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リハーサル


 昨日は久々のリハーサル。初顔合わせだから大変なんだが、ちょうど深大寺のあたりを走っているときに期待感が増してワクワクとした気分になった。だいたいリハーサルというものは不安と期待が綯い交ぜになっていて、ましてやオリジナル曲がほとんどだから尚更のこと。



 たいしたことをやっているわけでもないが、そのワクワク感というものが大事なのだ。それが無くなったときは終わりだといってもいい。ステージ横で緊張しながら出番を待つ際は、ワクワクと言うより武者震い的な闘争心が必要なことも多々あった。無理やりにでも奮い立たせないとプレッシャーで押しつぶされそうになり、実際かなりのヘマな事態に陥ったこともあるのだ。スタジオでの録音の際にも、大人数で同時録りなどという時には、ソロなどがあれば心臓が口から飛び出しそうな気分も味わった。しかし、録音はやり直しがきく。ステージは間違ったらそれまでよだから油断できない。テレビの生番組などでの演奏は殊の外緊張を強いられる。その緊張でミスをしてしまうケースも多い。なにしろそのような場でのミスが命取りで消えていったプレイヤーさえいるのだ。大人数の場合は常にトップノートを吹くトランペット奏者に最もプレッシャーがかかる。サックス奏者は主にソロ部分などで緊張を強いられるが、トランペット奏者の全体に係わるウェイトは大きく、こなしてきたトランペット奏者というものはたいしたものなのだ。

 それで、リハーサルは伝達不十分で1時間以上遅れてやってきた人もいて、てんやわんやだったのだけど、なんとか所定の曲は一応復習えた。しかし、自分の演奏どころじゃなかったので、いまからスタジオを借りて個人的なお復習いをすることになった。

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打ち合わせ的会合


 普段はまず利用しないファミリーレストランで待ち合わせ、次のライブでご一緒するベーシストに譜面を渡してきた。一年ぶりの吉祥寺サムタイム。昨年は気合いが入り過ぎ、難曲を取りそろえたもので見事に空中分解した記憶も生々しい。修羅場をくぐり抜けた腕利きだと思っていたものだから、これくらいは造作もないだろうと踏んでいたのだ。最初の一音からグダグダになった。それで、前回のことも踏まえ、硬軟取り混ぜて用意することにした。



 今回はピアノが大石クンだし、前回の轍を踏むことはない。なにしろ彼はプロの鑑のような演奏家であって、全曲きっちり復習ってくることは間違いないのだ。久々のライブに一曲だけゲストで来る際にも、全部の譜面を持参してくる人なのだ。それで「どの曲やる?」ってな具合だ。

 今日会った久末氏はほぼ同世代。同じような人脈の中で生きてきたものだから、限りなく話に花が咲く。未だシリアスに音楽を追い求める先輩の話も、老いてついに演奏が困難になった方の話も同じように話題に上る。世界の演奏家の動向などに話が及べば、つい熱も入ろうというもの。彼のようなベテランが土台を支えてくれればサウンドも落ち着くし、ま、リハーサルが楽しみなのだ。

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基礎練習


 さて16才のころ、音楽への道を目指すといっても、具体的に何を学ぶかは手探りで、何も分かっちゃーいなかった。好きだけで目指せるものではないことは気付いていたが、ピアノ教師の類いはいても、音楽の基礎的なことを教えてくれるという話は聞いたこともなかった。後輩の一人は毎年夏になると上京してレクチャーを受けていたが、そんな経済的な余裕があるはずもなく途方に暮れた。ま、だいたい習い事というものは金がかかるものなのだ。器楽科に進むにしてもピアノ演奏はもちろんのこと、ソルフェージュ、聴音と難関は立ちはだかるし、聴音に至っては4声の和音のものまで用意されている案配だった。少々の訓練は必要だし、一人ではできない相談だった。そもそもモーツァルトやバッハをやりたいわけではなし、もっと効率のいい練習方法を求めていたのだ。そんなとき本屋で手にしたのがこの本だった。パウル・ヒンデミットの「音楽家の基礎練習」



 「あー・・・こちらへいらっしゃい」と現れた本はまさに天啓だった。1957年に出版されたもので、その版を買ったものだと思われる。長年持ち続けていたが、数年前に新版として再発行されているものを見て、すでにやることはほとんど無くなっていたが買い替えた。60年にわたって出版され続けているというのは凄いことだ思う。ありがたいことに、この本の最初のくだりがリズムの習得に向けて書かれていた。



 初めのうちはカウントをとるリズムが4分音符だが、次第にそれが複雑に変化し、それに乗って課題を歌うという仕掛けになっていく。



 夢中になってやった。やがて歌うリズムに音程がつき、手でリズムを叩きながら歌うという感覚になっていく。ここまででも相当な訓練ができていると実感できた。さらにはその応用で範囲が次々と広がっていく。



 容赦なく難易度は軽々と上がっていく。この独習でアルト記号やテノール記号の読み方も理解した。



  最終的には和音を弾いて、その上で歌えというものになる。



 さらには譜面を見て移調しろという課題も与えられる。即座に移調するという訓練は、後に仕事で大いに役立つことになった。クラリネットは一音上げて読み、アルトサックスは短3度下げて読むわけだが、町の小さなバンドにはアルト用の譜面など用意されているわけもなく、その場で対応するしかなかった。本の半分ぐらいのところで、後はより複雑な応用でしかなくなるが、手がかりとしてはこれ以上ないと思えるものだった。以来、バイブルのように半世紀も持ち続けているわけだ。
 独学ですっかり頭でっかちになった18才の時、博多の大きなクラブのバンドでテストを受けることになった。少しは吹けるかと期待していたのだけど、見るとやるとでは大違いというか、指揮者もいなくてドラマーのカウント「ワン、ツー・・ワッ、ツー、スリー、フォー」で始まった途端、譜面のどこだかすぐ分からなくなった。30分のステージの間、ほとんど音を出すことが出来ず、みんなの手前、意気がっている分平気な顔をして見せてはいたが、内心焦りまくって口から泡でも吹き出しそうな案配だったのだ。スイングビービートに乗って、初見でシンコペーションも楽々と演奏できるまでにはまだ時間が必要だったってわけだ。それで、メインのビッグバンドではまだ早過ぎるというので、9人編成のチェンジバンドに回された。そのバンドはギター、ヴァイヴ、パーカッションの入ったシックスリズムにスリーサックスのビッグコンボ編成で、いわゆるジャズの真似事が出来たからそれはそれで楽しく、後にメインに回ったときは名残惜しくもあった。思い返してみれば、何も吹けなかったあの30分が演奏家としてのキャリアの中で最も恐ろしい時間だった。

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ドッジローン


 小気味の良いリズムのグルーブ感、ロックンロールは嫌いではない。スタジオミュージシャンとしての活動で、出来ないものはあってはならないという暗黙の取り決めのようなものがあって、もちろんロックンロールのサックスのやり方も様々な資料を聴いて対処しようとした。叫べばいいというものでもなく、リズムのセンスが必要なことは言うまでもない。少しは勉強したが決して熱心ではなかった。録音の仕事を始めたころ、やたらとロックンロールのソロのオーダーが続いた。周りのサックスプレイヤーがどちらかといえばジャズ寄りで、生きのいい若いのが出て来たってんで集中したらしい。こちらとしてはソウル系に近いと思っていたが、使う側にしてみれば似たようなものだったらしい。来る日も来る日もそのようなソロを吹いていると当然のように煮詰まった。同じ日に3曲、それぞれ別のスタジオで吹くなんてこともあったのだ。同じキーで曲調も似ていたりすると「これはさっき吹いたしなあ、同じじゃ拙いな」ってな調子だった。その流れだったかどうかは覚えていないが、今は役者さんとして知られる陣内さんも元々はロッカーで、一度だけコンサートでご一緒したことがある。ライブテープが後で送られてきたが、自分のサックスがとても嘘臭く聴こえ、テープを粉々に砕いた。もちろん陣内さんに問題はないのだけど、それほど煮詰まっていたのだ。



 しかし、忘れられない人もいる。彼のアルバムにも参加していて、それが縁だったのかどうかも思い出せないが、元クールスのメンバーだった水口晴幸さん(通称ピッピPitpi)とは、そう頻繁ではなかったが何度もライブでご一緒した。地方にも出かけたし、小さなライブハウスでの演奏もした。少々年上のこちらをことさら気遣ってくれるナイスガイだった。山下さんがプロデュースしたアルバムもあって、渋公のライブには彼も駆けつけていたらしい。前年には山下さんのバンドにトラで参加したこともあったのだけど、水口さんの後でロックを吹くサックスに目が行ったらしく、「あれは誰だ」「あんた、そりゃあ失礼というか、こないだトラで来た人でしょうが」ってなやり取りがあったと聞いた。で、翌年から3年ほど彼のツアーに参加することになった。キャバレー時代からの癖なのか、同じツアーに居続けるのは3年が限界に近かった。キャバレー時代は、そこのバンドのレパートリーをあらかた諳んじてしまうと辞め時ってなものだったから3年続いたのは珍しく、一年空いて再び一回だけ参加したのが最後になった。
 それで、肝心の水口さんだ。彼との付き合いは2年ほどだっただろうか。最終的に彼は勝新太郎さんの付き人のような立場で世話をされていたらしい。勝さんの薦めで役者への道も見えてきたようで、歌手としての活動は休止状態になった。名古屋だったか、後に城のある場所での野外コンサートは暴走族の集まりだった。みんなバイクで来ていた。物々しい雰囲気の中でコンサートは始まり、エキサイトした観客がステージに上がり込もうとする事態になった。袖に控えていたスタッフが何人も躍り出て、ステージに上がったヤツ等を降ろす騒動になった。演奏は続いているが、スタッフが投げ飛ばした人が落ちるドスンなんて音が聞こえたりした。サックスを吹きながら思ったわけだ。「ロックっぽいなあ」
 自分のプロフィールに書けなかったのは、水口さんにしろ、哀川翔さんにしろ年代がはっきりしないというか、データが手元になにも残っていないことによる。結局、一度リハーサルをやったっきりでライブに至らなかったのが、同じくクールスのジェームス藤木さんだ。ジュニア・ウォーカーのような音楽にチャレンジしたいということだった。渋谷で会って話をした帰り、車で送っていくという。それで助手席に乗ったのだが、彼のサービスは過激だった。急発進から始まって、路肩は走るし、歩道を走るし、ずっと背中はシートに押し付けられるようなスピードのまま山手通りを走り抜け、中野坂上で降りる時にはフラフラした。彼はニヤッと笑って「それじゃ」と言って走り去った。藤木さんも水口さんも歌手活動を続けられているようで、相変わらず格好いい。それで、歳は取ったとはいえ、お二方ともロックンロールはまったくブレず、いいなあと思う次第。わが息子は幼いころロックンロールに興味を持った。「横浜銀蝿」がお気に入りだった。しかしロックンロールと言えずに「ドッジローン」と言った。そのころRCサクセションを手伝っていて、池袋の大学の学祭に出演したとき見に来た。あまりの爆音に驚き泣きそうになり、それ以来ドッジローンを避けるようになった。

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ピアノのお稽古


 高校生になってからピアノを習い始めた。遅過ぎるスタートだとは分かっていたが、もしや音大などを目指すとするとピアノは必須だったから、取りあえずどのようなものか体験してみよう程度のものだった。近所のピアノ教師に習うことになったが、でかいなりしてバイエルだ。来ているのは子供ばかりで、バイエルなどはとっくに終わりソナチネや小癪な子に至ってはソナタなどを弾いてやがった。そんな状況で身を縮めつつバイエルを弾くのは恥ずかしいものもあったが、譜面はある程度読めるわけだから一ヶ月ほどで終了してピアノを弾く仕組みなどは理解できた。
 途中休みを入れつつ一年ほどは通っただろうか。ソナチネを2曲ほどやった辺りで、こちとらピアニストを目指すわけでもないしってんで行かなくなった。しかし、当時ピアノ譜だけは大量に仕入れて、記憶にあるサウンドの端々をためつすがめつ弾いてはヘーッと感心したりしていた。その後、他の女性のピアノ教師に就いたこともあったが、打鍵の指の形などに殊更こだわるありがちな先生だったから這う這うの体で逃げ出した。



 ピアノを上手に弾くためでなく、サウンドを知りたいだけだったが、そんな向きあい方が許されるものでもなかったわけだ。ピアノが買えるほど裕福ではなかったから、運指の練習のためだけにオルガンを買ってもらった。オルガンはブラスのサウンドをシミュレートするにはうってつけの音色だったから、それを使ってファンファーレなどを作って遊んだ。20代は昔懐かしエレピアンというものを入手して作曲の真似事を始めたが、本格的にピアノサウンドを勉強するようになったのはシンセサイザーが入手しやすくなった40代に入るころだった。John Novello著の「コンテンポラリー・キーボーディスト」はバイブルのようなものになった。一年ほどは時間のある限り毎日のように鍵盤に向かい、あらゆるコードサウンドを全てのキーで弾けるように鍛練を続けた。分かりやすい解説に助けられ日々の進歩が実感できるほどだった。その恩義に報いるというような意味で「Novello」という曲を作って録音した。そこに至る前、ピアノのサウンドを学ぶには遅過ぎるという不安も抱えていたが、ジャズピアノの名手だった湊さんのアドバイスが背中を押してくれた。「おまえさ、大丈夫だって。そりゃあ、さ、俺たちみたいに弾けるというのは無理にしてもさ、サウンドを勉強するんだったら遅いってことはないって。だってさ、おまえさ、今までいろんなもの聴いてきただろ?具体的に何の音が鳴っているとかじゃなくてさ、体が知ってるんだって、ほんとだよ。そのうちな、ああ、なんだ、こんなことかって思う日が来るって」あれは、まさに神の言葉だった。
 サウンドを勉強しているころ、ある高名な編曲家が「サウンドを勉強するんだったら、コピー3000曲。それしかない」と言ったと人伝てに聞いた。そうか、ってなものだった。その日から手当たり次第に聴いたものを採譜してスコアに起こす作業を始めた。聴こえるものは全て採譜した。ピアノはもちろんのこと、ベース、ギターサウンド、コーラス、ブラス、なんでもスコアに記した。いくつかのアルバムは全曲採譜した。3000曲には至らなかったが、ピアノサウンドの勉強と採譜の相乗効果でやたら面白くなり、サウンドが具体的な形として見え始めた。当時はスタジオでの録音の仕事がほぼ毎日あった。少し早めにスタジオに入りピアノを弾いた。昨日勉強したことを弾くのは痛快だった。なにしろ録音スタジオのピアノは一級品で、某NHKのスタジオなどはコンサートグランドが各スタジオに常備されている。贅沢な時間だった。本格的な曲作りは40才を過ぎてから始まった。
 ピアノそのものを練習することはないに等しかったが、何年か前にクラウディオ・アラウの弾くシューマンの「花の曲」を聴いてピアノ譜を入手。再燃した。シフにしろ、ホロヴィッツにしろ急くようなテンポで弾くが、アラウはゆったりと心地よく、アラウのファンになった。もちろんピアノの練習そのものは手すさび程度で昔と変わらないが、ワクワク感は倍増している。高校時代に買ったバッハの「「小前奏曲とフーガ」は50年を経てやっと日の目を見ている案配なのだ。

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