会などが原因をイジメにあると特定するケースが立て続いている。ちょっと前までは、教育委員会などが独自に調査した結果イジメと自殺に関連性は認められないと言い続けて白を切っていたことから考えると、何かが大きく変わりつつあるらしい。しかしながら、死に追い込まれた子供を持つ親の会見はいつだって痛まし過ぎて見ていられないほど気の毒だ。彼らは胸にあるであろうものを殊更押し隠し、我が子を殺されたようなものであるにも関わらず涙しつつ無念さを語ることしか出来ない。こんな残酷なことが起きていることは理不尽以外の何ものでもない。我が子を死に向かわざるを得ない状況に追い込んだヤツ等に殴りつける、傷つける、死に至らしめようとも構わず何らかの仕返しをしようと考えることが無いわけがない。しかしそれも出来ず唯々ひたすら耐えるしかないのだ。イジメから始まった自殺は間違いなく殺人であって、遊びの範疇だったとかで言い逃れできる性質のものとは思えない。まず苛める側にその意識が皆無だというのも恐ろしく、そこのところの意識を改革するしか、この馬鹿げた連鎖を止めることは出来ない筈だ。1986年に「葬式ごっこ」などという教師ぐるみのイジメが露見した冨士見中学の事件が「イジメ自殺」として初めて知られたわけだが、あれから30年経っても状況が変わっていないということは、ヒトに巣くっている病そのものがかなり深いところにあり、それを取り除く作業が教育現場でまったく行なわれなかったことを意味しているわけだ。ある小児科医がこどもの頃に受けたイジメを書いていて、彼は「いじめる原因はいつもいじめる側にあります。いじめはいじめる側が100パーセント悪くて、いじめられる側は全く悪くない」としている。本当のところ、いじめる側に立ったヤツ等は分かっているはずで、それでも弱者を追い込むことに快感を覚えている自分も知っていたに違いない。近ごろはインスタグラムやら何やら、攻撃する側の手立てが整い過ぎているのもあってイジメは後を絶たない。年端も行かぬ幼児はともかく、こどもというものは無垢でも純真でもない。こどもほど狡猾で卑怯で残忍な生きものはいないのだ。彼らは自分たちが保護されていることを知っているし、こどもということで大人が手をこまねいていることも理解している。やったことが犯罪だと思い知らせるためにも、特別な隔離施設を造って罪を償う機会を与えるぐらいのことはやって然るべきだと考える。
 2011年に起きた「大津市中2いじめ自殺事件」では「2019年2月19日、大津地裁は同級生3人のうち2人に対して、約3758万円の支払いを命じる判決を言い渡した」と報道されている。何千万だろうが億だろうが、我が子を亡くした親に平穏が戻るはずもない。

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笑うこと


 ずいぶん前に録画していたディズニーのアニメ「ズートピア」を見た。ディズニー作品はときどき拾い物があるから録ったわけだが、何度も笑う場面があって楽しめた。少し戻してまた見るってな具合にだ。洒落てるなあと思いつつ、笑うことが久々なことに気が付いた。そういえば笑うことが少なくなった。それは昔のように人が大勢いる所に行く機会が減ったという理由もある。録音の仕事は緊張を強いられるし、だからと言って押し黙っていたのでは緊張が増すだけだから逆効果。誰かがバカを言い、みんなで笑うことで随分リラックスできた。指揮者には名物おじさんのような方がいて、その場に一役買うこともあった。ある指揮者は棒を振り降ろすときに「なんべんやってもギャラ同じ」と言って笑わせたし、中谷さんは時間通りにきちんと指揮台に立った。スタジオの中はまだ用意ができてなくて、楽器を出してない人がいても構わず立った。それで「あれっ、どうなってんの」と惚けて見せた。ま、それはお約束のようなものだったが。劇伴で難しい曲があって、冒頭のクラリネットのア・カペラソロの部分に手こずったことがある。その2小節がうまく行くまでにテイク18位まで行った。もうこちらは冷や汗が出て追い詰められているような気分になった。やっと冒頭ができて安心したのも束の間、その後の20小節あまりはストリングセクションの出番で、その途中で誰かがミスってしまった。ストリングスセクションの部分は変拍子だったから大変だった。で、最初から録り直し。目の前真っ暗状況。テレビドラマなどの劇伴は2チャンネル同録でミスがあった場合は最初から録り直すのが基本。また、冒頭のクラリネットで手こずって、うまく行くと後が続かないという展開になってしまった。中谷さんは「よーし、こうなったらうまく行くまで何度でもやるぞ」と檄を飛ばし、高らかに「テイク34」などと叫んだりして緊張をほぐしてくれた。テイク40の手前で成功したときはスタジオ内が拍手で包まれた。
 さて、笑うことだ。若い頃はなんであんなに笑えたのだろうと思えるほど笑った。腹をよじるというのはこういうことかと思えるほど笑い転げた記憶も一度や二度じゃない。誰かが「もう止めてくれ」と叫んだりもした。それも大したことで笑っていたのではなく些細なことなのだが、まさに笑いのツボなどというものに嵌まってみんなで笑い転げた。歳をとる毎に大人の分別というものの占める割合が増えていくのか、ばか笑いは次第に遠ざかっていったような気もする。生物学的な根拠などあるわけもないが、笑うことは体にいいような気がする。なにしろ笑って不愉快になる人はいないし、争い事からは最も遠い。
 テレビにお笑い芸人が席巻するようになって久しいが、彼らがお笑い芸をやるのはグランプリとか、そういった類いのコンテストの番組だけで、それに勝ち抜くとテレビタレントとしてのチケットを手に入れることになるらしい。一時はブームになって武道館でライブをやったコンビもいたが、漫才番組などというものは皆無だし、滅多にテレビで彼らのお笑い芸というものを見る機会はない。妙な展開になっていて、漫才のコンビがパネラーとしてワイドショーン番組などに出ているのを見ると「変なの」と思う今日この頃なのだ。

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衰え


 残念なことに人は誰でも歳を取ると共に衰えを自覚するようになる。先ずは階段を登る際の息切れに始まり、足腰が弱くなったなどと嘆いていると、目が、耳が、歯がなどと相次ぎ、気が付けば立派なお年寄りに突入していることを嫌でも知るってなわけだ。体が資本のスポーツ選手の場合、事は深刻で引退という出口に向かう。フィギュアスケートの選手は10代後半がピークで20代に突入すると危うくなるようにも見える。相撲や野球選手は30代半ばが限界らしい。むかし、横綱千代の富士が引退会見で「体力の限界・・」と悲痛な声で叫び、言葉を詰まらせたシーンを覚えている。さてイチロー選手だ。50まで現役を目指すとは言っていたが断念せざるを得なくなったらしい。それでも45歳まで現役だったのだから大したものなのだ。このブログでも何度も彼について触れた。



 WBCでの優勝に導いた安打は神がかっていた。




 オリックス時代は知らないに等しかったが、メジャーに移ってからの活躍で驚き注目するようになった。まさに安打製造機だったし、シーズン最多安打記録を出した試合はビデオに録りDVDに焼いたほどだ。




 ヤンキースに入った辺りから陰りが見え始めたような気がした。フル出場ではなかったし、本当のところは分からないものの冷遇されているようにも思えたのだ。引退の会見で試合中の違和感について訊かれると、その件にだけは答えることなく終わった。質問した記者は「体の衰え」を自覚していたかどうかを訊きたかったに違いないが、それは冷静に考えれば無粋だとも思える。あれほど打てていた人が打てなくなったのは何らかの理由があるだろうし、それが体力の衰えであることは聞かずもがなで良いと思うわけだ。千代の富士の会見の「体力の限界・・」の後に続いた言葉は「気力もなくなり引退することになりました」だった。しかしながらイチロー選手の場合、その「気力もなくなり」というのはないと思えるほどの快活さで会見を終えたのに感心してしまったのだ。

 さて、僕ら演奏家は衰えをどのように感じているのかということになる。確かに若いころは俊敏だった。それは間違いない。例えば20代後半、品川パシフイック・ホテルのバンドはサックス3人とピアノトリオの6人編成。テナーを吹いていたから、サックスのアンサンブルではリードアルトに付けるような形で演奏することになる。先輩のアルト奏者によく言われたのは「おまえさ、同じところで間違うなよ」だった。アルトが間違う一瞬前にそれを察知することが出来て、同化するようなタイミングでミスをすることが度々あった。ミスまで付けていたことになる。それは説明できないことだが、0コンマ何秒かの一瞬に伝わってきてそれに追随するような感覚だ。まるで超能力のようなものだった。今、そんな芸当は出来るはずもない。新宿ピットインでのライブを重ねていたころの演奏記録はほとんどない。一曲のソロが15分を超えるようなこともあったし、少ないボキャブラリーの中でのソロは閃きだけが頼りというもの。一つの思いつきを延々と発展させる柔軟さはあったような気がする。それが歳を取る毎に、覚えているフレーズだとかお決まりのクリシェの引き出しが増えて閃きから遠ざかるってのはある。もちろんそれの方が楽に話はまとまるのだ。昔やっていたスタンダード曲などを久々にやると、取りあえず覚えていたものの引き出しを探すことから始まり、手垢にまみれた面白くも何ともないラインを紡ぐ迷路に嵌まってしまうことがある。吹いていてこんなにつまらないことはないし、聞いている方はもっとつまらないに違いないと恥じることになる。前に歩いているというか、本人は前進しているつもりでいたのに、足は後退していると感じる瞬間だ。それを感じる時に衰えを知り、絶望的な気分になったりする。前進力を失い、守りを固めることに費やす時間はそのまま後退っていることになるのが焦れったい。録音した様々な自分のソロを聴くことはあまりなかった。後日、レコード盤やCDが送られてきたものは数多くあったが、どれも未開封のままだった。当時はそのソロが良いものだとは思っていなかったし、聴いて不快になるのも得じゃないってな感じだった。こないだあるソロを聴く機会があった。どうしてこんなことが吹けたんだろうと天を仰ぐような案配だった。それは10年ほど前のライブの録音の中にもある。しかし、恐ろしいことにそこには戻れない。振り返ってもいいことはない。芸風は歳と共に変わる。変われないところに衰えがあるとしたら、そうかも知れないと納得するわけだ。最近は新しいものも古いものも、聴くものすべてに驚いて口あんぐりのままに日が終わる。ネタは尽きない。というわけで、衰えと闘うジイさんの愚痴話になってしまったってのが、そもそも「衰え」で間違いない。

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ロックンロール


 内田裕也さんが亡くなった。ずいぶん昔、80年代に何度かお会いする機会があった。晩年の白髪の姿とは違い、まだまだお若く鋭い印象のころだ。最初は浅草だ。大晦日の「ニューイヤーズ・ワールド・ロックフェスティバル」年越しライブは浅草だった。当時も「ワールド」がイベント名に付いていたかどうかは覚えていないし、誰のバックで参加したかも定かではない。参加者がやたら多く、とにかく一つのグループの持ち時間は30分もなかったような気がする。ステージに上がってあっという間に終了したように覚えているのだ。演奏が終わるとステージ裏で祐也さんから直接手渡しでギャラが支払われた。それも封筒に入れられているわけではなく、裸の札を祐也さんが「いち、に、さん」ってな感じで数えて渡された。バンドのメンバー1人に3万円は結構大きい。出演バンドが多かったから、メンバーのギャラだけでも相当な額になっていたはずだ。採算度外視に思えたが、祐也さんにとってはとても大事なイベントだったに違いない。
 2度目は渋谷公会堂の沢田研二さんの正月公演の日だった。沢田さんは新年早々のライブが恒例だった。トークタイムでは大晦日の紅白歌合戦の裏話などが飛び出し、長いときは一時間近くも話されるような案配だった。なかなか面白いその長いトークは割合早い時間で、当方の出番は7、8曲目からだったから舞台袖か照明の部屋で聞いた。その間、ステージ上にいるリズムセクションはじっと立っているから気の毒だった。それはさて置き、祐也さんだ。公演は何日か連続で行われたが、その初日に力也さんを連れて突然現れた。祐也さんが現れると周りには緊張が走るわけだが、沢田さんも緊張した面持ちに見えた。オールナイトのニューイヤーズライブから寝てないんだというような話に驚いた。確か二日だったから2夜連続の徹夜だったってわけだ。そうやって誰かのコンサートの楽屋などに突然現れるのが祐也さん流だった。それからしばらく経ち、レコーディングでソロを吹いた縁で桑名正博さんの公演に参加した。会場は覚えていないが打ち上げの席は六本木の旧テレビ朝日近辺にあった広いレストランだった。乾杯も済ませ盛り上がっていると、スタッフが急にソワソワし始めた。入り口に向かって走って行ったかと思うと戻るってな調子で落ち着かない。それとなく伝わってきたのは祐也さんが来るということだった。スタッフは入り口で並んで出迎えるのだという。それで、今か今かと落ち着かなくなっていたらしい。現れたのは宴もたけなわちょい過ぎ辺りだった。それも力也さんとジョー山中という強面三人組での登場だった。スタッフの緊張度はマックスに達しているようだった。僕らも一応席を立ってお辞儀などするわけだが、周りをスーッと睥睨して座る様子など堂に行ったもので貫録充分だった。ロック界のドンに違いないと思えるような存在感を示す人だった。実際の人となりなど僕らは知る由もないわけだが、とてもナイーブな人だったような気もするし、そのナイーブさを隠す役目に力也さんがいるようにも思えていた。しかしながら物騒な話もたびたび聞くものだから、近寄るべからず的に恐れられていた。浅草のフェスティバルの終わる時間がかなり押してしまい、元旦公演を控えていた演歌歌手のスタッフとあわやという展開になったことがあったらしい。昼の部もある公演だから、午前中に舞台の仕込みを済ませる必要がある。それに間に合わないじゃないかと抗議されたわけだ。かなり険悪な展開になったとき最後に祐也さんが放ったのは、あの神戸の組関係の実力者の名を挙げるということだったという。ま、この類いの話は尾ひれはひれが付いて大袈裟になりがちだから本当のところは分からないが、その筋との交流に抵抗はなかったようだから少しは本当かも知れない。時々脱線もしたが「ロックンロール」という言葉を旗印にして反体制の立場を示し続けたロックンローラーにかける労いがあるとすれば「お疲れさまでした」に尽きる。

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博多の日々



 佐賀という町を後にしたのは高校卒業の年1968年だった。在学中からアルバイトのように演奏活動を始めていたが、卒業して間もなく大牟田に仕事で行くことになった。これは「70年代」の話でも書いているからそちらで詳しいが、とにかく佐賀で付き合ったドラムのバンマスの陰謀に乗せられたというのが正しい。そんなに大きい町でもないし、少々当てが外れて困惑していたが、いつまでも留まる気はなかったし、とにかく楽器を吹いて食っていけるのならこの際どこでもいいやってなものだった。ドラムのバンマスにギター、テナーサックスがいたのは確かだが、ベース奏者の記憶はないところをみると妙な編成のバンドだったことは間違いない。その変則的なバンドで、プロというのはおこがましくも楽器一本で生きていくことが始まったわけだ。その店で初めてホステスという女性たちがいることを知ったし、いわゆる水商売的夜の町の実体を経験することにもなった。音楽の面で言えば、思い描いていた世界とはまったく違う少々焦りを覚えるようなもので、当時ヒットしていた千昌夫の「星影のワルツ」を何度も何度も吹くような案配だった。これは何とかしなくちゃと考えている折に、やはり佐賀のバンマスのバンドでベースを弾いていた柳川在住のベーシスト鳥井さんが嬉しいことを提案してくれた。鳥井さんは大変な目にあっているこちらを気にかけてくれていたらしく、博多の知り合いに紹介するから少し待てということだった。大牟田には都合3ヶ月ほどいただろうか。博多のグランドキャバレーとして有名だった「赤坂」のマネージャーに会うために博多へ赴いた。テストを兼ねていて、ワンステージだけ演奏することになった。譜面がまったく読めないわけではなかったが、スウィングビートのシンコペーションだらけのおたまじゃくしは手も足も出ないものだった。「えっと・・」と考えている内にどんどん小節は進行するし、終わったと思うと次の曲のドラムカウントが始まる。30分のステージで一音もまともに吹くことなく終了。もはや悪夢以外の何ものでもなかった。これは採用されることなど考えられないなと落胆した。やっぱりプロの世界は手強いと思い知ったわけだ。何か違うバイトでも探すことになるのかと居直る体だった。しかし、マネージャーの牧野さんは鷹揚に笑いながらビックリするようなことを仰った。「とりあえず、メインのフルバンドの他にナインピースのチェンジバンドがあるから、そっちで修業してから考えようか、なっ。ギャラは月3万円な。頑張れな。」月3万円のギャラは大卒初任給を上回るもので、当時の水商売の景気のよさの一端が窺える。そのころ、バンドはいつも人不足だったようで、少しでも楽器を扱えれば即戦力にはならなくとも大事にされたのだ。チェンジバンドは基本的に大きなコンボのようなもので、譜面も少なく客のほとんどいないワンステージ目はジャムセッションに近いものだったから願ったり叶ったりの一面もあった。昼過ぎに店は準備のために開けられる。一時ごろになると毎日そそくさと楽器を持って店に入った。広い店の中の好きな場所で大きな音を出すことができるのはありがたかった。チェンジバンドに慣れてきたころ、こいつは小さな編成でも行けるなと牧野さんは考えたらしく、一人欠けても大した問題のなかった、だいたい「ぼーや」と呼ばれていた若手は、「おまえ、しばらく鳥栖って町にある店に通ってくれないか」などと言われ、2ヶ月ほどは専用のバスで通うことになったりした。防府にも行かされたし、便利屋的な使い方をされることも多くなった。そのようなことを労うかのように米軍キャンプの仕事を次々と入れてくれたのはとてもありがたかった。員数合わせのようなものだったが、兵隊と一緒に並んでトレイを持ち純アメリカ式の食事を頂くのがありがたかったのだ。店には従業員のための賄いがあり、一ヶ月幾らだったかは覚えていないが食券を買い、食うや食わずの生活をしていても夕食だけはきっちりと頂くことが出来た。しかしながら、同じようなメニューに飽き飽きしているところに、米軍のキャンプで頂くでっかいステーキやトレイにドサッと乗っけられるマッシュポテトは涙なしでは頂けないようなご馳走だったわけだ。
 当初、漠然と考えていた夢というものがあった。シンフォニーの書ける作曲家になるのが夢だった。それは笑っちゃうようなことだったが、それに向かっていると信じていたことは確かだった。しかし、博多での一年近くの日々の中で、楽器を演奏して生きることを楽しく思っていることを自分では充分に自覚していた。まだ19歳だったし、自分で言うのもなんだが、吸収する力はまるでスポンジだった。日々の進歩を感じ取ることが出来た。当時は無理しちゃって的にオーネット・コールマンやアルバート・アイラーなどを聴き漁ったりしていたが、未知なるものへの憧憬は止まることを知らず脹れ上がっていった。
 書き続けるときりがないわけだが、博多時代の続きは「70年代」にでも改めて書こうかと思う。

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