☆☆☆

節目



 写真は昨夜のものでないが、吉祥寺でのライブは滞りなくというか滞りは少々で終了した。ここでの演奏は終わったことになる。集客が難しくなったこともあるが、今現在でスケジュールのブッキングが6月というのはあまりにも早過ぎるし、ライブハウスというよりも、まるでコンサートホールの予約だ。そこまで申し込みが増えているのは、固定ギャラが支払われる店の方針が演奏家にとって掛け替えなくありがたいものになっているということにある。ライブハウスの多くはチャージバックといって、集客の人数から割り出される店それぞれのパーセンテージで支払われる。そうなるとバンドで客を集めなければならず、結構それは大変だったりする。ライブハウスとして特別音が良いわけでもないが、店に固定客がついているのはミュージシャンにとってありがたく、申し込みが殺到する事態になってしまったようだ。むかし、この店がオープンしたころはピアノ、ベースと歌というトリオ編成がメインだったから、僕ら管楽器奏者には縁のない場所だった。それがいつの間にかクァルテット編成などで行なうようになった。今はジャズのライブを聴きに来る人はそう多くない。外タレはともかく、国内での需要は好事家かその周辺に限られる。マーケットは割と狭い。それで少しずつ都内のジャズ系の小屋は減っていった。演奏する場所を求めてミュージシャンは奔走することになったわけだ。
 15年間お世話になったが、ここで区切りとして終えることにした。
 4月に久々の横浜「ヘイ・ジョー」でライブをやる。そこからまた考えることにしようってな案配なのだ。

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フグの毒と似て



 昨日は目黒で3時間のバンド・リハーサル。ベーシストが都合で来られなくなって、ピアノ、ドラムと3人のリハだった。ドラマーに説明しつつのリハが楽しくないわけではないが、個人的な練習でスタジオにこもるのとは違い、力も入ってしまうから立ち眩みがするほど疲れた。こんなとき、つくづく歳だなあと実感する。今朝早々に入ったメールはライブへ行けないという内容だった。いや、それは連絡しなくてもいいからと少々モチベーションが下がる。ま、仕方ない。音を出すまでが起こるか予想も付かないライブは、いつだって一寸先は闇に近い。光が見えてスムースに流れる日もあれば、闇のままで終わる日もある。そのスリルでワクワクしたり奈落の底へ突き落とされたりする。まあ、なんとヤクザな仕業かとやるたびに思う。プレイヤーによっては準備されたものの構築に勤しむやり方もあるわけだが、当方は空間を漂うような刹那的展開を好むわけで、それが楽しいと感じるからしょうがない。食通と自称する方がフグを喰らうようなものだ。

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Transcribe!


 来週のライブでスタンダード曲をいくつかやろうとしていて、ちゃんとした譜面作りをしているわけだが、コード進行を決めかねているものがある。そこで録音物からコードを聴き取ることになった。流布されている譜面は簡易的なものが多く、どれも気に入らない。そもそもスタンダード曲のほとんどはミュージカルの中の曲で、原典はオーケストラのサウンドで成り立っているから小編成のアンサンブルには適していない。ジャズメンはその流れから大きく逸脱することなくソロ演奏に適した工夫をしてきた。もちろんピアノのサウンドなどはG7にDm7などを絡めたりするわけだが、おおまかにG7と表記される。しかし、それをやり過ぎている譜面も多く、元々のサウンドとはかけ離れた進行になっているものを見かけたりする。ピアノのビル・エヴァンスは独自の解釈で曲を解体して自分ならではのコード進行を考えた。それはエヴァンスのものであって真似はできない。比較的オリジナルに近いところで工夫しているのがコルトレーンだ。
 サウンドの細かい聴き取りは大変なんだが、近ごろは便利なソフトがあって重宝している。音程を変えることなく遅くしたりできるし、周波数設定もできる。ベースをカットしてピアノサウンドの領域だけを浮かび上がらせたりできるのだ。
 こんなソフトがあれば昔のコピー作業も楽だったのにと思う。以前にも触れたが、なにせ、むかしはオープンリールテープを使っていた。レバー操作だと戻り過ぎたりするので手で巻き戻したりしつつ、回転を遅くしてオクターブ低くなった音をコピーしていたのだ。回転を下げないと、恐ろしく速い曲のソロなど簡単に採譜できなかった。



 このソニーテープコーダーTC-6360は3台ほどつぶした。やがてカセットの時代になり、これもレビュー・キュー付きの少し戻したりできるものを使い、3、4台つぶした。やがてPCのサウンド編集ソフトが出てきて、それも使ったが、あくまでも編集ソフトだから、カセットよりは幾分マシではあるものの使いづらい代物だった。何年か前に雑誌の編集長からこのソフト「Transcribe!」のことを聞いて早速入手した。趣味の領域ではあるが、長い間謎だったあるプレーヤーのソロを採譜したりして遊んでいる。今回は趣味の領域ではなく、割合実践的な使い方をしていて「おまえ、役に立つなあ」などと感心しているわけだ。

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演歌


 CMや劇伴、種々のレコーディングとは異なる独特の雰囲気を持つ現場があった。そう頻繁ではなかったが、演歌の録音されるスタジオにも度々行った。童謡と並んでむつかしいジャンルが演歌であることは間違いない。リズムセクションはとにかく正確に、全体の邪魔をすることなく演奏することが望ましいし、余計な間の手など一切必要ないと思えるほどシンプルな表現に徹することを要求される。何か自分らしさを出したいなどと考える若手には苦行に近いものだ。童謡はそれこそシンプルの極みだし、色気など一切必要なく淡々と正確に演奏するわけだから、それも難しいものだった。演歌のレコーディングのメンバーは固定されているかのように、いつも同じ顔ぶれがいた。本人たちが望んだわけでもないだろうが、演歌御用達ミュージシャンたちがいたのだ。武道館を一杯に出来る歌手がいるわけでもないが、需要は常にあり、ポップスのジャンルでの仕事が多かったこちらとしてはその底力に舌を巻いたものだ。凄い演奏家もいた。ギターの名手木村好夫さんの演奏には何度も驚かされた。独特のタメを利かせながらオブリガートを弾かれるのだけど、そのラインはリハーサルから何度の本番を重ねても毎回違うものだった。一流のジャズミュージシャンのようだった。
 この手の仕事場の空気には他と違った重さも感じていて、ロック系の仕事の後などに行くとその違和感はさらに強く、馴染むことはなかった。自分を主張することのない演奏のやり方が彼らにそれとないダメージを与え続けているようにも思えたが、それはこちらの勝手な憶測であって彼らがどう考えていたかは分からない。しかし、時々、ラテンタッチのものとかアレンジが工夫されるものもあったが、コード進行もオーケストレーションも定石のようなものがあって、それが圧倒的に多かったから、毎日同じような演奏の繰り返しが彼らを摩耗させているようには見えた。

 演歌の現場では仮歌を作曲家の先生が歌うこともあった。いい歳の作曲家の先生が若い女の子の曲を歌うのを聞いて驚いたこともあった。演歌の作曲家の先生たちはそこらの若い歌手が腰を抜かすほど歌の上手い方が多かった、というか歌の上手い人しかいなかったんではないかと思う。レコーディングに御本人がきて歌うことも珍しくなかった。それをそのまま本番として使ったかどうかは定かではないが、都はるみさんと瀬川瑛子さんを良く覚えている。瀬川さんの歌は歌い出しから数小節で圧倒された。ヘッドホンから聞こえてくるあの肉厚な声質もさることながら、一つ一つのフレーズの説得力は半端ではなく、こちらは短いオブリガートを何回か吹くだけだったから、つい聞き入ってしまい、吹くことを忘れそうになった。

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マイクの前に座り


 クリスマスを過ぎると、いよいよ歳末色が濃くなり、また繰り返しの始まりが来るというような残念感もよぎる。



 30代の初めからほぼ四半世紀にわたって、今や形骸化というか実態が消えたとされるスタジオミュージシャンとして活動した。一世代後のプレイヤーに言わせれば、僕らの時代はスタジオワークの最後のピークだったらしい。しかしながら当人はスタジオミュージシャンになる気など更々なかった。どちらかといえば勘弁して欲しい世界だった。20代の終わりにはいくつかの仕事でソロを録音したりしたけど、その世界で生きていく気などなかった。所詮は芸能界というような抵抗があった。上田正樹氏のバンドを辞めてからは当てのない不安定な時期が訪れた。ジャズのライブからは足を洗ったという感覚があったし、何をやっていくのか目的も定まらず、たまにソウル系のバンドのライブを手伝うぐらいで、たまに声をかけられる「竹内マリアさんのステージを手伝ってくれないか」だとかいう誘いは断っていた。そんな方面で演奏して生きていくなど考えもしなかったのだ。当然のように仕事のオファーは消えていった。たまのライブハウスで生きていけるわけもなく、暗礁に乗り上げたような状況が続いた。入り口に立ってはいたが逡巡しているようなものだった。伝説のソウルバンド「荒川バンド」にトラでやって来たのがスペクトラムで活躍したトランペットの兼崎さんだった。彼は新田一郎氏のホーンスペクトラムの主要なメンバーだった。彼の強い推薦でそのホーンセクションを手伝うことになった。後で知ったことだが、それまで参加していたサックス奏者を追い出す形での参加だった。新田氏のホーン・アレンジの仕事は多忙を極めていた。ほぼ毎日のようにスタジオに入る日が続いた。ソロワークとは違い、あまり抵抗なく仕事と割り切ることも出来た。なにせ時給が1万円以上の仕事などそうそうあるものでもない。スタジオの仕事は時給か1曲単位で支払われる。ギャラ設定は同額で、レコーディングは1曲単位だがテレビドラマの劇伴などは時給で換算される。ドラマの音楽は1曲として成立しない数小節の断片が多いことにもよる。当時の流行りはホーンを重ね録りすることだった。同じパートをダブらせてよりゴージャスな響きにすることが定番だった。それで1曲なのに2曲分のギャラが発生することになった。そんな録音を1日に2曲はやっていた。同じころ、別ルートからCMのインペクからのオファーを受けるようになった。その方にはピットイン時代のバリトンサックス奏者としてのイメージがあったそうだが、テナーやアルトも吹くことを知って驚いたという。それで早速使ってみようということになったと聞いた。この仕事も2、3日置きに入ってくるようになった。それまで白紙に近かった予定表が突然細々と埋められるようになっていった。パシフィックホテル時代のサックスの先輩は演歌方面の録音が多かった。サイドメンに困ると電話がかかってくるようになった。新田氏との仕事でインペクへの認知度が増し、ソロの仕事が入るようになると、後は雪崩のようだった。家に帰ると必ず仕事が3つ以上は増えていた。やっていることの是非など考える暇もなく、毎日の仕事をこなすだけで精一杯の日が続いた。それまでビッグバンド出身者がほとんどだった奏者の中に突然変わり種が現れ、それが新鮮だという流れもあったらしい。優れているとかいう問題ではなく、オファーする側が新しい息吹を求めていたわけだ。事務所関係の情報のやり取りからオファーされる仕事の内容も多岐にわたるようになった。「クールス」からソロ歌手になった水口晴幸さんのレコーディングでソロを吹いた縁で彼のステージも手伝うことになった。そのステージを見に来ていたのが何曲かをプロデュースしていた山下さんだった。彼のステージには一度トラで行った事があったが、次の年にはツアーを頼まれた。よく知らない歌手だったのだけど、仕事の流れで引き受けることになって3年間続けた。一旦辞めて復帰する展開で都合4年間お世話になった。ツアーに参加して驚いたのは、彼のツアーを手伝っているという理由で入ってくる仕事があることだった。変な話だとは思ったが、世間の評価というものはそのようなものであるらしい。スタジオ仕事の延長でいくつか同様のステージもこなしつつ、テレビの歌番組にも度々出入りするようになった。ベストテンとかトップテンとかいう類いだ。さらに、強引な先輩に頼まれて「夜のヒットスタジオ」という番組に1年以上は在籍した。テレビの仕事の場合は長い時間の拘束になる。だいたい朝の10時にテレビ局に入り、リハ、ランスルーなどを経て本番で、終わりは11時だった。単純に13時間分のギャラが支払われた。バブリーな話だが、当時はCMだってフルオーケストラで録るものも多かったのだ。15秒のCMを40人ほどで録るわけだから贅沢この上ない。そのような調子で仕事をこなしていて少しずつ「変だな」という思いを抱くようになった。ソロの録音には本人の意思とは関係なく無理な要求も多かった。嫌だったのはデヴィッド・サンボーンの真似事だった。それは本人を呼んでくださいよと抵抗したこともあったが、その要求に応えることに気力が消耗することも増えた。3年ほど経ったころ「こんなことをやりたくてプレイヤーになったわけじゃないのに」ってな愚痴をもらすと、先輩のギタリストが笑いながら答えた。「そりゃあ、おまえ、みんなそうだよ。スタジオミュージシャンを目指したヤツなんていないんだよ。おまえ、そうだろ? 目指してなれるもんでもないだろ? だけどさ、もうここで生きていけるだけでもありがたいと思わなきゃってなことなんだよな」。先輩はグループサウンズの時代のプレイヤーで、ギタリストとして録音の仕事を請け負い、器用にこなしている内に仕事の幅があれよあれよと広がり、なし崩し的にスタジオミュージシャンと認知されたらしい。
 スタジオ仕事の初期に、たびたびCMで一緒になったギターの北島さんは若手の注目株だった。ある日、彼はスタジオワークから身を引いて自分のバンド「フェンス・オブ・ディフェンス」を結成した。鮮やかな決断だった。羨ましい転身だったが、決断するには少々中途半端な歳だったし真似ができるほどの勇気もなかった。
 スタジオの仕事で楽しかったのは、やはりソロダビングだったのだけど、良いものの多くは無名の歌手のレコーディングで、残念なことにあまり世間に知られることもなく消えてしまった。

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