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自転車



 高校時代は自転車通学だった。当時は田んぼの中にポツンと建っている校舎に片道10分ほどかけて通った。たいした距離じゃない。最初のころは皆と同じように荷台にカバンを括り付けたが、選んだ自転車がどちらかといえばスポーツタイプで荷台は狭く、安定させるのは大変だった。それで次第に横着になり、左手でハンドルを持ち、空いた手で荷台に置いたカバンを後手に 支える曲芸まがいの運転が定着した。車など滅多に通らない川沿いの道を苦もなくスイスイと通うことになった。そのような危なっかしい通学だったが、転倒とか衝突の記憶はない。雨の日もあったはずだが、どのように対処していたかは覚えていない。
 一度だけ、乗らずに押して帰ったことがあった。意中の女子生徒と一緒に帰ることになった日だった。僅か10分足らずの道程だ。乗ってしまったのではあっという間に終わってしまう。歩くことになった。それでも1時間はかからないわけだから、ドキドキしつつも呆気なくその時間は終わった。何を話したのかなど覚えているわけもないが、どうせ格好をつけて気取った話をしていたことは間違いないのだ。
 
 この自転車は3年間にわたり大活躍した。街の中心部に行くときも自転車だった。狭い街だから自転車さえあれば事足りた。菓子製造業を営む伯父の家は繁華街のど真ん中にあった。伯父の家の横に自転車を放置したまま出かけることもあった。ずいぶん後に、その自転車が自分のものだったというと伯父は目を丸くして言った。「やー、そぎゃんこと初めて知ったばい。誰が停めとっちゃろかと思うとったとさー」
 卒業してからは乗ることも少なくなり、自転車置き場に寂しく置き去りにされたこいつを見る度に哀しい気になった。
 高校生活が2年目に入るころ、大学進学が全ての有り様に反発する気持ちが強くなっていった。大学受験は自分にとって現実的なものではなかった。その道を歩く自分を想像することが出来なかった。だからと言って他の選択肢を思いついていたわけでもなかったが、違う道を歩きたいという気持ちは日増しに強くなっていった。気が付くと音楽のにめり込んでいたわけだが、それも言わば消去法に近かった。著述業に対する憧れもあったが、それだって進学の道は避けられないように思え、手っ取り早いものとして残ったのが音楽を生業とすることだった。母の従兄弟だったと記憶しているが、図書館司書の職にあったその方が一度訪ねてきたことがあった。母が息子は音楽の道に進みたいなどというと話すと、表情を曇らせて一言だけ仰った。「それは・・・もう、才能というものが大前提のものだから」まったくその通りだったが、生意気盛りの小僧だったし、その言葉を認めようともせず、なんとかなるさと前にも増して強気になってしまった。軌道修正のチャンスがあったとすればその日だったが、そこまでは賢くなかった。3年生になると出席日数は減った。昼過ぎに、いつものように片手ハンドルで学校に行くことが増えた。それをクラスメートは面白がり、「今日も我らの英雄・・が昼過ぎにやって来た」と日誌に書いたヤツがいた。それを読んだ担任教師は他生徒への影響も慮り「教師生活・・・十年、お宅の息子さんのような生徒は初めてです」と恐ろしい剣幕で怒鳴り込んできた。もちろん事前に察知して友人の家に逃げていたが、父はそのことについて叱ることはなかった。諦めていたのかもしれない。退学、留年にならなかったのは、こういう生徒は速やかに出してしまうに限るという判断があったのだと思われる。
 相変わらず高校の同窓会というものが、全体、それぞれの学年、関東支部などなど様々に行われているようだが、懐かしさはあるにせよ、馴染めないのは、過ごした3年間が彼らと違う軌道にあったせいだと最近思う。バカなことだったと反省がないわけでもないが、自転車に跨がった3年間、自分の世界だけで生きていたような気がするのだ。

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コピー



 そうか、眞傘とは思ったが、いや、まさかとは思ったが梅雨入りしたのか・・・などとアホなことを言いつつ、湿度が上がるとすっかりやる気を無くす猫とともに梅雨眠状態に入る。
 久し振りにYouTubeを覗いて驚く。古いジャズのアルバムなどは、ほとんどが丸一枚フルでアップされている。著作権も何もあったものではない。ようするに音楽は共有するものとして定着したようにも見える。そもそも著作権が存在していないかのようだ。著作権協会もこのサイトに関しては手出し出来ないのか、放置されたまま。次々と削除して対処しているアーティストもいるが、野放し状態になっている人たちも多い。著作権のない録音物はない。それを知ってか知らずか、音楽情報として紹介したりする。CDが売れないわけだ。さすがにジャズでも新譜などがアップされていることはないようだが、それにしても酷過ぎる。かつて人が食用にするためにいくつかの動物を絶滅させたように、文化のひとつのジャンルを潰していくのかと思えば残念なことなのだ。フィリップスはCDの普及には待ったをかけた。簡単に複製の作れるメディアには慎重になれと警告したが、当時のソニーは発売を強行した。ヨーロッパの多くの国ではデジタル、アナログに関わらず著作保証金が課せられているが、日本ではデジタルだけに限られている。と言っても、レンタルショップのレジの横には「さあ、みんなでコピーしましょう」とばかりにカセットテープや空CDが置かれていたわけだから、罪の意識を持てという方がおかしいに違いない。

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スナック



 上京して最初に借りた部屋は、東中野駅から歩いて13分、西武新宿線の新井薬師から10分の上高田にあった。2階に3部屋の小さなアパートで「・・荘」などの名前は付いていなかった。1階に小料理屋の「歌舞伎」という店があった。住所は間借りなどの場合は家主の鈴木方とか書くわけだが、それに習って番地の後に歌舞伎方と書くことになった。だいたい住所を聞いた人は「へっ?」という反応をした。その都度わけを説明しなければならなかった。貫録のある女将のやっている店で、一度ぐらいは入ったことがあるかもしれないが、よく覚えていない。女将がアパートのオーナーだったように記憶しているが定かではない。店は間もなく閉店して空き店舗になり、何ヶ月か後にスナックになった。スナックの名は「ガーベラ」だった。それで、住所をガーベラ方と書くことになった。今では考えられないことだが、当時は電話もなく、緊急の仕事などの場合は電報で連絡が来た。固定電話は施設設置負担金とか債券とかよく分からないものがあって、とても高かったから若者には簡単に設置できるものでもなかったのだ。それで、電報を出した方から「このガーベラさんというのは外国の方なの?そこに居候している感じ?」などと訊かれることになった。
 スナックはいかにも昭和の夜の街だった。正確にはスナックは飲み屋の延長で風俗営業という事になるが、食事を出すことで飲食店免許で営業している場合が多かったらしい。
「ガーベラ」は沖縄出身の若者たちが男女4人ほど集まって始めた店だった。開店したとき、アパートの住人ということで招待された。こう言っちゃあ何だが、シロウトの集まりだった。内装は学芸会レベルの安っぽさで「だ、だ、大丈夫かな」と心配した。軽食がどうだったかは覚えていないが、スタッフの一人が
「うちのアイスコーヒーはブルーマウンテン使っているから」と得意そうに言った。取りあえず開店してから考えようと、逸る気持ちを抑えきれずに見切り発車したように危なっかしいものだった。ましてや夜になると決して人通りが多い場所でもなく、若者の粗相に近い店に客がつくわけもなかった。夏が終わるころ、営業状態が芳しいものでないことは一目瞭然だった。今夜で閉店という日、またもや招待された。こちらとしては開店以来足を踏み入れたこともないから行きたくなかったが「是非とも」といわれて渋々入った。一番年上の店主はかなり酔っていた。やけ酒のようにも思えた。自分の失敗を愚痴るともなく喚きつつ自棄になっているようで、客としての居心地はこの上なく悪かった。もちろん、こちらの仕事も夜だったから来れるわけもなかったのだが、君らも来てくれないからと非難されているような気になった。何とか一時間ほど過ごし、外に出たときには苦行から解放されたような大きな溜め息が出た。

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画学生


 高校生のころ、所属していたのは吹奏楽部だったが、クラスの仲間がいたこともあり美術部の部室にたびたびお邪魔した。教師も鷹揚な方だったから咎められることもなく、みんなが懸命に取り組んでいた石膏像のデッサンにトライしたこともあった。これを当時は面白いなどとは決して思わず、なんだか苦行のようにさえ思えた。描きかけのものを見ても実物とは大きくかけ離れて見えるものがほとんどで、難しさは途方もないように思えたのだ。しかしながら、それが全ての基本だということは理解できた。



 美術部の友人2人は後に上京して夢を追うことになった。いわゆる画学生というやつだが、実際のところ本当に絵で生きていこうと考えていたのか、単に親元を離れた東京での生活に憧れていただけなのかは分からない。どちらもあったと言えるし、なにせ二十歳やそこらの若者にとっては夢だけが原動力だった。散々往き来のあった同学年の一人の記憶は、美大に向けての日々ではなく、1970年(昭和45年)11月25日のことが最も印象に残っている。その日の昼ごろ、彼はアパートの狭い階段を恐ろしい勢いで駆け上がってきた。かなり興奮している様子だった。それが三島由紀夫の事件だった。事件の衝撃的な経緯もあって、事件と彼の思い出はいつでもセットで現れる。もう一人は一年後輩だった。バイトをしながら芸大への入学を考えていた。様々なバイトを経験した2人の話は面白かった。一人はケーキ屋で働いた。ショートケーキに使う苺を洗っていたらとんでもなく叱られたという。「それが、洗うと痛むから洗っちゃダメらしい。汚くねえか」と憤懣やる方ない様子だった。別のバイトでは有名な写真家のアシスタント、と言ってもアシスタント見習い予備ってな立場だったらしいが、写真家の撮影現場で一部始終を見届け呆れていた。「それが、全てのセッティングはアシスタントたちがやるんだよ。御本人は最後にシャッター押すだけなんだよ。御大は何もやってないっていうか、誰が押しても大丈夫な状態でさ、最後にヨロヨロと現れてカシャっと押してお疲れさま、なんだか馬鹿馬鹿しい世界でさ」
 芸大への道はかなり険しく、彼らもその壁の高さを実感せざるを得なくなっていった。楽器奏者でも当時のようにキャバレーなどがなければ無理だったし、なにしろ画学生は、僕らのようなバンドマン風情と違って絵で糊口を凌ぐことは出来ない。美大に行って卒業しても絵で食えるほど甘くはないだろうし、それは音大を出ても演奏家として自立できる人など極僅かだから同じようなものだ。せいぜい教師の道が少しは開けるくらいのものだろう。ある日、後輩は自分の描いた絵を持ってきた。正直な感想を聞きたいと言う。絵は数点あったが、どれもがホームレスのような人たちがたき火を囲んでいるものだった。暗い色調で描かれていた。描きたいイメージは伝わったが、絵から伝わるものは寒い冬の厳しさなどよりほのぼのとしたものだった。思わず「可愛いな」と言ってしまって、その言葉に顔を曇らせたのを見て「しまった」と思ったのだが遅かった。彼は大きいヤツで、どことなく無頼を気取っていたけれど、実のところ絵に幼さというかピュアーな部分が出ていた。もちろん自分でも気付いていただろうし、指摘されたことは辛かったに違いない。その時、絵というものは己が内面を写し出すものだということを実感した。しかし、絵で生きていくことは難しいだろうというのはあったが、絵の出来はともかく、彼が真摯に絵に向かっていたことは証明されたようなものだった。程なく彼は帰郷して違う仕事に就いた。同級生の方はデザインカレッジのような専門学校に通い、写真を勉強して帰郷の後に写真屋を始めた。

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屋号


 今の時期はズッキーニが旬らしくお安い。それで豚ひき肉との中華風炒めものを作った。チューブ式の豆板醤が予定より多くドバッと出てしまった。オヨってなものだが仕方ない。後は砂糖少々と醤油少々で味付けするだけ。予想通りとんでもなく辛かった。普段の食事は塩分摂取に気を使い、おおむね薄味のものを食していて、それはそれで慣れっこになっているのだが、久々に食する味のはっきりしたものは、やはり美味かったのだ。

 車で通る道沿いにある店の名前には店主の工夫などが垣間見えて時おり面白い。もちろん工夫を放棄したものもある。むかし中野坂上には中華料理「チャイナ」という店があった。看板も手書きで不細工だったし、中華だからチャイナでいいかという安易な名付け方がすでに投げやりだった。案の定、半年も持たずに姿を消した。しかし、これはどうなんだろう。夜だし、通りかかった際にはバーと表記されているから飲み屋だと思った。しかし、信号で停止していてよくよく見ると床屋だった。サインポールの電源を落としているから見えなかったのだ。でも「BAR BER」は違うだろってなものだ。どうして間を空けるんだ。床屋は「Barber」であって、Bar BerだとBerという名のバーみたいではないか。それに妙に派手な黄色の庇が床屋とはかけ離れているような気もしたのだ。店主の確信犯的な細工かも知れず、しかし床屋でこんな工夫されてもなあ。



 最近ヒットしたのはこれ。映画のセットというか、ほとんど焼け跡風にデコレートされた飲み屋「おっけい」。何がおっけいかは知らないがメニューはお食事からドリンクまで多彩らしい。この店はマンションの建物の一階部分を占めていて、この上の階には住みたくないような気もする。夜になれば照明で雰囲気も出るに違いないが、問題は店の中だ。ここまで外装にこだわったわけだから、店の中もガタガタであって欲しいのだ。料理の入った皿は縁が欠けているとか、テーブルは少し傾いているとか、レジは算盤とか。ま、そんなわけないか。

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