☆☆☆

はろうぃん


 昨日今日と朝晩は冷え込むものの日中は暖かく、これがいわゆる小春日和の心地よさかとありがたい。駐車場の車の真上に桜の樹があって、この時期は少しずつ葉が色付き落ちてくる。一度にドサッと落ちればいいのに10枚ずつというところがひねくれ者なのだ。車に乗る度に枯れ葉を取り除くことになっている。



 さてハロウィンだ。宗教的な意味合いなどまったくないが、渋谷は町ぐるみの仮装パーティ会場となってしまった。ま、それはそれで楽しいに違いないし、例えば20代だったら一度は足を運んだだろう。しかしながら日曜日の夜から前夜祭のように盛り上がり、日が明けた深夜にみっともない事件が起きた。迷い込んだ軽トラックに群がって、遂にはトラックをひっくり返す騒ぎを起こした連中が現れた。最初はトラックの運転手が一緒に盛り上がろうぜ的に煽ったようだ。荷台で飛び跳ねるところまでは良かったが、まさかエスカレートして車を倒されるとは予想もしていなかったらしい。映像を見ると制止しようとしているのは外国人だ。ハロウィンは羽目を外して騒いでいい日じゃないってなところに違いない。運転手は自業自得的な側面もあるが、暴れている者たちは赤信号みんなで渡れば怖くないというような群集心理の最たるものに見える。12時までは多くの警官が動員されていたようだが、12時を以て撤収していた。ま、31日の本番に備えての予行演習のようなものだったらしい。騒いでいる映像を見ると、何だか哀れなほどたがが外れた人たちの無軌道ぶりが情けなく、この国はまだまだガキの国なのかと胸糞が悪くなる。当日、近隣の商店は早めに店仕舞いするという。店頭に並んだ商品を壊されたり、飲食店の店の前に大勢群がって客が来れない状態になったり、色々と大変だそうだ。テレビなどが散々煽ったはいいが、自警団でも組んで自らを守らなきゃいけないというのもおかしい。

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バッシング


 シリアで拘束されていたジャーナリストが3年ぶりに無事帰国。そういうことに疎かった当方は、そんな人がいたのかと驚いたわけだが、さて帰国したものの飛び交うのは自己責任とかいう毎度お馴染みのバッシング。国の渡航情報を無視した彼にも落ち度はあるが、無事帰国したのだから良かったねえで済ませればいいと思うが、そうはいかないらしい。この自己責任というバッシングを聞いていると、極端な話だが首でも切り落とされて死ねばよかったんだと言っているように聞こえる。取上げなきゃいいのに、テレビのニュースショーも盛んにそれを煽っているように思えて仕方ない。



 この手の報道はいつ見てもウンザリさせられる。むかし松本サリン事件というのがあって、まったく罪のない人が重要参考人として取り調べを受け、マスコミは容疑者として報道を過熱させた。この時期、取り調べを受けた人の家には嫌がらせの電話が殺到したという。思うに今回の事故責任うんたらかんたらを言い募る人たちと嫌がらせ電話をする人たちの根は同じなのではないかとさえ思える。人のヘマを責め立てて己が溜飲を下げる手合だ。周りに眉をひそめる人はいてもそういうバッシングに与する人は知らず、だいたい大した関心はないようだし、こちらとしては彼に仕事とはいえ3年間も拘束されて大変でした、お疲れさんってなところだ。

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幸せな時


 幼いころの記憶というものは断片的で要領を得ない。前後の経緯など消し飛び、一つの映像だけが残ったりする。大型トラックの助手席で見た山道の緑の木々、トラックの高い座席から手が届きそうな間近に葉が揺れるのが見えた。葉の間から木漏れ日が次々と現れては消えた。



 近所、と言っても家々は離れていて隣は50メートル先という案配だったが、何軒か集まった集落にかわいい柴犬の子犬がいた。その犬が好きで、わざわざ出かけては遊ぶのが楽しみだった。その集落には若いトラックの運転手がいた。大きなダンプカーだったような気がする。ある日、子犬に会いに出かけるとトラックの運転手が「乗るか?」と声をかけてきた。子犬がその人の飼い犬だったかどうかは覚えていないが、子犬と一緒だったら乗りたいと言ったのだと思う。「よっしゃ」というのでどんなに頑張っても乗れない高い助手席に押し上げてもらった。彼にしてみればいつも独りじゃつまらないし、子供とはいえ同乗者がいることが楽しかったに違いない。抱きかかえるといってもアップアップするようなものだったが、子犬は膝の上に乗っかっていた。車が走り出すとえも言われぬ充足感に包まれた。子犬を独占できることの喜びの方が強かったかも知れない。そこから長い時間を子犬と共に過ごすことになった。道中でどんなことがあったのか、お兄さんはどこに行って何をやって帰ってきたのか、その一部始終を覚えていないことはとても残念な気がする。記憶に残っているのは幸福感に浸りながら車のフロントウィンドウから見た木々の緑だ。いつの間にか子犬は座席の隣に寝そべっていて、僕らは並んで寝ていたかも知れない。帰途について集落の近くに辿り着いたのは薄暗くなり始めた夕刻だった。大変なことになっていた。到着する辺りに14、5人がいた。そこら中の人が集まっていたようだった。暗くなろうってのに子供が帰って来ないと母がみんなに言ったに違いない。この時間から捜索するのは大変だと色めき立っていたのだ。そこにのこのこ子供を乗せたトラックが帰ってきたのだから、騒ぎは若者に対する容赦ない叱責に変わったのだ。彼はみんなにこっぴどく叱られていた。携帯電話などない時代だから連絡のしようもないわけで、彼は蒼ざめてうな垂れるしかなかった。軽はずみなことをしてしまったわけだが、そのとき怒る大人たちに「この人は悪くない。なにしろ今日は初めて幸せな時間というものを感じることが出来たのだから。」と言いたくても言葉を知らず、ただ怒られている彼を気の毒に感じたことを覚えている。



 たぶんこの頃だと思う。一緒に写っているのは父ではなく、後に姫路で暮らしたときに来訪を心待ちにした父の弟の光敏叔父さん。

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ろー眼


 サックスのリードをマウスピースのどの位置に合わせるかは人により様々だが、自分なりの調整というものがある。40代半ばのある日、その位置を決めるのに手間取ることに気付いた。ようするによく見えないのだ。最初は見えにくいなあってな感じだったが、もしやと思ったのは老眼だ。洒落たインテリア関連の店で、プラスティック製の折り畳み可能な簡易老眼鏡を見かけ試しに買ってみた。げっと驚くほど見えるようになった。そうか、老眼かと肩を落とすというものでもないが、確実に加齢していることを知った。それで眼鏡屋に赴きちゃんとした老眼鏡を作った。




 まだ40代だから頻繁に使うものでもなかったが、これで一安心てな案配だった。スタジオでの録音で譜面を読む際には使わなくてもすんだから、結局はリード合わせのために買ったようなものだった。後に複視の傾向が顕著になりスタジオ業務からは遠ざかることになったのだが、この時期は老年の新人というようなものだった。50代に入るとたいして使わないとは言え老眼鏡をポケットに忍ばせるようになった。そんなときに知り合ったのがヴァイオリンの尾花さんだった。「あれっ、老眼鏡使ってんの。ダメだよー。これは使えば使うほど進行しちゃうんだから。」「でもさ、見えにくいときってあるでしょ」「いや、見るの。根性で見るの。筋肉関連が衰えているわけだから見ようとするのよ。すると進行が止まるからさ。オレなんかさ、今でも使うことはないよ。少々暗くたって新聞でも読めるからさ。」へーっと驚いて仰せに従ってみた。
 今、この歳でも本を読むのに老眼鏡は使わないというか。そもそも持っていない。むかし作った老眼鏡はフレームも曲がり雑多なガラクタと一緒に引き出しの奥深く眠っている。彼の言ったことは正しかったに違いないのだ。しかし、さすがに薬の小さな瓶に書かれている成分表だとかは判読するのは容易ではない。人の体は加齢と共にあちこちが消耗してガタが来る。最も気をつけなきゃいけないのは血管だが、歯、目など小出しに症状が現れ、気が付くと正しいお爺さんお婆さんが出来上がるってことになっているらしい。

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消えること


 毎度の辛気臭い話だ。人の死というものを最初に知ったのは小学1年か2年、姫路に住んでいるころだった。姫山住宅という、今でいえば団地のようなところがあった。三軒ほどの平屋の住宅が連なった長屋のような棟が幾つもあり、そこは東町、西町というように区分けされていた。それとは別に、やはり木造で大きめの大所帯のアパートのような建物もあった。そのアパートのような建物の一室で首を括った人がいるという噂があっという間に広がった。不気味な話だったが、その部屋のそばまで行った。多くの人が詰めかけていた。もちろん子供などが近くに入れるわけもない。遠巻きにしているだけでも、暗い部屋で自ら命を絶った寝巻き姿の男の姿が見えるような気がした。「襖に血で書かれた遺言があった」という話も聞こえた。何か書かれていたのは確かだろうが、血で書いたというのは作り話のような気がする。死というものを認識していたかどうかはともかく、建物の通路の暗さやその場の放つ重苦しい空気などにショックを受けたことは間違いなく、50年以上を過ぎた今でも忘れない昭和30年代初めのことだ。 



 それからも親戚内の弔事を聞きはしたが、長寿で天命を全うした者に対してのショックは別のものだった。ミュージシャンとして働き出して知り合ったバンマスに、元シャープス&フラッツでドラマーとして名をはせた武藤敏文さんがいた。当時は独立してニュー・シャープスというバンドを率いていらっしゃった。レギュラーとして鴬谷のグランドキャバレーに出演する傍ら、不定期に米軍キャンプの仕事などがあった。どういう縁か、一度だけ誰かの代わり、いわゆるトラで鴬谷の店に行った。すると武藤さんから何かにつけて頻繁に電話が入るようになった。その頃ウチには迷惑な電話魔がいて、うっかり取ると1時間も2時間も付き合わされた。武藤さんはその間中イライラと待っていたらしく、開口一番「しかし、長い電話だよなあ」と仰った。何が気に入られたのかは分からないが、とにかく自分のバンドに来いと何度も何度も誘われた。ある夜は「何か、そうだ車買ってあげるけど、どうだ」とまで仰った。絶句した。そりゃあ、ま、気に入られて気分が悪いはずもないのだけど、ちょうど新宿のピットインに出演して盛り上がっていたころだ。大所帯の中で演奏する心境にはなれなかった。ある日は楽屋で話し合いになった。武藤さんは昔の写真アルバム持参で、海外の多くのジャズメンと共演した際のスナップを嬉しそうに何冊も見せてくれた。この場所に一緒に行こうよと熱弁を振るわれた。トラで行くのは問題なかったが、武藤さんの誘いを断るのが申しわけなく思えて少し間を空けようとした頃だった。訃報が入った。武藤さんの趣味の一つがモーターボートだった。その日は子供を乗せて東京湾に出ていたそうだ。もしかすると時間の読み違えで焦っていたのか、帰りに操舵を誤り橋桁に激突し亡くなられた。子供の安全を確認して沈まれたと聞いた。武藤さん亡きあと引き継がれた方の元でも何度か演奏したが、もう来る必要はないなと痛感して行かなくなった。亡くなってからだ。武藤さんの人柄に惹かれていたことが分かったのは。縁は不思議なものだと思う。相性というものがあって、その人の前に出ると自分の悪い部分が首をもたげて来る場合もあるし、その逆に素直になって穏やかでいられる場合がある。武藤さんの場合は後者だった。嫌味な自分はすっかり影を潜め健全でいられた。死というもの、あの時初めて何かを失う悲しさというものを知った。

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