☆☆☆

プレッシャー



 ほんの一瞬だけ偉そうだった桜も、今やフツーの樹になってしまった。なんてこったい。
 今日、久々に長時間押さえの劇伴の仕事のオファーがあった。6時間だという。迷わずというか、断腸の思いでお断りした。ずいぶん前から視力の衰えを感じていて、6時間の長丁場で譜面を見続けることは無理だと判断したからだ。テレビドラマ、映画などのバックに流れる音楽、いわゆる劇伴は一瞬たりとも気が抜けない苛烈な仕事場。だいたい曲数が多い。映画などの場合、50曲を超えることもある。50曲といっても、数秒の音楽もあれば3分を超えるものもあるわけだが、他のスタジオワークの仕事同様譜面が事前に渡されるなどということはない。直前にそれぞれの譜面台の上にドサッと音をたてて置かれる。今日はやけに少ないなあ、などと思っていると、スタジオのロビーで写譜屋さんがスコアと首っ引きでまだ書いていたりすることも多々あった。印刷譜と違い、手書きの譜面はそれぞれに癖のようなものがあった。急いで書いたものは時々おたまじゃくしがどの線にかかっているのか分からなかったりする。もちろん、前後の繋がりで即断して演奏するが、視力の衰えはそういった場合は障害になる。



 劇伴は最低でも3時間ほどの押さえで、6時間の場合は映画音楽の可能性が高い。しかしながら、音楽事務所によっては2時間押さえなどと甘く時間を見積もってしまって、録りきれずに泡を食った例がないわけでもない。ミュージシャンは次の仕事を入れていたりするから、蒼ざめたインペクがあちこち電話をして新たな人を確保しなければならなくなる。ま、そういった場合、僕らは密かに「ほーら、言わんこっちゃない」などと思っていたりするわけだ。
 そういったわけで、仕事は初見の楽譜を読むことで成立する。練習はない。最初の内は全体のバランスを取ったりするために、何度か同じ曲をやったりするが、記譜の間違い、大きなミスなどがなければ後は次々に録音されていく。初見に慣れたのは夜店のおかげと言っていい。昔のキャバレーには必ずショータイムがあった。歌手が圧倒的に多かったけど、気を引き締めてかからざるを得ないダンスチームもよく出演した。一度か二度、昼間に出勤してリハーサルが行なわれたこともあったが、だいたいは控室で口頭の打ち合わせだった。テンポと曲間のつなぎの部分の確認だけでステージに上がった。いやでも譜面に強くなった。譜面は慣れだ。

 その劇伴、山田洋次監督の「学校Ⅲ」は異例の録音だった。監督はワンシーン、ワンシーン、映像と音楽の合い方を細かくチェックされた。大船の撮影所のスタジオでの録音は昼1時に入って深夜に及んだ。後に監督はサントラのCDに「いつも、ミュージシャンがプレイバックを確かめることもなく、サッサと帰っていく。みんな納得しているんだろうかと疑問に思っていた。」と書いておられた。納得するも何も、僕らはコンソールルームからOKが出れば逆らえずに了承するしかなく、もう一度やらせろなどと言えば、迷惑がられることは目に見えていたわけだから仕方がない。むかし、あるインペクの女史に「劇伴ですからー」と、音楽がメインじゃなし、大層に考えなくとも大丈夫だと念を押されたことがあるぐらいだ。
 それでも一発録りで次々に録音することがミュージシャンにとって修羅場であることは確かだ。曲毎に楽器もチェンジするし、譜面を見ただけで雰囲気も把握しなければならない。これはハードなロック調だなとか、癒し系の音楽だなという風に。


 そうやって、終わった譜面を次々に下に落としていき、譜面台の上の楽譜が少なくなれば「もうすぐ終わるな、あとはお足をいただいて、と」などとほくそ笑む時間が訪れるのだ。大きな編成になると、音がかぶったりする問題も起きてくるから、ブラス系は別室に閉じこめられることもあった。



 ガラス越しに指揮棒を見る。ある日の仕事でも、やはりこの別室にトランペット、トロンボーンと共に入った。その日の作曲家はサックスとトロンボーンに多くのソロを割り当てていた。3時間を過ぎたころ、トランペットのセクションはすべて終わった。別室はトロンボーン奏者と僕だけになった。それぞれのソロが何曲か残されていた。劇伴でサックスにソロが多いことは珍しくなかったが、あんなに多くのトロンボーン・ソロが書かれていることは滅多になかった。ベテランのプレイヤーだったが、それでもソロが相次ぐことに少々ストレスを感じておられることは傍で見ていてよく分かった。彼の譜面も残り一曲になった時だった。ミュートを付けてのソロで、カラーンと音がした。見るとミュートを落としたようだった。顔には脂汗のようなものが見えた。小さく「あれっ」と声が聞こえた。録り終えると、その場にへたり込むように尻をついた。「渕ヤン、おかしい。おれ、こんなの初めてだよ・・・」とくぐもった声で言う。「具合悪いの?大丈夫?」などと返答しつつ、ソロを吹くことになった。意識ははっきりしているようだし、録音中だから騒ぐのも憚られた。何とか残された曲を吹き終えて、彼に手を差し伸べた。「こんなの初めてだよ」と言うばかりで、症状はよく分からない。「帰れる?」と訊くと「帰るよ」とのこと。立てるようだし、車の運転も大丈夫だという。彼の自宅近くに住むその日のメンバーの一人に相談した。「じゃあ、さ、オレが後から付いて行く感じで送っていくよ」ということになった。後日聞いた話では、交差点で信号待ちしているとスルスルと出て行くし、けっこう大変だったらしい。彼は半身麻痺で程なく現役を退いた。
 あの日の仕事が引き起こしたのではなく、以前から抱えていたものが出たのだろうけど、極度の緊張などが引き鉄になったに違いない。
 来る日も来る日も緊張を強いられ、次の仕事で何を要求されるか皆目見当がつかないというのもストレスになる。ベテランのトランペット奏者は、一世を風靡するといった具合に売れっ子だった時期がある名人だった。知り合ったころにはピークを過ぎていて、しかしそれは歳には勝てぬということであって問題があるものでもなかった。だが、先輩は昔のように演奏することが全てだと思われているようだった。間違ってはいけないというプレッシャーと戦いつつ仕事をされているようにも見えた。録音の際、みんなヘッドホンかイヤホンかを耳につけて演奏するわけだけど、プレッシャーを感じている人ほど音量を上げているようだった。例えばドラマー。彼らはクリックを聞いて演奏している場合がほとんどだが、その音量に驚かされることも多かった。それは反面教師にもなった。自分も追い詰められるような仕事の際はヘッドホンの音量をめったやたらと上げていることに気付いた。ヘッドホンの音量を上げれば勇み立つ気分にはなれるが、それは間違いなく力みを生んだ。引きつったような音でのソロに良いものがあるわけもなかった。それで、ある日を境にヘッドホンの音量は極力抑えることにした。楽になった。クリックも最初の部分はカウント代わりになっていたから聞くが、後はすぐ絞って聞かないようにした。クリックに合わせるのではなく自分の感覚を信じることにした。ますます楽になった。潰れる寸前に気付き、ほんの何年かだけどキャリアが延びた。
 それで、トランペット奏者の話だ。彼はパイプ椅子の上に使っていたイヤホンを置いて、コンソールルームにプレイバックを聴きにいった。僕はスタジオ内のスピーカーで聴いていたのだけど、プレイバックが始まると彼の椅子に置かれたイヤホンがとんでもない勢いで撥ねた。どれだけの音量で聞いていたのかと度肝を抜かれた。踊るように撥ねたイヤホンはついに椅子から跳び上がって床に落ちた。

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妹尾ちゃん


 ブルースはポップスの原点に違いなく、チャーリー・ミンガスはジャズの将来について質問された時「ブルースが失われなければジャズは永遠だ」と言った。ペンタトニック五音が織りなす旋律はシンプルがゆえに深い側面も合わせ持つ。若いころ、そのシンプルなブルースよりも、もっと複雑で偉そうな表現に夢中になり、揚げ句はフリージャズに近いことまでやったりした。ま、若さゆえの暴走だ。僕らが二十歳のころはすでに故人だったとはいえコルトレーンの影響下にあったし、マイルスは電化するし、それまでの伝統的なジャズを覆す様々な流儀を試すプレイヤーが次々に現れて来るし、といった具合でブルースなどに目を向ける余裕がなかったといってもいい。しかしながら、音楽シーンが落ち着いてきて、フュージョンと呼ばれる耳当たりのよい、いわばハードなイージーリスニング音楽が席巻してくると、古典的なブルースの基本がその核になっていることに気付かされることになった。散々複雑なラインが横行していたのに、原点回帰のような現象が起きてしまったわけだ。サンボーン然り、グロヴァー・ワシントン然りという具合にだ。みんなペンタトニックに戻ってしまった。その時代、本来のジャズは片隅に追いやられることになった。アート・ブレイキーなどもウィントン・マルサリスが救世主のように現れるまで不遇の時代を過ごすことになった。そういった意味でマルサリスが果たした役割はとても大きい。もちろん、フュージョンのカテゴリーに留まらず新しいラインを紡ぎ出すウェザー・リポートなどというバンドもいたが、彼らにしても伝統的なスイングビートからは離れていた。
 私の場合、無茶なトライを続けてはいたが、根のところでファンキーであることの重要性を無視したことはなく、スタジオミュージシャンとしての活動に欠かせないものでもあった。それは20代の終わりに参加した上田正樹さんのバンドが大きな引き金でもあったし、それ以前にもフレダ・ペイン、スタイリスティックス、ドナ・サマーなどとの仕事があって、ファンキーな表現に対する憧憬は常にあった。上田さんのバンドでのライブは他の関西のバンドと一緒になることも多く、憂歌団やウェスト・ロード・ブルース・バンドもその頃知った。30代の半ば頃からウェスト・ロード・ブルース・バンドのギタリスト塩次伸二氏などとセッションをする機会が増え、ブルースへの興味が任務のようになってきた。ようするに本格的な原点回帰を自ら体験することになった。アルバート・コリンズのレコードは全部入手するほど入れ込んでいた時期もあったが、時代を溯るようなやり方でトライして何かを得られるような甘い世界でもなく、それだけに焦点を定められるような潔さも持ち合わせず、なにしろ興味の範囲が広過ぎる節操のなさだったから、やがて足跡の一つとして止めることになるのだが、当時はブルース系のミュージシャンに少しでも近付こうと必死だった。

 86年には塩次氏と一緒にシル・ジョンソンのステージに立ち、シルのブルースハープのソロの簡潔な深さに大いに感銘することになった。ブルースハープとはハーモニカのことなのだが、昔マウスハープと呼ばれていたことから、ホーナー社がブルース・ハープという名のモデルを発売して、いつの間にか十穴の小さなハーモニカを総称するようになったらしい。シル・ジョンソンのソロはペンタトニック五音ではなく四音だった。
 日本でブルースハープ奏者といえば妹尾隆一郎氏を置いて語ることは出来ない。妹尾氏とは何かのイベントで同じステージに上がったような気もするが、一緒にライブをやった記憶はない。しかし、どんな経緯かはまったく覚えていないが、一時親しく交流があった。ちょうど、あの忌まわしいサリン事件があったころ、それについて語った記憶があるから95年頃に付き合いがあったことになる。当時、妹尾さんはパソコンオタクでもあって、その線で付き合いがあったのかもしれない。妙に馬が合う人だったから彼との付き合いは面白かった。一緒に音楽をやっていたわけでもないのにだ。疎遠になったのは彼が関西に戻ってしまったからだ。久々に再会したのがバーナード・パーディ氏との関西でのライブの時だった。その時も一緒に演奏したわけじゃなかったが、「やあやあ、久し振り」と笑顔で会話したことはよく覚えている。最後に会ったのは塩次氏の葬儀だった。佐野市の葬儀会場で「大変だったね」と声をかけると「いやあ、まいった」と大きなため息をついた。彼と塩次氏はデュオでライブツアーをやっていて、佐野市での開演前に塩次氏が倒れそのまま帰らぬ人となったのだ。地元のミュージシャンと何とかライブを終え、病院に駆けつけると塩次氏は亡くなっていたという。あれから10年が経ち、今度は妹尾氏の訃報を聞くことになった。昨年の12月だというから、「えー、そんなあ」と声も出ようというものだ。誰か知らせてくれても良かったのにと思うが、ライブで一緒に活動していたわけでもないから、僕らの交流を知る人は塩次氏ぐらいしかいなかったと思われる。妹尾さんはどういうわけか、妹尾ちゃんと呼ばれることが多かった。例えば山田などという名は山田ちゃんと呼ぶことはない。しかし、姓の語尾、姓の一字の語尾が母音の場合、ちゃん付けで呼ばれる人が多い。中井ちゃんとか荒尾ちゃんとかいった具合だ。彼が家に遊びに来たときの会話では「それでさ、妹尾ちゃんさ」などと言っていたような気がする。
 同い年のミュージシャンがまた一人いなくなった。冥福を祈る・・・。

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アルバム


 この暖かさで、すっかりその気になっている桜ども。



 昨年の暮にCD制作でお世話になった事務所から連絡を受けた。制作から撤退するという。在庫のCDを送付したいとの話だった。残っているのは数十枚だが、新たにプレスも可能で、その際は連絡頂きたいとのこと。2003年だから15年前のアルバムだ。出来た頃は幾度か聴いたが、もうずいぶん長いこと聴いていない。ついこないだ、大石氏が久し振りに聴いて「これがさ、良かったんだよね」などと言う。そっ、そうかなってんで、CDを取り出してはみたが聴くには至らなかった。むかし、吉田美奈子さんが仰った。「アルバムはね、出せば出したで後悔というか、何らかのストレスを抱えるものなの」というようなことだったが、それはよく分かる。ああすればよかった、こうすればよかったというようなことだが、結局のところ自分で納得するものなど作れないのだ。欲深とかそういうことではなく、だいたい自分が満足した時点でヤバいではないか。作った頃、当時の頭の中はバンドのことしかなかった。寝ても覚めても、あの曲のサウンドはこうで、この曲はこうやってなどと、そんなことばかり考えていた。その最終地点に近いものが録音された。ようするに最も盛り上がっていた頃の音とは少々違った。いくらか慣れも出ていた。いくつかの曲はライブでの演奏の方が上出来だった。録音するタイミングは難しい。高円寺のジロキチでのライブ音源は一曲だけ使ったが、全曲ジロキチでのライブ音源にすればよかったなどと考えたりもする。年に数回ジロキチでライブをやって全てを録音していれば、いいものがチョイス出来るかもしれない。しかし、あの頃のような集中力と緊張感を取り戻せるのかという心配がまた新たに押し寄せる。とりあえず7月に再開して、新曲で作れればいいのになどと夢想しているわけだ。

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オープンリール


 その昔、上田正樹バンドのマネージャーとして短期間在任されたのが大参(おおみ)さんだった。静かな方だったが、ある日のライブステージ前に軽く前説のような司会をされ、それが客席をほのぼのと煽るようなものだったので一挙に好感度は増し、僕らの頼りとするマネージャーになった。在任は一年ぐらいだっただろうか。その後の活動はよく分からなかったが、1978年のことだ。彼はチック・コリアのツアーに日本側からアシストする形で同行することになった。コリアは「Mad Hatter」をリリースし、ほぼ同じ編成でワールドツアーをやっていた。レコーディングではエディ・ゴメス、スティーブ・ガッド、ジョー・ファーレルなどが名を連ねているが、さすがに全ツアーに同行させるには無理があったらしく、リズムセクションは若手だった。それでも出来得る限りのメンバーが集められていた。



 ストリングス・セクション、ブラスセクションを抱える15人の大所帯だ。ヴォーカルでゲイル・モランもいた。トランペットにはアル・ヴィズッティもいたし、何よりもサックスがデイブ・リーブマンだった。このコンサートを聴きに行ったかどうかはよく覚えていないが、ヴァイオリンに黒人がいたことを記憶しているぐらいだから行ったのかもしれない。直前になってリーブマンは来られなくなり日本公演では日本のサックス・プレイヤーが参加というガッカリする情報があった。しかしながら羽田に着いた飛行機からリーブマンが降りてきて招聘元は嬉しい悲鳴を上げたそうだ。
 大参さんによれば、ツアーでのチック・コリアは終始上機嫌で、ステージの片付けをするスタッフの動きに合わせた伴奏をピアノで弾いてみせたりして笑わせてくれたそうだ。「それがね、動きをコミカルに捉えてて、実にピッタリ合っているもんだから思わず笑っちゃうんだよ。そんなことやり出したら止まらないんだよ」ってな調子だったらしい。

 そのツアーの最終日、大参さんはPAスタッフからプレゼントを受け取った。それはオープンリールのテープだった。最終日のラインテープだ。ラインテープとは、客席のスピーカーから流れる音とは違い、マイクから直接拾った音が録られている。かなり生々しい音であることは確かだ。普通、そのようなテープは門外不出のものだけど、ツアー同行記念に頂いたそうだ。もらった大参さんとしては処分するのも憚られ、その扱いに困って「あげるけど取りに来る?」と連絡があった。しかしながら喜々としたのもつかの間、頂いたオープンリールテープは一般家庭用のデッキでは聴くことの出来ない10インチのサイズだった。




 10,7,5と並んでいる。家庭用のデッキで主に使われた7号は中央の赤いラベルのものだから、10号がいかに大きいか分かる。しばらくは諦めていたが、途中で切らざるを得ずハサミが曲途中になるかもしれないリスクも覚悟し、空の7号リールに時間をかけて巻き直した。やっとテープを聴くことが出来るようになった。テープにはコリアの喋りも含め、ステージの様子がすべて録音されていた。最終ステージはツアーのラストでもあったらしく、コリアはかなりハイになっているようだった。メンバー紹介ではそれぞれを私の従兄弟だとか姪だとか言っているし、途中のトークでは日本人が英語をよく理解しないのを揶揄したのか、わけの分からない言葉で喋り始めたりしている。
 このテープをカセットに移し、2時間半のライブ秘蔵テープとして長年にわたり愛聴した。リーブマンのいくつかのソロは諳んじているほどだ。チック・コリア37才、リーブマン32才、まだまだ若く瑞々しい。40年前だ。久し振りにカセットを聴くと、経年劣化でテープが怪しい。そこで、この先聴くことはないかもしれないが、PCに取り込んで保存することにした。
 この2年後、デイブ・リーブマンは自分のリーダー作で「Chick-Chat」という曲を録音している。曲の解説にリーブマンは書いている「この曲はオーストリアのウィーンで、ちょうどチック・コリアと1978年にワールドツアーを回っているときに書いたものだ。多くの会話、時間を共に過ごした、この偉大な音楽家に捧げる。」

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プーッと吹けば


 久々に外出時間が8時間を超えた。玄関前に楽器をゴトンと置く音で気付くらしい。ねこ2名がドアの前に並んでいた。お帰り、お帰りってなものだ。しかしながら、これはとうちゃんが帰ってきて喜んでいるというものでもなく、実のところ、ごはんが帰ってきたという安堵の様子だと薄々気付いてはいるのだ。歓迎の儀式の後、2名とも皿の前にそそくさと座るから、それは明々白々。



 で、まあ、ソロの録音に行ってきたわけだ。初めて行くスタジオは響きをつかむまでに少々苦労する。力の入れ加減が分からない。音の伸びも部屋によって違うし、ミキサーの録り方ももちろん違う。それで最初のテイクは探り探りになることが多い。今日もそうなった。ファーストテイクで瞬時に判断して次のテイクに臨む。途中で没にしてしまうテイクもあるが、立て続けに5テイク以上は吹く。コントロールルームからOKが出ても「もう一回」と言いつつテイクを重ねる。そうやっている内に以前の感触が戻ってきた。うまく行ったようなテイクでも自分にだけ分かるほころびというものがある。そうやって続けているとストンと無心に近い情況になることがある。策を弄してないテイクが録れれば、そこが本日のゴールになるわけだ。
 30年前の自分の録音したものを聴いて、「もはや、今のあんたにはこれはできないだろう」と言われたような気もした。実際、30年前の音は出ない、というか出せるわけもない。それで、「そうは言うが、これなんか君には出来ないだろう」というような展開を絞り出したいわけだ。残念なのはメロディを即興で創り上げる技よりも何よりも、音が昔に比べれば軟弱なことだ。ストレート豪速球は望むべくもなく、ま、変化球だ。だから豪速球で行きたいと感じた2曲目は少々苦労した。16分音符にこだわり、8分音符で乗ればいいということに気付くまでに時間を要した。そこら辺の判断が鈍っているのは確かで、瞬発力は落ちているらしい。気付いただけでも良しとしようってな案配なのだ。音そのものを立て直すにはロングトーンの吹き伸ばしの練習しかない。やっぱ楽器は基礎練習だよな、ってなことを1時間の録音でまたまた学んだ次第。

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