☆☆☆

妹尾ちゃん


 ブルースはポップスの原点に違いなく、チャーリー・ミンガスはジャズの将来について質問された時「ブルースが失われなければジャズは永遠だ」と言った。ペンタトニック五音が織りなす旋律はシンプルがゆえに深い側面も合わせ持つ。若いころ、そのシンプルなブルースよりも、もっと複雑で偉そうな表現に夢中になり、揚げ句はフリージャズに近いことまでやったりした。ま、若さゆえの暴走だ。僕らが二十歳のころはすでに故人だったとはいえコルトレーンの影響下にあったし、マイルスは電化するし、それまでの伝統的なジャズを覆す様々な流儀を試すプレイヤーが次々に現れて来るし、といった具合でブルースなどに目を向ける余裕がなかったといってもいい。しかしながら、音楽シーンが落ち着いてきて、フュージョンと呼ばれる耳当たりのよい、いわばハードなイージーリスニング音楽が席巻してくると、古典的なブルースの基本がその核になっていることに気付かされることになった。散々複雑なラインが横行していたのに、原点回帰のような現象が起きてしまったわけだ。サンボーン然り、グロヴァー・ワシントン然りという具合にだ。みんなペンタトニックに戻ってしまった。その時代、本来のジャズは片隅に追いやられることになった。アート・ブレイキーなどもウィントン・マルサリスが救世主のように現れるまで不遇の時代を過ごすことになった。そういった意味でマルサリスが果たした役割はとても大きい。もちろん、フュージョンのカテゴリーに留まらず新しいラインを紡ぎ出すウェザー・リポートなどというバンドもいたが、彼らにしても伝統的なスイングビートからは離れていた。
 私の場合、無茶なトライを続けてはいたが、根のところでファンキーであることの重要性を無視したことはなく、スタジオミュージシャンとしての活動に欠かせないものでもあった。それは20代の終わりに参加した上田正樹さんのバンドが大きな引き金でもあったし、それ以前にもフレダ・ペイン、スタイリスティックス、ドナ・サマーなどとの仕事があって、ファンキーな表現に対する憧憬は常にあった。上田さんのバンドでのライブは他の関西のバンドと一緒になることも多く、憂歌団やウェスト・ロード・ブルース・バンドもその頃知った。30代の半ば頃からウェスト・ロード・ブルース・バンドのギタリスト塩次伸二氏などとセッションをする機会が増え、ブルースへの興味が任務のようになってきた。ようするに本格的な原点回帰を自ら体験することになった。アルバート・コリンズのレコードは全部入手するほど入れ込んでいた時期もあったが、時代を溯るようなやり方でトライして何かを得られるような甘い世界でもなく、それだけに焦点を定められるような潔さも持ち合わせず、なにしろ興味の範囲が広過ぎる節操のなさだったから、やがて足跡の一つとして止めることになるのだが、当時はブルース系のミュージシャンに少しでも近付こうと必死だった。

 86年には塩次氏と一緒にシル・ジョンソンのステージに立ち、シルのブルースハープのソロの簡潔な深さに大いに感銘することになった。ブルースハープとはハーモニカのことなのだが、昔マウスハープと呼ばれていたことから、ホーナー社がブルース・ハープという名のモデルを発売して、いつの間にか十穴の小さなハーモニカを総称するようになったらしい。シル・ジョンソンのソロはペンタトニック五音ではなく四音だった。
 日本でブルースハープ奏者といえば妹尾隆一郎氏を置いて語ることは出来ない。妹尾氏とは何かのイベントで同じステージに上がったような気もするが、一緒にライブをやった記憶はない。しかし、どんな経緯かはまったく覚えていないが、一時親しく交流があった。ちょうど、あの忌まわしいサリン事件があったころ、それについて語った記憶があるから95年頃に付き合いがあったことになる。当時、妹尾さんはパソコンオタクでもあって、その線で付き合いがあったのかもしれない。妙に馬が合う人だったから彼との付き合いは面白かった。一緒に音楽をやっていたわけでもないのにだ。疎遠になったのは彼が関西に戻ってしまったからだ。久々に再会したのがバーナード・パーディ氏との関西でのライブの時だった。その時も一緒に演奏したわけじゃなかったが、「やあやあ、久し振り」と笑顔で会話したことはよく覚えている。最後に会ったのは塩次氏の葬儀だった。佐野市の葬儀会場で「大変だったね」と声をかけると「いやあ、まいった」と大きなため息をついた。彼と塩次氏はデュオでライブツアーをやっていて、佐野市での開演前に塩次氏が倒れそのまま帰らぬ人となったのだ。地元のミュージシャンと何とかライブを終え、病院に駆けつけると塩次氏は亡くなっていたという。あれから10年が経ち、今度は妹尾氏の訃報を聞くことになった。昨年の12月だというから、「えー、そんなあ」と声も出ようというものだ。誰か知らせてくれても良かったのにと思うが、ライブで一緒に活動していたわけでもないから、僕らの交流を知る人は塩次氏ぐらいしかいなかったと思われる。妹尾さんはどういうわけか、妹尾ちゃんと呼ばれることが多かった。例えば山田などという名は山田ちゃんと呼ぶことはない。しかし、姓の語尾、姓の一字の語尾が母音の場合、ちゃん付けで呼ばれる人が多い。中井ちゃんとか荒尾ちゃんとかいった具合だ。彼が家に遊びに来たときの会話では「それでさ、妹尾ちゃんさ」などと言っていたような気がする。
 同い年のミュージシャンがまた一人いなくなった。冥福を祈る・・・。

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アルバム


 この暖かさで、すっかりその気になっている桜ども。



 昨年の暮にCD制作でお世話になった事務所から連絡を受けた。制作から撤退するという。在庫のCDを送付したいとの話だった。残っているのは数十枚だが、新たにプレスも可能で、その際は連絡頂きたいとのこと。2003年だから15年前のアルバムだ。出来た頃は幾度か聴いたが、もうずいぶん長いこと聴いていない。ついこないだ、大石氏が久し振りに聴いて「これがさ、良かったんだよね」などと言う。そっ、そうかなってんで、CDを取り出してはみたが聴くには至らなかった。むかし、吉田美奈子さんが仰った。「アルバムはね、出せば出したで後悔というか、何らかのストレスを抱えるものなの」というようなことだったが、それはよく分かる。ああすればよかった、こうすればよかったというようなことだが、結局のところ自分で納得するものなど作れないのだ。欲深とかそういうことではなく、だいたい自分が満足した時点でヤバいではないか。作った頃、当時の頭の中はバンドのことしかなかった。寝ても覚めても、あの曲のサウンドはこうで、この曲はこうやってなどと、そんなことばかり考えていた。その最終地点に近いものが録音された。ようするに最も盛り上がっていた頃の音とは少々違った。いくらか慣れも出ていた。いくつかの曲はライブでの演奏の方が上出来だった。録音するタイミングは難しい。高円寺のジロキチでのライブ音源は一曲だけ使ったが、全曲ジロキチでのライブ音源にすればよかったなどと考えたりもする。年に数回ジロキチでライブをやって全てを録音していれば、いいものがチョイス出来るかもしれない。しかし、あの頃のような集中力と緊張感を取り戻せるのかという心配がまた新たに押し寄せる。とりあえず7月に再開して、新曲で作れればいいのになどと夢想しているわけだ。

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オープンリール


 その昔、上田正樹バンドのマネージャーとして短期間在任されたのが大参(おおみ)さんだった。静かな方だったが、ある日のライブステージ前に軽く前説のような司会をされ、それが客席をほのぼのと煽るようなものだったので一挙に好感度は増し、僕らの頼りとするマネージャーになった。在任は一年ぐらいだっただろうか。その後の活動はよく分からなかったが、1978年のことだ。彼はチック・コリアのツアーに日本側からアシストする形で同行することになった。コリアは「Mad Hatter」をリリースし、ほぼ同じ編成でワールドツアーをやっていた。レコーディングではエディ・ゴメス、スティーブ・ガッド、ジョー・ファーレルなどが名を連ねているが、さすがに全ツアーに同行させるには無理があったらしく、リズムセクションは若手だった。それでも出来得る限りのメンバーが集められていた。



 ストリングス・セクション、ブラスセクションを抱える15人の大所帯だ。ヴォーカルでゲイル・モランもいた。トランペットにはアル・ヴィズッティもいたし、何よりもサックスがデイブ・リーブマンだった。このコンサートを聴きに行ったかどうかはよく覚えていないが、ヴァイオリンに黒人がいたことを記憶しているぐらいだから行ったのかもしれない。直前になってリーブマンは来られなくなり日本公演では日本のサックス・プレイヤーが参加というガッカリする情報があった。しかしながら羽田に着いた飛行機からリーブマンが降りてきて招聘元は嬉しい悲鳴を上げたそうだ。
 大参さんによれば、ツアーでのチック・コリアは終始上機嫌で、ステージの片付けをするスタッフの動きに合わせた伴奏をピアノで弾いてみせたりして笑わせてくれたそうだ。「それがね、動きをコミカルに捉えてて、実にピッタリ合っているもんだから思わず笑っちゃうんだよ。そんなことやり出したら止まらないんだよ」ってな調子だったらしい。

 そのツアーの最終日、大参さんはPAスタッフからプレゼントを受け取った。それはオープンリールのテープだった。最終日のラインテープだ。ラインテープとは、客席のスピーカーから流れる音とは違い、マイクから直接拾った音が録られている。かなり生々しい音であることは確かだ。普通、そのようなテープは門外不出のものだけど、ツアー同行記念に頂いたそうだ。もらった大参さんとしては処分するのも憚られ、その扱いに困って「あげるけど取りに来る?」と連絡があった。しかしながら喜々としたのもつかの間、頂いたオープンリールテープは一般家庭用のデッキでは聴くことの出来ない10インチのサイズだった。




 10,7,5と並んでいる。家庭用のデッキで主に使われた7号は中央の赤いラベルのものだから、10号がいかに大きいか分かる。しばらくは諦めていたが、途中で切らざるを得ずハサミが曲途中になるかもしれないリスクも覚悟し、空の7号リールに時間をかけて巻き直した。やっとテープを聴くことが出来るようになった。テープにはコリアの喋りも含め、ステージの様子がすべて録音されていた。最終ステージはツアーのラストでもあったらしく、コリアはかなりハイになっているようだった。メンバー紹介ではそれぞれを私の従兄弟だとか姪だとか言っているし、途中のトークでは日本人が英語をよく理解しないのを揶揄したのか、わけの分からない言葉で喋り始めたりしている。
 このテープをカセットに移し、2時間半のライブ秘蔵テープとして長年にわたり愛聴した。リーブマンのいくつかのソロは諳んじているほどだ。チック・コリア37才、リーブマン32才、まだまだ若く瑞々しい。40年前だ。久し振りにカセットを聴くと、経年劣化でテープが怪しい。そこで、この先聴くことはないかもしれないが、PCに取り込んで保存することにした。
 この2年後、デイブ・リーブマンは自分のリーダー作で「Chick-Chat」という曲を録音している。曲の解説にリーブマンは書いている「この曲はオーストリアのウィーンで、ちょうどチック・コリアと1978年にワールドツアーを回っているときに書いたものだ。多くの会話、時間を共に過ごした、この偉大な音楽家に捧げる。」

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プーッと吹けば


 久々に外出時間が8時間を超えた。玄関前に楽器をゴトンと置く音で気付くらしい。ねこ2名がドアの前に並んでいた。お帰り、お帰りってなものだ。しかしながら、これはとうちゃんが帰ってきて喜んでいるというものでもなく、実のところ、ごはんが帰ってきたという安堵の様子だと薄々気付いてはいるのだ。歓迎の儀式の後、2名とも皿の前にそそくさと座るから、それは明々白々。



 で、まあ、ソロの録音に行ってきたわけだ。初めて行くスタジオは響きをつかむまでに少々苦労する。力の入れ加減が分からない。音の伸びも部屋によって違うし、ミキサーの録り方ももちろん違う。それで最初のテイクは探り探りになることが多い。今日もそうなった。ファーストテイクで瞬時に判断して次のテイクに臨む。途中で没にしてしまうテイクもあるが、立て続けに5テイク以上は吹く。コントロールルームからOKが出ても「もう一回」と言いつつテイクを重ねる。そうやっている内に以前の感触が戻ってきた。うまく行ったようなテイクでも自分にだけ分かるほころびというものがある。そうやって続けているとストンと無心に近い情況になることがある。策を弄してないテイクが録れれば、そこが本日のゴールになるわけだ。
 30年前の自分の録音したものを聴いて、「もはや、今のあんたにはこれはできないだろう」と言われたような気もした。実際、30年前の音は出ない、というか出せるわけもない。それで、「そうは言うが、これなんか君には出来ないだろう」というような展開を絞り出したいわけだ。残念なのはメロディを即興で創り上げる技よりも何よりも、音が昔に比べれば軟弱なことだ。ストレート豪速球は望むべくもなく、ま、変化球だ。だから豪速球で行きたいと感じた2曲目は少々苦労した。16分音符にこだわり、8分音符で乗ればいいということに気付くまでに時間を要した。そこら辺の判断が鈍っているのは確かで、瞬発力は落ちているらしい。気付いただけでも良しとしようってな案配なのだ。音そのものを立て直すにはロングトーンの吹き伸ばしの練習しかない。やっぱ楽器は基礎練習だよな、ってなことを1時間の録音でまたまた学んだ次第。

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8小節


 オーバーホールした楽器を引き取り、帰りに練習スタジオを借りて試奏してみた。「げっ」と声が出るほど吹き辛い。メンテがうまく行かなかったわけではなく、体が付いていかない。この10日間ほどはフルで楽器を鳴らすということが出来なかった。もちろん家には出しっぱなしのテナーがもう一本あって、毎日何時間かは触れていたのだが、フルトーンで鳴らすわけにもいかず、だいたいはイメージトレーニングに近かった。その上、今日借りたスタジオの部屋の響きは恐ろしくデッドだった。楽器を鳴らすのにデッドな環境というものはとても辛い。つい力んでしまうことになるのだ。力みは大敵であっていいことなど一つもない。
 こんな話を聞いた事がある。どのような楽器にしろ、演奏家の奏でる音色には国によって違いがあるというのだ。それは住環境によって大きく異なるという。友人はヨーロッパ各地のいわゆるライブハウスのような場所で演奏した。彼が言うには、どの会場も音が響き過ぎるぐらい響いて最初は戸惑ったらしい。というのも特に北欧の建物は基本的に石造りであって、響かせようと目論んだわけでもなく、それが自然なのだという。その環境で楽器を学ぶということになる。日本は基本的に木造の環境で、今は違っているかもしれないが、昔は畳の上にピアノが置かれていた。そのあまり響かない環境で楽器に向かっていたわけだ。その違いは大きい。



 例えば畳の間でヴァイオリンを聴いたとする。響きは儚く心細い音色に聞こえる。もちろん達人が弾けばそれなりの説得力は持つが、適度な残響込みで弾かれるべき楽器であることは間違いない。ヴァイオリンの音色は単に弦に弓の弦が擦れるだけの生々しいものなのだ。その原始的な音が響きを伴うと、えも言われぬ音楽として認知されるわけだ。

 それはさて置き、デッドな空間で出した音の心細さったらない。なんだか無響室で吹いているような残念さがある。しばらく焦って続けたわけだが、明日もう一度同じスタジオでチャレンジしなきゃってな感じだ。明後日、録音の仕事を頼まれている。その歌手の愛聴盤が山下さんのライブだという。89年にそれまでのライブ音源を2枚組CD化したものだ。30年も前の録音で、見本盤を頂いてはいたが一度何曲か聴いただけで、盤を通して聴いたことなどなかった。そんなことを聞いたものだから何曲か再び聴いてみた。ま、若い。音ははち切れそうに鳴っているし、こんな音出るだろうかと不安にもなろうというもの。その情況で今日の練習、焦りも出るわけだ。自分が吹いたわけだからイメージははっきりあるのだけど、体が思い出すまでに少し時間がかかる。しかし、昔の録音を聴いて驚いたのは音色だけでなく、何事も全力だった無茶苦茶なパワーだ。今こんなことやったら死ぬなあってな感じだ。山下さんのツアーをやっているころ、勝手に決めていたことがある。だいたいは間奏のソロをやって後奏で歌にからんでというものだったが、昨日と同じことは絶対やらないということだった。似通ったものになることはあるにせよ、出だしだけでもまったく違うアプローチでということが重要だった。
 それがスタジオミュージシャンとしての活動の要だった。そのやり方は今のライブ活動でやろうとしていることとは根本的に違った側面がある。今の活動では、一曲の中で長い物語を紡ぐことにポイントがある。8小節で終わるわけではなく、何かインスピレーションが湧くことを待ちつつ紡いでいくわけだ。それで、今回も固辞したのだが、どうしてもというので引き受けた。再び8小節の世界の緊張感に戻れるのかどうかはやってみないと分からない。この歳になってなんとスリリングな展開だろうか。

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