☆☆☆

マイクの前に座り


 クリスマスを過ぎると、いよいよ歳末色が濃くなり、また繰り返しの始まりが来るというような残念感もよぎる。



 30代の初めからほぼ四半世紀にわたって、今や形骸化というか実態が消えたとされるスタジオミュージシャンとして活動した。一世代後のプレイヤーに言わせれば、僕らの時代はスタジオワークの最後のピークだったらしい。しかしながら当人はスタジオミュージシャンになる気など更々なかった。どちらかといえば勘弁して欲しい世界だった。20代の終わりにはいくつかの仕事でソロを録音したりしたけど、その世界で生きていく気などなかった。所詮は芸能界というような抵抗があった。上田正樹氏のバンドを辞めてからは当てのない不安定な時期が訪れた。ジャズのライブからは足を洗ったという感覚があったし、何をやっていくのか目的も定まらず、たまにソウル系のバンドのライブを手伝うぐらいで、たまに声をかけられる「竹内マリアさんのステージを手伝ってくれないか」だとかいう誘いは断っていた。そんな方面で演奏して生きていくなど考えもしなかったのだ。当然のように仕事のオファーは消えていった。たまのライブハウスで生きていけるわけもなく、暗礁に乗り上げたような状況が続いた。入り口に立ってはいたが逡巡しているようなものだった。伝説のソウルバンド「荒川バンド」にトラでやって来たのがスペクトラムで活躍したトランペットの兼崎さんだった。彼は新田一郎氏のホーンスペクトラムの主要なメンバーだった。彼の強い推薦でそのホーンセクションを手伝うことになった。後で知ったことだが、それまで参加していたサックス奏者を追い出す形での参加だった。新田氏のホーン・アレンジの仕事は多忙を極めていた。ほぼ毎日のようにスタジオに入る日が続いた。ソロワークとは違い、あまり抵抗なく仕事と割り切ることも出来た。なにせ時給が1万円以上の仕事などそうそうあるものでもない。スタジオの仕事は時給か1曲単位で支払われる。ギャラ設定は同額で、レコーディングは1曲単位だがテレビドラマの劇伴などは時給で換算される。ドラマの音楽は1曲として成立しない数小節の断片が多いことにもよる。当時の流行りはホーンを重ね録りすることだった。同じパートをダブらせてよりゴージャスな響きにすることが定番だった。それで1曲なのに2曲分のギャラが発生することになった。そんな録音を1日に2曲はやっていた。同じころ、別ルートからCMのインペクからのオファーを受けるようになった。その方にはピットイン時代のバリトンサックス奏者としてのイメージがあったそうだが、テナーやアルトも吹くことを知って驚いたという。それで早速使ってみようということになったと聞いた。この仕事も2、3日置きに入ってくるようになった。それまで白紙に近かった予定表が突然細々と埋められるようになっていった。パシフィックホテル時代のサックスの先輩は演歌方面の録音が多かった。サイドメンに困ると電話がかかってくるようになった。新田氏との仕事でインペクへの認知度が増し、ソロの仕事が入るようになると、後は雪崩のようだった。家に帰ると必ず仕事が3つ以上は増えていた。やっていることの是非など考える暇もなく、毎日の仕事をこなすだけで精一杯の日が続いた。それまでビッグバンド出身者がほとんどだった奏者の中に突然変わり種が現れ、それが新鮮だという流れもあったらしい。優れているとかいう問題ではなく、オファーする側が新しい息吹を求めていたわけだ。事務所関係の情報のやり取りからオファーされる仕事の内容も多岐にわたるようになった。「クールス」からソロ歌手になった水口晴幸さんのレコーディングでソロを吹いた縁で彼のステージも手伝うことになった。そのステージを見に来ていたのが何曲かをプロデュースしていた山下さんだった。彼のステージには一度トラで行った事があったが、次の年にはツアーを頼まれた。よく知らない歌手だったのだけど、仕事の流れで引き受けることになって3年間続けた。一旦辞めて復帰する展開で都合4年間お世話になった。ツアーに参加して驚いたのは、彼のツアーを手伝っているという理由で入ってくる仕事があることだった。変な話だとは思ったが、世間の評価というものはそのようなものであるらしい。スタジオ仕事の延長でいくつか同様のステージもこなしつつ、テレビの歌番組にも度々出入りするようになった。ベストテンとかトップテンとかいう類いだ。さらに、強引な先輩に頼まれて「夜のヒットスタジオ」という番組に1年以上は在籍した。テレビの仕事の場合は長い時間の拘束になる。だいたい朝の10時にテレビ局に入り、リハ、ランスルーなどを経て本番で、終わりは11時だった。単純に13時間分のギャラが支払われた。バブリーな話だが、当時はCMだってフルオーケストラで録るものも多かったのだ。15秒のCMを40人ほどで録るわけだから贅沢この上ない。そのような調子で仕事をこなしていて少しずつ「変だな」という思いを抱くようになった。ソロの録音には本人の意思とは関係なく無理な要求も多かった。嫌だったのはデヴィッド・サンボーンの真似事だった。それは本人を呼んでくださいよと抵抗したこともあったが、その要求に応えることに気力が消耗することも増えた。3年ほど経ったころ「こんなことをやりたくてプレイヤーになったわけじゃないのに」ってな愚痴をもらすと、先輩のギタリストが笑いながら答えた。「そりゃあ、おまえ、みんなそうだよ。スタジオミュージシャンを目指したヤツなんていないんだよ。おまえ、そうだろ? 目指してなれるもんでもないだろ? だけどさ、もうここで生きていけるだけでもありがたいと思わなきゃってなことなんだよな」。先輩はグループサウンズの時代のプレイヤーで、ギタリストとして録音の仕事を請け負い、器用にこなしている内に仕事の幅があれよあれよと広がり、なし崩し的にスタジオミュージシャンと認知されたらしい。
 スタジオ仕事の初期に、たびたびCMで一緒になったギターの北島さんは若手の注目株だった。ある日、彼はスタジオワークから身を引いて自分のバンド「フェンス・オブ・ディフェンス」を結成した。鮮やかな決断だった。羨ましい転身だったが、決断するには少々中途半端な歳だったし真似ができるほどの勇気もなかった。
 スタジオの仕事で楽しかったのは、やはりソロダビングだったのだけど、良いものの多くは無名の歌手のレコーディングで、残念なことにあまり世間に知られることもなく消えてしまった。

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3000曲



 こないだトランペットのロイ・ハーグローブが若くして亡くなったと聞いたばかりだが、今日は前田憲男さんが亡くなったと知らされた。ジャズ・ピアニスト、作編曲家と紹介されてはいるが、個人的には編曲家としての素晴らしさが強く印象に残っている。若いころ、品川のパシフィックホテルのバンドで演奏していたとき、たびたびドラマーの猪俣猛さんの奥様の歌手テリー水島さんがショーに出られた。譜面の中の曲のいくつかは前田さんのアレンジで、サウンドも新しいし演奏するのが本当に楽しかった。前田さんのアレンジ譜には専属の写譜屋さんがいて、その読みやすい譜とサウンドが他のものと比べるとグレードが違うなと感じていたものだ。スタジオミュージシャンとして活動するようになって、数少ないがご一緒する機会もあった。「ミュージックフェアー」とか「題名のない音楽会」とかいったテレビ収録が主だった。しかしながら実際にお会いするのは緊張もしたし、放つオーラが苦手な方でもあった。もちろんサウンドはいつもゴージャスでワクワクした。遠巻きにしつつ感心していたわけだ。
 直に指導を受けたわけではないが、人伝てに聞いた前田さんの言葉に大きく影響を受けたことがあった。それはアレンジャーになるためにはどうすればいいかというような質問に対しての返答だった。「3000曲コピー」と仰ったそうだ。根が単純なこちらとしては「ああ、そーかー」ってなものだった。聞いた次の日から実行に移した。コピーといってもメロディだけを採譜するわけではなく、サウンドの一部始終、ベースラインからドラムまですべて聞こえるものを書き留めるのだ。時間さえあれば朝から深夜までヘッドホンをして五線譜を埋めていった。取り憑かれたように続けた。曲はカントリー、オールディーズ、映画音楽、ロック、もうジャンルには一切構わず聞こえてくるものは拒まずといった体で続けた。半年ほど経って曲が200曲ほどに達したところで一段落させることにしたが、それはそれは勉強になった。普段漠然と聴いていたものが、細部を採譜して理解が深まると聞こえ方が違うようにも思えたのだ。それは自分で曲作りをするときに大いに役立つことにもなった。前田さんはアレンジをしていて分からない部分が出てくると奥様をレコード屋に走らせ、レコード試聴を電話口で聴かせてもらって疑問点を解決したというような逸話が残っている方だったから、曖昧な部分を許さない厳しさを貫かれたと思う。

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去った友へ


 14日にピアニストの佐山が逝き、前日にはテナーの片山広明氏も身罷っていたことを知った。続けて2人が消えたことに愕然とする。佐山氏が僕らのバンドにいたことがあることは先日書いた。彼は有望な新人として知られていて、すでに巷では大阪ピーターソンとも呼ばれるほど達者だった。クラシックのスコアを見てすぐピアノにトランスして弾くことも出来たし、とにかく多才だった。一緒に活動した時期、バンドはオリジナリティを求めるために割合過激な展開を取ることが多かった。それが辛かったようで、あるライブの日に彼はスケジュールをすっぽかしてしまった。ベースの早川と2人でこっぴどくとっちめることになった。それがトラウマになったのか、その後仕事などで会う事があっても、目が泳ぐようになってしまった。ずいぶん後に、どこかのホールで彼のアレンジによるコンサートに参加した折、やっと昔の話をすることが出来た。「才気走ったナイフのような人で苦手だった」と言われて驚いた。決してそんなものではなかったと思うが、彼にして見ればそんな存在としてインプットされていたらしかった。一生食いっぱぐれることのない才能豊かなピアニストとして認識していたし、その通りに彼は多方面で活躍した。たまに仕事などで会う事があっても、苦手意識は消えなかったようだった。一緒にライブで演奏したのはずいぶん前のブルースセッションが最後になった。彼は周りへの気遣いが際立っていて、誰に対しても毒を吐くということがなかった。笑いを取ろうとするユーモラスな部分も彼の気遣いの一部だったと思う。その周りへの優しい気遣いがストレスになって病を呼び込んでいたのではないかと考えたりもする。一緒にやっている頃、蓄膿症で悩まされていて、今は水洗だから見かけることはないが、糞尿くみ取りのバキュームカーのそばで深呼吸しても何も感じないと、自虐ネタを楽屋で言っていたことがあった。意を決して手術を行なった後、食い物の味が激変したと嬉しそうに言った。70年代のキャバレーには、ビルの一階部分が店で、バンドの控室などはビル上階のマンションの一室になっていることがあった。彼はそのような店にトラで行った。店の人に言われて上階の一室で休憩することになった。いやに生活感の漂う部屋のキッチンの椅子に座って休んでいると、戸がガラガラと開いた。血相を変えた人が立っていて「おまえ、なんだ、お前は」と叫んだ。何事か分からずに「あ、あっ、あおの今日のピアノのトラで・・」を抗弁した。「トラアー!!、な、なんだ、てめえは」と要領を得ない。一般の方の違う部屋に入ってしまったのに気付くのには間があったらしい。謝罪して這う這うの体で逃げてきたらしいけど、ほんとに怖かったと言う。僕らはその話を聞いて、ピットインの楽屋で笑い転げた。

 テナーの片山さんと一緒にステージに上がったことは数えるほどしかないが、会う事があれば嬉しい人だった。羽田空港でばったり出くわしたこともあった。無類の酒好きで死因はやはり肝臓ガンだったという。板谷が亡くなったときの通夜で、振る舞い酒ですっかり酔っぱらった彼が、「今日は酒代浮いちゃったな」などと言っていたらしい。もちろん嫌なヤツなどではなく憎めない人柄で誰にも愛された。彼と梅津さんがRCサクセションのホーンを担当していたのだが、彼らが出来ないときには一人でトラをやった。あるライブでは佐山氏もいたし、梅津、片山と割合フリー系統の人たちの中に入って演奏することになった。どう対処していいか分からずに困っていると、片山氏が言った。「なあ、渕野、お前みたいな真面目系統のヤツがいないと困るんだよ。ここはさ、ま、笑ってさ・・・」などとフォローしてくれたのだ。
 最後に会ったのは荻窪のライブハウスで、トランペット奏者に資料を渡すために行ったのだけど、ここでは2部の演奏に参加して2人で並んで吹いた。



 「おまえ、元気だなあ、元気だよ。みんなも言っておこう」などと嬉しそうにはしゃいだ。新しいアルバムを作ったばかりで、気前良くくれたのだけど、帰り際に「なあ、一回ぐらいはちゃんと聞けよ」と言うのも忘れなかった。こちらがフリー系にあまり興味がないことを知っていたのだ。その日のツーショット写真が残っている。



 1人2人と仲間が消えていくのだけど、こちらにしても5年前に死んでいたかも知れないわけで、その時の看護婦がいみじくも仰った「命を拾ったのよ、大切になさい」という言葉が前にも増して身にしみる。

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あたふた



 昨夜はブルースアレーでのライブ。リハーサルの時点で予想してはいたが、だいたい空回りして20点ほどの出来に肩を落とした。ようするに自分がこうなれば最高だなと期待していた部分がことごとく外れて、ついつい力んでしまう展開になった。ま、自分の所為なんだが、集中力が途切れがちになるのも頂けないわけだ。ライブでの演奏はエキサイトする部分も必要だが、それ以上に繊細な部分というものが欠かせず、むしろ細やかなサウンド展開がすべてを決めると言ってもよい。それが欠如すると音楽としては機能しなくなる。曲によってはピアノとヴォーカル、それにサックスのトリオ編成でも良かったななどと思ったりもしたが、ま、終わってしまってからでは後の祭り。やり直しのきかないライブは大変でござんすってなことだった。
 しかし、目黒駅周辺というものは駐車場が極端に少なくなっていて焦った。10年ほど界隈に行くことはなかったが、久しぶりに行ってみると、記憶にあったコインパーキングはほとんどがビルに変わっていたし、一日の上限価格が最低でも3000円で、中には15分300円というのもあった。一時の六本木に迫る勢いになっている。そんなこんなで店に入る頃にはすでに疲れていたのも良くなかったなあってな日だったのだ。はあー。

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訃報が入って中断する


 リハーサルの翌日、指の状態を診てもらうために病院に行った。症状は芳しくなかったらしく、医者は「うーん・・」と言って表情を曇らせる。前回の話では風呂などはそのまま入ってもかまわないし、バンドエイドとかで包んでしまうと蒸れたりして良くないからこのままでなどと言っていたのが、思いきり変わった。やはり患部は膿んでいて、大きなピンセット状のものでグイと押さえられた。思わず跳び上がった。ただでさえ痛いのに、そこを押されちゃかなわない。ズッキーンと痛みが走った。見ていた看護師も気の毒そうな顔をする。さらに、ここの先が膿んでいるから出しちゃいましょう、と言って先の尖ったものを出してきた。覚悟するしかない。後から看護師が肩を押さえている、これは相当来るなと歯を食いしばっていたのだが、案外簡単に穴は空いたらしい。しかし、そこをまたグイと押される。イテテテと言う間もなく白い膿が出てきた。ゲッってなものだ。「これで痛みは和らぐでしょう」などと言いガーゼと包帯と指サックで包まれてしまった。大層なことになったわけで、箸すら持てない状態になった。外科医はサド入っているなあと思った。
 少し落ち着いてきたところで、明日の譜面を完成するべくあたふたと作業を始めて、先ほどやっと終わった。ま、本番になると譜面などあまり見ていなかったりもするが、この作業の過程が大事なのだ。



 それで印刷を始めようとしていると、電話が入ってピアノの佐山雅弘が死んだという。ショックは大きい。近年の付き合いはなかったが、数十年前のピットイン朝の部時代のバンドのメンバーだったし、思い出は尽きない。彼のことは後日語ることにする・・・・・。

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