☆☆☆



 渋谷で来週のライブのためのリハーサル。スタジオは渋谷駅から246号線を上がった場所にあるわけだが、下の駐車場から歩くのだってかなり疲れた。最初は渋谷辺りは駐車場見つけるのが大変だし、電車で来ようかと思っていたわけだが、楽器を持って駅から歩いたのでは、疲れ果てて一時間ほどは使い物にならなかったに違いない。だがしかし、楽器を演奏するのは問題ないが、この行き帰りに使う労力というものがバカにならず、帰宅して倒れ込む案配。30代40代と歌伴は仕事の大半を占めるジャンルだった。スタジオワークだってほとんどが歌手のレコーディングだったから、歌伴はおろそかにできるものではない。ま、フォートップスの歌伴の仕事の際は「歌伴人生ここに極まれり」などと思ったほどだし、ちょうど聴きに来ていたギターの山岸にそれを言うと大笑いされた。そんなこんなで今日も曲が始まった途端「これだよな」とテンションが上がってしまったのだ。
 だが、好事魔多し。3日ほど前から右手薬指が大変なことになっているのだ。



 爪周囲炎とか言い、要するに深爪やささくれから菌が入って炎症を起こす厄介な症状。今までも何度かこのような症状になったことはあっていつの間にか治っていたが、今回は重かったのだ。腹側が化膿するものは「ひょう疽」と呼ばれ、ほっておくと骨にまで害が及び、とんでもないことになるらしい。外傷ではないから抗生物質で押さえるしかない。最初は痛みを抑えるために外傷薬を塗っていたりしたのだからお目出度い。で、今日の昼間は痛みがピークに近く中指がずっとチクチクしていたのだ。ヒトの体というものは何が欠けても不自由になるように出来ていて、指一本だって大変なのだ。第一、箸が持てない。中指の真ん中辺りを使って何とか持つことは出きるが、上手に持てていないから麺などは掬えなくて、ポロポロと落ちていく。鉛筆も不細工な持ち方で書くのだが、採譜した譜面は自分だけにしか分からない判じ物のようになってしまった。なんだか、歳のせいもあるのだが、病院のカードが年毎に増えていく。

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横浜たそがれ


 昨日、歌手の五木ひろしさんが文化勲章の栄誉に輝いたとかで、彼のヒット曲「横浜たそがれ」のことが語られていた。歌詞冒頭に出てくる「ホテルの小部屋」のモデルが当時お洒落なホテルとして知られていた「バンドホテル」だったそうだ。昔のことで、バンドーホテルと覚えていたがバンドだったらしい。横浜で半年ほど仕事をしたのは22、3才のころだ。キャバレーバンドを渡り歩くのにも少々飽きていて、一緒の店で仕事をしていたドラムの林田さんが、横浜でバンドを組むのだけど手伝わないかと声をかけてくれたのに乗ったのだ。よく聞けば歌い手が入った、早い話がコーラスバンドだというのに些かの抵抗はあったけど、それも面白いかも知れないってんで新しい流れに乗ってみることにした。もちろん「横浜たそがれ」も「傷だらけの人生」もやったけど、サンタナの「オエ・コモヴァ」も「ブラックマジックウーマン」もやったし、ごった煮的レパートリーで横浜での活動は始まった。バンマスの知り合いのクラブが拠点だったが、深夜はあちこちの違う店で朝までの仕事をした。今だったら倒れるところだが、なにせ若いから平気だったし、朝の東横線で渋谷に向かう毎日だった。



 バンドホテルの最上階に「シェルルーム」というクラブがあって、どういう経緯か、そこのバンドのオーディションを受けることになった。1929年開業の老舗中の老舗の格調高いホテルで敷居は相当高く、1968年にオープンしたクラブのオーディションに受かるとは思えなかったが、ダメ元興味半分で僕らは参加した。いくつものバンドが来ていた。その中で笑ったのはゴテ辺さんのバンドだった。当時渡辺という名のプレイヤーは「XXなべ」と呼ばれる方が何人もいらっしゃった。トランペットのゴテ辺さんは、一度聞いたら忘れないあだ名で、どうやら不平不満の多い方らしかった。恰幅のいい体格のゴテ辺さんは演奏前のバンドメンバーに向かって仰った。「さあ、どれだけ大きい音が出るか、やってみよう」受かる気があるとは思えなかった。それで、ドッカーンと大きな音で演奏して終わった。その頃、バンドのオーディションが新しく開店するクラブなどで行なわれることは度々あった。当時は知らなかったが、多くの場合バンドはすでに決まっているらしく、しかしながら多くの事務所の顔を立てるためにオーディションという形を取り、それは店のお披露目的な役割も担っていたらしい。ゴテ辺さんはそれを知っていたはずで、「馬鹿馬鹿しくてやってらんねえや」ということだったわけだ。
 横浜での仕事は色んな意味で刺激に満ちていた。深夜の仕事の店で彫師という人に会ったのも驚きだった。その筋の人たちの刺青を彫る人だ。バンマスが知り合った女性に冗談半分でオカマに興味があるから紹介しろと言ったら、店にやってきたのはどう見てもオジさんだった。それもプロらしく着流しでさらりと客席に現れた。焦ったバンマスは逃げ腰だったが、テーブルで脂汗を流しながら取り繕う様を僕らは楽屋から見ていて腹をよじって笑った。歌い手の元ヤンキーのジローさんは横浜の人で、もちろん街のことは詳しかった。中華街の店でも、ここは美味しいと連れていってくれた店の焼きそばはそれまで食べたことのない美味しさだった。焼きそばには苦い思い出もあった。一週間ほど仕事をした桜木町駅前のホテルのラウンジでは、毎夜のように食事が供されたが、一週間同じ焼きそばだった。犬や猫じゃあるまいしと僕らは憤然とした。それで食事はいらないと言うようになったのだが、それこそが店の望んだことらしかった。映画「天国と地獄」の横浜の酒場シーンのモデルとなった根岸屋にも連れていってくれた。朝方で客はほとんどいなかったが、青とも緑ともつかない妙な色の昔の椅子が並んでいるのが印象に残っただけで、結局は何も頂かずにすぐに出た。仕事後の朝に行った本牧の町は平ぺったい趣で何か特別という感じではなかったが、ジローさんが開けた重い扉の中は薄暗い中に大勢の人の姿があった。いわゆるバーだが、背の高いテーブルを囲んで立っているのはほとんど外人だった。米兵が集う場所だったらしい。外は明るいというのにそこだけは夜だった。まるでアメリカ映画の一シーンに入り込んだように錯覚した。



 極め付けはホームページの「70年代」にも書いたが、夏の茅ヶ崎だった。朝まで仕事をしての帰り、ジローさんが「今から海行こうぜ」と言い出し、錠剤でラリった後のみんなは何となく勢いで付いて行ってしまった。海に着いたのは7時前だったから、当然人はいない。しばらくは海だ海だと盛り上がっていたが、やがてみんなは深い眠りについた。目が覚めたときの驚きは尋常ではなかった。朝は海岸も海も暗い土色と鉛色だったものが、海岸は眩いほどに輝いていたし、辺り一面が色彩に溢れていた。夏休み期間であることなど僕らは忘れていたのだ。僕らは海岸のど真ん中に、海水浴客に遠巻きに避けられるようにして倒れていたのだ。普通の人たちの日常に、夜の世界で生きる人間が突然紛れ込んだようなものだった。僕らは這う這うの体で海岸から逃げ出したのだけど、その辺りからこんなことしている場合じゃないなと思うようになった。しかしながら、今にしてみれば横浜での半年ほどはある種の青春というものを経験していたのではないかと思う。大学進学もせずに18才で夜の世界に入り、大学のキャンパスも知ることはなく楽屋とステージを行ったり来たりした自分にとってはとてつもなく刺激的な毎日だったのだ。バンドホテルも根岸屋もなくなり、バンドホテルの名を聞いた瞬間、70年代初頭の横浜の息吹が脳裏に蘇ったってわけだ。

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ターニングポイント


 人生に転機というものがあるとすれば武藤さんの誘いに応じることもその一つだったに違いない。ビッグバンドで演奏する道があった。切っ掛けは他にもあった。ゴダイゴでホーンセクションを手伝っているとき、ちょっとした揉め事が事務所とプレイヤーの間であり、ま、それは金銭的なことも絡んでいたのだけど、ホーンセクションを替えることになってしまった。しかしながら何が起きているか知らないこちらはトラブルに関与していなかったから、残って欲しいと言われた。自分のトラブルではなかったが、自分だけ残るというのも後ろめたいような気がして固辞した。しばらくして浜田省吾というロック歌手のツアーを何本か手伝った。ある夜、旅先のホテルで会食に招かれた。たしか彼のお姉さんがマネージメント担当で、ウチのバンドに加入しないかという話だった。誘いは光栄な話だったが、当時の彼のバンドのツアーは年に50箇所を超えていた。3日に一回としてもリハーサルを含めて年の半分は拘束されることになる。それはそのバンドの活動で生きる事がすべてになることを意味していた。頭を下げて断った。誘いに乗っていればロックの世界でサックスを吹くおっちゃんになっていただろう。



 ツアーを何年も続けることはあまりなかった。その中で3年続けた山下さんのツアーは珍しいことだった。そもそも自由な職業に就いたはずだった。それなのに自由を束縛されるような立場になることだけは避けたかったのだ。その山下さんのツアーも3年目が限界だった。来年も、という申し出を断ることになった。彼に感謝することはあっても嫌いだとかいうものではなく、自由が欲しいというような心持で辞することになった。ま、多くの事務所サイドからは生意気なヤツと取られたかも知れないが、フワリフワリと流れるように生きるのが好きだった。大仰にいえば、他人の音楽ではなく自分の音楽で生きることが大切だと信じていたというか、信じようとしていたのだ。あの時こうしていればという後悔があるわけではない。ビッグバンドのリード、ロックのサックス、どれもその立場にいる自分を想像できない。そんなことを言えば、スケジュールが合わなかった山口百恵さんのラストツアーや、海援隊のツアーなどに参加していれば、劇的な変化はなかったにせよ何らかの影響はあっただろうが、結局は今の場所がいるべき場所だったと思うのが正しいのだ。

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ライブ


 さて昨夜のライブに足を運んで頂いた方々に感謝します。遠方から泊まりがけで来て頂いた柳亭さんにはさらに深く感謝する次第です。



 今回で少しは先が見えるかと期待していましたが、好事魔多しというか、少々の行き違いの末、またまたドラマーが抜けることになってしまって振り出しに戻るってな案配。ようするに、ライブ前には新しい楽曲についてはシーケンサーで打ち込んだデモテープを送っているのだけど、それを聴いて対処できない場合は対応不能になる。例えば、自分の作った楽曲の説明にレス・マッキャンの路線だと説明したりするのだが、知らないと言われ、林英哲の名が出て来た辺りで接点は消えるってな具合だ。そういえば和太鼓的なアプローチをしようとする傾向があったわけだが、根のところのベクトルがそうだったらしい。結局、何曲かはピアノとのデュオ形式で対処した。ソロに入るといきなりピアノと2人だけになるというような展開で全体のグルーブを確保する。そのやり方の方がずっと楽だったってのも悲しいことなのだ。この先どれほどのライブを重ねることが出来るのかは謎だが、一回一回のライブがますます貴重なものになってきた。

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毎日リセット


 台風が南方の熱気までしっかり運んできたらしく、今日は夏が戻り汗ばむ陽気になった。昨夜遅く、猫のみかんが外に出たいというので、無理は承知で窓を少し開けてみた。轟音と共に風と雨が飛び込んできた。猫はビックリして後ずさりし、目を丸くして窓を見つめる。このような強風を知ると、雨露しのぐ家というものの存在がどれほどありがたいものかを痛感する。それにしてもあのような風の中、野良猫たちはどうやって凌いでいるんだと心配したりする。



 ってなことを言いつつ、遂に大台まであと少しの誕生日を迎えてしまった。ちっとも目出度くない。誰でも同じように歳は取る。しかしながら他の人がどうなのかは知らないが、老いたという実感があるわけでもない。どちらかと言えば、二十歳の頃から何も変わってはいない。定年とかいう区切りを付けられることのない職業の所為だとも思える。有り体に言えば浮世離れした生き方ということにもなろうが、同じ世代の友人たちが言うように夢を追いかけているわけではない。夢など追いかけてはいなくて、今ここにある現実を追いかけるというか、それはとても具体的だ。この音の後にこの音を繋ぐとこうなって、というような感じで、それを全部把握した上で自由になりたいと思っているわけだ。これがなかなか手強くて、そう簡単に自由は手に入らない。それで、夢を追いかけているというより何かをいつも探しているというのが近い。もちろん気力は不可欠だ。探す気力を失うことなく続けられれば万万歳という案配なのだ。

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