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ターニングポイント


 人生に転機というものがあるとすれば武藤さんの誘いに応じることもその一つだったに違いない。ビッグバンドで演奏する道があった。切っ掛けは他にもあった。ゴダイゴでホーンセクションを手伝っているとき、ちょっとした揉め事が事務所とプレイヤーの間であり、ま、それは金銭的なことも絡んでいたのだけど、ホーンセクションを替えることになってしまった。しかしながら何が起きているか知らないこちらはトラブルに関与していなかったから、残って欲しいと言われた。自分のトラブルではなかったが、自分だけ残るというのも後ろめたいような気がして固辞した。しばらくして浜田省吾というロック歌手のツアーを何本か手伝った。ある夜、旅先のホテルで会食に招かれた。たしか彼のお姉さんがマネージメント担当で、ウチのバンドに加入しないかという話だった。誘いは光栄な話だったが、当時の彼のバンドのツアーは年に50箇所を超えていた。3日に一回としてもリハーサルを含めて年の半分は拘束されることになる。それはそのバンドの活動で生きる事がすべてになることを意味していた。頭を下げて断った。誘いに乗っていればロックの世界でサックスを吹くおっちゃんになっていただろう。



 ツアーを何年も続けることはあまりなかった。その中で3年続けた山下さんのツアーは珍しいことだった。そもそも自由な職業に就いたはずだった。それなのに自由を束縛されるような立場になることだけは避けたかったのだ。その山下さんのツアーも3年目が限界だった。来年も、という申し出を断ることになった。彼に感謝することはあっても嫌いだとかいうものではなく、自由が欲しいというような心持で辞することになった。ま、多くの事務所サイドからは生意気なヤツと取られたかも知れないが、フワリフワリと流れるように生きるのが好きだった。大仰にいえば、他人の音楽ではなく自分の音楽で生きることが大切だと信じていたというか、信じようとしていたのだ。あの時こうしていればという後悔があるわけではない。ビッグバンドのリード、ロックのサックス、どれもその立場にいる自分を想像できない。そんなことを言えば、スケジュールが合わなかった山口百恵さんのラストツアーや、海援隊のツアーなどに参加していれば、劇的な変化はなかったにせよ何らかの影響はあっただろうが、結局は今の場所がいるべき場所だったと思うのが正しいのだ。

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ライブ


 さて昨夜のライブに足を運んで頂いた方々に感謝します。遠方から泊まりがけで来て頂いた柳亭さんにはさらに深く感謝する次第です。



 今回で少しは先が見えるかと期待していましたが、好事魔多しというか、少々の行き違いの末、またまたドラマーが抜けることになってしまって振り出しに戻るってな案配。ようするに、ライブ前には新しい楽曲についてはシーケンサーで打ち込んだデモテープを送っているのだけど、それを聴いて対処できない場合は対応不能になる。例えば、自分の作った楽曲の説明にレス・マッキャンの路線だと説明したりするのだが、知らないと言われ、林英哲の名が出て来た辺りで接点は消えるってな具合だ。そういえば和太鼓的なアプローチをしようとする傾向があったわけだが、根のところのベクトルがそうだったらしい。結局、何曲かはピアノとのデュオ形式で対処した。ソロに入るといきなりピアノと2人だけになるというような展開で全体のグルーブを確保する。そのやり方の方がずっと楽だったってのも悲しいことなのだ。この先どれほどのライブを重ねることが出来るのかは謎だが、一回一回のライブがますます貴重なものになってきた。

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毎日リセット


 台風が南方の熱気までしっかり運んできたらしく、今日は夏が戻り汗ばむ陽気になった。昨夜遅く、猫のみかんが外に出たいというので、無理は承知で窓を少し開けてみた。轟音と共に風と雨が飛び込んできた。猫はビックリして後ずさりし、目を丸くして窓を見つめる。このような強風を知ると、雨露しのぐ家というものの存在がどれほどありがたいものかを痛感する。それにしてもあのような風の中、野良猫たちはどうやって凌いでいるんだと心配したりする。



 ってなことを言いつつ、遂に大台まであと少しの誕生日を迎えてしまった。ちっとも目出度くない。誰でも同じように歳は取る。しかしながら他の人がどうなのかは知らないが、老いたという実感があるわけでもない。どちらかと言えば、二十歳の頃から何も変わってはいない。定年とかいう区切りを付けられることのない職業の所為だとも思える。有り体に言えば浮世離れした生き方ということにもなろうが、同じ世代の友人たちが言うように夢を追いかけているわけではない。夢など追いかけてはいなくて、今ここにある現実を追いかけるというか、それはとても具体的だ。この音の後にこの音を繋ぐとこうなって、というような感じで、それを全部把握した上で自由になりたいと思っているわけだ。これがなかなか手強くて、そう簡単に自由は手に入らない。それで、夢を追いかけているというより何かをいつも探しているというのが近い。もちろん気力は不可欠だ。探す気力を失うことなく続けられれば万万歳という案配なのだ。

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残像



 色見本ではなく今日の空。久々に晴れ渡り、気温も上がり日中は半袖で過ごせた。台風が接近していて、残念なことに束の間の好天だった。
 近ごろ昔のこと、携わった仕事のことなどを盛んに思い出すようになった。と言ってもステージの様子とかを思い出すわけではない。僕らは基本的にステージ上では譜面とにらめっこをしているわけだから細かなことは見えていない。だいたいはステージ袖だとか楽屋だとかの記憶が多い。もっともスタイリスティックスやスティービー・ワンダーのステージのように、演奏しているにも関わらず聴衆の一人のような気分で眺めていたステージもあるにはある。しかしながら思い出すのは、どうしてか分からないが本の一瞬の些細な場面だったりする。百恵さんが引退する一年ほど前、中野サンプラザで歌謡賞か何かのテレビ収録があった。リハーサル時、百恵さんが一階の客席の中央に独りポツンと座っていた場面だけがフラッシュバックするような案配だ。深夜、神宮外苑の小さな店で遭遇したのは研ナオコさんだった。何の店だったかはっきり覚えていないが、窓口から直接ホットドッグだとかを買う店だった。彼女は男性の陰に隠れるようにしていた。まだそれほど有名ではなかったように覚えているが、三枚目的に扱われることの多かった彼女が目を見張るような美人だったことだけが残像のように残った。フジテレビの通路で会った十朱幸代さんの妖艶さに思わず振り返ったことも一瞬の映像として残っている。そのようなことは芸能界の隅に生息していれば特段珍しいことでもない。
 二十歳の頃、初めて入ったK・名和野とニュー・スターズというビッグバンドで地方のステージを何度も経験した。熊本でのステージは歌謡ショーで、当時のスター達が多く参加していた。舟木一夫さんや小川知子、千賀かおるといった面々に加えてヒデとロザンナもいた。その他にもいたはずだが覚えていない。ステージ袖で待っているとき、まだまだ子供のように見えたロザンナがしきりにヒデに話しかけていたのが見えた。衣装のこと、例えば髪飾りのようなものがどうかと訊いているようだった。ヒデは生返事で、彼女はガッカリしたような顔をした。それを見ていた小川知子らが幾分眉をひそめたようにしつつ「あの子ったら」というように囁き合っているのが見えた。当時のロザンナは19才。ヒデの気を引こうとしているのが傍目にも分かり過ぎるほど分かった。その僅かな時間のやり取りが鮮明な映像で記憶に残った。やがて2人は結婚し、10年ほど経って、生バンドを抱える日本テレビの昼のワイドショー番組にゲストとして出演した。それも本番ギリギリにスタジオ入りするという事態でスタジオはパニック寸前になった。生番組中に何曲も歌う予定だったから大変だった。それ以後会うことはなく、ヒデさんは47才で亡くなった。ロザンナさんがヒデの思い出を語るような映像を幾度となく見ることがあった。その都度、あの日の彼女の様子を思い出した。悲しみが伝わるような気がしたのだ。記憶に残っているのは女性のことばかりだが、男性歌手などのことは端っから覚える気はなくて当たり前なのだ。

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機材


 気温の上がった午後、焦ったようにツクツクボウシが鳴きだした。「えっ、これは鳴いておかなきゃ」ってな感じに聞こえて笑った。

  PCで打ち込みの音楽を作り始めてずいぶん経つ。シーケンサーそのものはDX7の後に買ったコルグのT3で始めた。見やすいとは言えない小さなウィンドウで確認しつつチマチマと鍵盤を弾いていた。それでも、その頃作ったいくつかの曲はアルバムに収録したから、その気さえあれば機材はなんでもいいらしい。周りでMacが俄然注目を浴び始め、その注目度はiMacが登場した辺りでピークを迎えたわけだが、Macを入手したときはまだまだ値段が高く、クラシックという一体型のものでも今のiMacが2台買えるような価格だった。そのクラシックとパフォーマーというシーケンサーソフト、ミディ・インターフェイスを買ってきてPCでの作業が始まった。当時はシーケンサーソフトの説明書が邦訳されていなくて、ベーシストが翻訳したものがあったが、それだって一万円近くした。とにかく金食い虫的な旅が始まった。キーボードも4台買ったし、音源モジュールも次々と増えていった。2005年にアルバムを作ったとき、外に持って行く必要があってシステムを全部ばらした。その際にリムーバブル・ハードディスクが飛んで使えなくなり、サンプラーが使用不能になった。アルバムの録音が終わると、すっかり出し殻のようになってしまい、システムを再構築することなく4年ほどが経った。再開したころにはPCを取り巻く環境が変わりつつあった。数々の名機を生んだエンソニックは合併で消えていたし、サポートも無くなっていた。使い慣れたキーボード類も次々に不具合を見せるようになるし、また機材を買い替えるのも躊躇われた。コルグのキーボードはだいたい液晶のパネルが読み辛くなった。ミキサーは3年もすれば接触不良でおかしくなる。消耗品に金をつぎ込むのが馬鹿馬鹿しくなって、この5年ほどはキーボード2台だけでやっていた。曲を作るだけならそれでいいが、ちゃんとしたサウンドのデモを作ろうとすると、やはり昔の機材が懐かしくなる。そこで今さらなんだが、システムの再構築を始めた。鍵盤は3台だが2台は音源としてだけ使用。そして、ついに今日エンソニックのASR10Rを繋いだ。昔の機材だからハードディスクは接続がSCSIのものを使うしかないわけだが、入手の目処が立った。これは個人的にとても目出度いことなのだ。写真の上のものがそれで、その下はオーバーハイムのマトリックス、ウォルドルフのマイクロウェーブ。ASRは発売当時42万円もしたらしい。とんでもない価格だったわけだ。そんな大金をはたいた記憶はないが、マトリックスが10万円ほどで安いと感じたわけだから機材入手の際は金銭感覚がおかしくなっていたらしい。



 次から次へとPCもディスクも買い替え、ソフトのバージョンアップにもつぎ込んでいたことを思い返せば、これはアホな道楽ってのが正しい。

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