☆☆☆

小倉


 桜の時期になると必ず何枚も写真を撮った。一足早いが、その中で気に入っている写真の一つがこれ。東中野の線路沿いの位置から電車と桜を撮ったわけだが、偶然手前の菜の花も入った。中央線の赤い車体は左の新宿に向かっている。シャッター速度の調整がうまくいって静止画のような画面が出来上がった。20年ほど前の写真だから、電車の中にいた人たちも等しく20年の歳を取ったはずだ。中に0歳の赤ん坊がいたとすれば成人式を迎えたことになる。そう考えれば、写真というものは時々怖い。



 博多での詳しい顛末は改めて書くつもりでいるが、一つだけ余談のようなものを書き留めたいと思う。博多にいたのは一年に満たず、ある先輩の紹介で小倉に移ることになった。その先輩は東京から流れてきた加藤さんという、やはりアルトサックス吹きだった。加藤さんは当時珍しかったジャズプレイヤーのソロコピー譜を「おまえこれ写せ」と持ってきてくれた。あまり馴染みはなかったが、ソニー・スティットの譜面がほとんどだった。毎夜、必死で写した。初めてジャズの核心部に触れたようなもので、恐る恐る練習してその深みを知っていった。あらかた写し終えたころに加藤さんは言った。「おまえな、こんなところでサイド吹いている場合じゃないぞ。小倉にオレがよく知っているリーダーがいるから、そこで仕事しろ。もちろんリードで行くんだ。」突然の話にたじろいだが、加藤さんは割と強引に話を進めてしまい、ついに小倉まで話に行くことになってしまった。習わし通りテストを兼ねていてステージに上がったはずだが、その辺りのことはまったく記憶にない。すぐにでも来てくれという話になり、当時同じようにバンドマンへの道を望んでいた同郷の後輩トロンボーン奏者である宮地も雇ってくれるのならという条件で承諾することになった。一年前は一音も出せずに落胆していたものが、リードアルト奏者として行くことになったわけだから人生はどこでどうなるか分かったものじゃない。小倉での生活は意気揚々で、若者らしく何も怖いものは無いという風だった。控室にいることはほとんどなく、休憩時間はいつも電気室に閉じこもって楽器を吹いていた。熱心である自覚など更々なく、とにかく楽器に触れていればそれでよかった。この血気盛んな若者の登場はその時のバンドメンバーのおじさんたちにはカルチャーショックでもあったようで、トランペット奏者の一人は不眠症に悩まれるような事態になったと聞いた。バンマスの久和原さんは元々ベーシストとして名を馳せた方だったが、ピアノに転向されていた。絶対音感を持つ優れた音楽家だった。「何か吹きたい曲はあるか」と訊くのでローランド・カークの曲名を挙げると、その場でカセットを聴いて譜面に起こし「じゃあ、これ次のステージでやろう」というような調子だったから、毎日は刺激的だった。久和原さんにしても、相手が若造だとはいえ新たな刺激に満足している部分もあったような気がする。そのようなやり取りはメンバーのおじさんたちの別の部分を刺激した。彼らにはすでに野心のようなものはなかっただろうし、キャバレーのテンピースのバンドで毎夜楽器を吹いてお足がいただけるだけで満足だったに違いなく、そこに突然野心のかたまりのような二十歳前の若造が現れて面食らったのかも知れない。なにしろ、バリトンサックスのおじさんは、何でも商う雑貨屋のようなものをやっていて、夏場はたこ焼きとかき氷、冬場は焼き芋がよく売れると自慢の方だったし、サックスを吹くのは片手間のバイトのようなものだった。一ヶ月もすると、この安穏な成り立ちに思いきり波風を立たせていることを感じ始めたのだ。しかしながら生意気盛りの若者でもあったし、そこのところを汲んで思いやるような心は持ち合わせていなかった。突き進んでいく情熱だけが支えだった。半年も過ぎ、バンドのレパートリーをほぼ諳んじてしまうようになると、「こうしてはいられない」と焦りの気持ちも芽生え始めた。久和原さんにはずいぶん世話になっていて「辞める」ということを言い出せないままに日は過ぎていった。酷い話だが、最終手段は逃げ出すことだった。すべての精算を済ませて書き置きを理解ある先輩に託し、その日の夜行で小倉を後にした。数日前に引っ越しは完了していて、そこからの数日は極度の緊張感があった。思い返せば、久和原さんは気付いていたような気もするし、とは言っても説得の話し合いを避けたのは賢明だったようにも思う。そこから一ヶ月ほどは佐賀の実家に戻り、上京のために準備することになった。
 佐賀に戻ると以前のバンマス荒木さんと会うことは避けられなかった。そこで荒木さんから意外な話が飛び出して驚くことになった。「あんた、飯屋のツケ踏み倒して。こっちは大変だったんだから」ってなことだった。大牟田のバンマスはツケの利く飯屋を紹介してくれていた。部屋には楽器以外ものといえば布団があるくらいのもので、お茶を飲もうにもヤカンすら持っていなかったし、自炊なんてことは考えもしなかった。外食かパンを買ってきて食うくらいの食生活だった。それを見かねたバンマスは飲み屋ではあるけど、君一人ぐらいのものだったら定食を用意してくれるからここに行きなさいと薦めてくれたのだ。3日に一度ぐらいはそこに通っていた。博多に引っ越したのは昼時だったし、ツケの精算は封筒に入れて博多のバンドへの紹介者でもある鳥井さんに渡していた。それが渡ってないことを一年半振りに知ったわけだ。鳥井さんもまた柳川で小さなスナックのような店をやっていて、一度だけ行ったことがあるけど、見たくもない修羅場を見た日でもあった。どうやら鳥井さんには若いお姉ちゃんがいて、家庭内争議は爆発寸前だった。そんなところに足を踏み入れてしまったのだ。美しい奥さんは金切り声で叫んだ。思い当たる女性には一度会ったことがあるが、幸薄そうな弱々しいイメージしかなかった。そうか、あの時のどさくさで金は流用されたのかと納得し、呆れはしたが恩人でもあるから深く追求することなく終わった。その後、鳥井さんは東京で有名なビッグバンドに参加していて、その時にすれ違ったこともあるけど、その件に触れることはしなかった。
 大人の世界は色々勉強になるなあなどと思いつつ、荒木さんと一ヶ月ほど仕事をして二十歳を迎え、一ヶ月後に上京した。博多、小倉の2年間の濃さは相当なものだったな、と今では感心したりするってわけだ。

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不完全過ぎる思い出たち



 ジャズのライブを始める前、キャバレーやクラブなどで過ごした日々が掛け替えのない時間だったことは確かだが、歳を取って思い出すのはすべてが断片で切れ切れ。懐かしむ糸口がやたらと狭い。赤坂の高級クラブにはフル編成のビッグバンドで出演した。しかしながらフカフカの絨毯の張り巡らされた床が響きを吸い込んでしまうものだから、まるで無響室で演奏しているようで辛かった。同じ赤坂の大きなキャバレーはステージが可動式だった。ビッグバンドの演奏が終わるとステージがゴトンと音を立てて横にスライドし、待機していたチェンジバンドのステージと入れ替わった。チェンジバンドはコーラスグループの外人たちで、「ヒデとロザンナ」でデビューしたロザンナのおじさんだと聞いた。銀座のクラブ「アスターハウス」に客として現れたのは藤田まことさんだったが、思ったより大きな方で、優雅にホステスさんと踊る姿は、僕らの世代が馴染んだ「てなもんや三度笠」の人とは違うように見えた。池袋のキャバレーではラストの曲でステージが暗くなるとたびたび鼠がステージを走り回った。足の上を通ったと騒ぐメンバーもいたほどだ。赤坂のホストクラブ、当時はホストクラブそのものが珍しいものだったけど、運転手付きの大きな外車で送り迎えされる御婦人も見かけたその店では、厨房の裏の方に大きな猫が3匹ほどいた。ねずみ対策だと聞いた。深夜になると放されたいたらしい。思い出は語り尽くせないほどあって、語っていれば一日や二日では無理だろうが、残念なのはその場に居合わせた筈のメンバーの顔はもちろん名前もほとんど思い出せないことだ。長年付き合いのあったバンマスの寶崎辰人さんは別格だが、それでも何人かは覚えていて、チャキチャキの江戸っ子で喋るとべらんめーだったテナーの遠藤さん、喘息持ちでワンステージ目を過ぎると吸引していた薬が利き始めてラリってしまうピアノの河西さんなどは姓を覚えている。旅帰りの山手線の車内で偶然会ったテナーの久保田さんは名前を思い出すのに少々時間を要した。池袋のキャバレーのピアニストはバンドマンとしては異色だった。学校の先生風でインテリであることを隠せないその方の前職はオーケストラのヴィオラ奏者だった。ヴィオラのトップだったというから大した経歴だ。しかし、彼は指の疾患でヴィオラを諦めた。指の疾患と聞いて、当然弦の上を滑る指だろうと思ったが違った。弓を持つ方の指が鬱血して続けられなくなったということだった。鬱血は化膿して臭うほどに悪化したという。指板を滑る指というものは力まかせではないけど、弓を支える指はかなりの緊張を強いられ、加減に力が入ってその度が過ぎたのだと仰った。厳しい鍛練が偲ばれて同情の言葉もなかった。在籍した2ヶ月ほどの間、そのピアニストとは色んな話を毎日したはずだが、名前も顔も思い出せない。当時の写真はない。今なら携帯電話のカメラでいくらでも残せただろうが、カメラを持って歩くなどということはあり得なかったし、たまに集合写真を撮ったこともあるが、そんなものは何枚もない。当時の仲間たちを写真に残していれば、思い出に浸るのも潤沢な写真を前に潤ったのにと悔やまれる。

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時の流れは容赦なく


 周りにいた多くの演奏家は好むと好まざるとに関わらず芸能界の隅で生きていた。演奏家として目指すゴールはそれぞれにあったが、取りあえず食っていくための生業としては芸能界のお世話になるしか方法がなかったのだ。それで、キャバレーなどから出発した僕らは多くの歌手のバックでステージを共にすることになった。もちろん、キャバレー時代もショーで出演される歌手との交流が毎日のようにあった。西川口のキャバレーでは懐メロに属する大御所たちが頻繁に訪れた。ディック・ミネさんの次の週は淡谷のり子さんという案配で、淡谷さんに「先週はディックさんでした」と言うと「また大風呂敷広げていったんでしょ」と返ってきた。彼ら相互の交流が目に見えるようでおかしかった。忘れていたが、当時のメンバーの一人から聞かされたのは今陽子さんとの仕事だった。所沢の先の小さな町で、スーパーの前がステージだったらしい。歌手の営業は時々驚くほど切なかったりするのだ。豊島園の中にもステージがあって、そこで行われたのは雪村いずみさんのショーだった。シャンソン歌手として後に大ブレークした金子由香利さんは銀座にあった「ボヌール」という店に度々出演された。前に立っているサックス奏者は、肩に手をおく小道具のように扱われることもあって、その芝居っ気たっぷりの所作もお洒落な雰囲気を醸し出していた。ご一緒した方々は枚挙に暇がないわけだが、ご一緒した筈なのに詳細をまったく覚えていない方もいらっしゃる。15日に亡くなったキングトーンズの内田さんもそんな一人だった。新宿三丁目近くにあった彼の店に行った記憶もあるから、一度や二度の付き合いではなかったはずだが、どのようなステージを共にしたのかはまったく覚えていない。ただ、ヒット曲と彼らのグループの出発点でもあったプラターズの曲を演奏したことだけは確かだ。ずいぶん後になって、内田さんの歌唱力というものが並外れたものであり、簡単に体得できるものでないと実感した。ステージのことは覚えていないが、普段の内田さんがとても生真面目な方に思えたことは覚えている。


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果てのないこと


 さて、その練習だ。この歳になってもまだ続ける意味合いというものがあるのかどうかってなことだが、上手くなりたいとかいうレベルでは最早なく、どう頑張っても飛躍的な向上は絶望的かも知れない。それが分っていても鍛練するのにはいくつかの理由がある。ずいぶん前にも触れたが、人は様々な悔いを抱えているものだけど、アメリカでのアンケートによれば人生最終章に入った年寄の後悔で最も多いのが「チャレンジしなかったこと」で、実に7割を超える。チャレンジには少なからずパワーが必要なわけで、後回しにする内に歳を取ってしまったという感覚らしい。先ずその点で後悔を残したくないというのは深く胸に刻まれている。もう一つは知識欲みたいなものだ。むかしサックスのデイブ・リーブマンと仕事をしたのだけど、彼はリハーサルの合間などに必ず5線のノートに向かい何かを書いていた。遠くからそれを見ていたわけだが、詳細が分からない。そこで思い切って訊ねてみた。「何を書いているんですか」「いや、これはね、頭に浮かんだ断片とかそんなものを書いているんだ。日課みたいなものでね、家に帰れば天井に届くぐらいノートがあるよ。」「それは例えばジャズのリックとかそんなものですか?」「いや、それもあるけどR&Bに凝っているころはR&Bのリフみたいなもので埋まっててね、その時々で傾向は違うんだけど、聞いたことのあるフレーズとかも多いわけだよ。でもね、一度自分の頭のフィルターを通して身に付けようとしたものだから、それは全部自分のものなのさ」ってなことで感心しまくった。その時に教わったのは、模倣は出発点であってもコピーになっては元の木阿弥、オリジナリティ、自発的に自分から何かを作り出すことの重要さだった。厳しいことだが、スタジオでのソロワークの仕事の際にはいつもそのことが念頭にあった。歌のバックでのソロワークにはジャズのリックはほとんど意味を成さないというか、楽曲に合わないことが多く、その点では自由に発想する面白さも充分味わった。それでも誰かのように吹いてくれというオーダーも多かったが。その自由な発想で音楽を紡ぐことに終わりはないわけだ。後は、心残りであった多くのプレイヤーのこと。例えば晩年のコルトレーンが残したラシッド・アリとのデュオ。ほとんどフリーファームのようなものだけど、これにもコルトレーンのソロには一拍一拍にコード進行の企みが隠されている。この録音の中から一曲だけ採譜しているところなのだが、それは身が縮むほど恐ろしく深い。たぶん、このようなものはサックス奏者のように単音楽器の者にしか聴き取ることは出来ないかも知れない。ピアノの大石氏はコード楽器のないこのアルバムを聴くのを途中でやめたという。他にも学ばなければならないことは山積み。
 20代初め、菊池師匠に就いて2年強、バップを叩き込まれたが、その時に思ったことは「これを一生続けていくのか」という残念感だった。背伸びしたがる先走った青年だったから、もっと新しいことをやりたいと切望するようになったのだ。無軌道の始まりだ。それで、ここに至り人生最終章を迎えたところで全ての帳尻を合わせようとしているとも言えるわけだ。

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お囃子


 大きな体育館で行なわれた成人の日のイベントには行ったようで行かなかった。というのも会場に一足入っただけで出てきてしまったからだ。誰か知っている顔でもあるかと覗いたが見当たらなかった。すでにバンドマン生活2年目に入っていて、この年の11月に上京した。遠い遠いあまりにも昔のことだが、あれから半世紀というのが信じられない。



 成人式の集まりに一度だけ仕事をしたことがある。80年代後半のことだから、これもすでに四半世紀ほど前だ。当時、歌手としても活動されていた奥田瑛二さんのショーを博多でやることになった。奥田さんはアルバムも2枚発表されていたし、とにかく若いころから多才な方だった。彼との仕事がそれ一回だけだったか、他にもステージをご一緒したかは定かでない。博多の会場は式典の後に設けられた、決して広くはないライブハウスのような場所で、立ち席だったと記憶している。実家は博多から電車で一時間程度の場所だったし、帰りに顔を出すかってな感じで気軽に引き受けた。ステージは新成人の居並ぶ中で始まった。3曲ほど歌い終わると奥田さんがステージから消えた。こちらとしては「あれっ、こんな演出あったっけ。聞いてないなあ」ってな感じで周りのメンバーを見た。バンマスはステージ袖を覗き込むようにしている。どうやら不測の事態が発生したらしい。その間、何か音を出していたかは覚えていないが、奥田さんがステージに戻ってくるまで、かれこれ20分ほど経過していた。ショーが始まっても聴いている人はほとんどいなくて、それぞれのお喋りに夢中という状況に立腹してステージを降りたということが後で分かった。残りの曲を何とか終えてステージは終わったのだけど、ま、歌手にしてみれば誰も聴いていないステージが腹立たしいものであったことは間違いない。プロなんだからちゃんとやれという意見もあろうが、あの客席は酷過ぎた。そもそも呼んだ側にも空気を読めない迂闊さがあったと思う。
 そんなことは他にもあった。ホテルの大きな会場で行われたのは、その当時盛り上がっていたネズミ講もどきの集会だった。全国から集まった成績優秀者が表彰されるというイベントで、集まった人たちの目はどこか血走っているように見えた。そこでのショーはさるコーラスグループの方々だった。明るく場を盛り上げようとしている最中に事は起こった。会場にいる人たちが一斉に左の方に注目する様子がステージ上からもはっきり分かった。左の扉から現れたのは、その組織の会長だった。もう誰もステージなど観ていなかった。歓声が上がり、音楽は中断した。マナーも何もあったものじゃない。音楽は、その場の景気付けのように扱われることも多く、僕らはステージの上でその度に砂を噛むような思いをしたってわけだ。

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