☆☆☆

8小節


 オーバーホールした楽器を引き取り、帰りに練習スタジオを借りて試奏してみた。「げっ」と声が出るほど吹き辛い。メンテがうまく行かなかったわけではなく、体が付いていかない。この10日間ほどはフルで楽器を鳴らすということが出来なかった。もちろん家には出しっぱなしのテナーがもう一本あって、毎日何時間かは触れていたのだが、フルトーンで鳴らすわけにもいかず、だいたいはイメージトレーニングに近かった。その上、今日借りたスタジオの部屋の響きは恐ろしくデッドだった。楽器を鳴らすのにデッドな環境というものはとても辛い。つい力んでしまうことになるのだ。力みは大敵であっていいことなど一つもない。
 こんな話を聞いた事がある。どのような楽器にしろ、演奏家の奏でる音色には国によって違いがあるというのだ。それは住環境によって大きく異なるという。友人はヨーロッパ各地のいわゆるライブハウスのような場所で演奏した。彼が言うには、どの会場も音が響き過ぎるぐらい響いて最初は戸惑ったらしい。というのも特に北欧の建物は基本的に石造りであって、響かせようと目論んだわけでもなく、それが自然なのだという。その環境で楽器を学ぶということになる。日本は基本的に木造の環境で、今は違っているかもしれないが、昔は畳の上にピアノが置かれていた。そのあまり響かない環境で楽器に向かっていたわけだ。その違いは大きい。



 例えば畳の間でヴァイオリンを聴いたとする。響きは儚く心細い音色に聞こえる。もちろん達人が弾けばそれなりの説得力は持つが、適度な残響込みで弾かれるべき楽器であることは間違いない。ヴァイオリンの音色は単に弦に弓の弦が擦れるだけの生々しいものなのだ。その原始的な音が響きを伴うと、えも言われぬ音楽として認知されるわけだ。

 それはさて置き、デッドな空間で出した音の心細さったらない。なんだか無響室で吹いているような残念さがある。しばらく焦って続けたわけだが、明日もう一度同じスタジオでチャレンジしなきゃってな感じだ。明後日、録音の仕事を頼まれている。その歌手の愛聴盤が山下さんのライブだという。89年にそれまでのライブ音源を2枚組CD化したものだ。30年も前の録音で、見本盤を頂いてはいたが一度何曲か聴いただけで、盤を通して聴いたことなどなかった。そんなことを聞いたものだから何曲か再び聴いてみた。ま、若い。音ははち切れそうに鳴っているし、こんな音出るだろうかと不安にもなろうというもの。その情況で今日の練習、焦りも出るわけだ。自分が吹いたわけだからイメージははっきりあるのだけど、体が思い出すまでに少し時間がかかる。しかし、昔の録音を聴いて驚いたのは音色だけでなく、何事も全力だった無茶苦茶なパワーだ。今こんなことやったら死ぬなあってな感じだ。山下さんのツアーをやっているころ、勝手に決めていたことがある。だいたいは間奏のソロをやって後奏で歌にからんでというものだったが、昨日と同じことは絶対やらないということだった。似通ったものになることはあるにせよ、出だしだけでもまったく違うアプローチでということが重要だった。
 それがスタジオミュージシャンとしての活動の要だった。そのやり方は今のライブ活動でやろうとしていることとは根本的に違った側面がある。今の活動では、一曲の中で長い物語を紡ぐことにポイントがある。8小節で終わるわけではなく、何かインスピレーションが湧くことを待ちつつ紡いでいくわけだ。それで、今回も固辞したのだが、どうしてもというので引き受けた。再び8小節の世界の緊張感に戻れるのかどうかはやってみないと分からない。この歳になってなんとスリリングな展開だろうか。

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