☆☆☆

残像



 色見本ではなく今日の空。久々に晴れ渡り、気温も上がり日中は半袖で過ごせた。台風が接近していて、残念なことに束の間の好天だった。
 近ごろ昔のこと、携わった仕事のことなどを盛んに思い出すようになった。と言ってもステージの様子とかを思い出すわけではない。僕らは基本的にステージ上では譜面とにらめっこをしているわけだから細かなことは見えていない。だいたいはステージ袖だとか楽屋だとかの記憶が多い。もっともスタイリスティックスやスティービー・ワンダーのステージのように、演奏しているにも関わらず聴衆の一人のような気分で眺めていたステージもあるにはある。しかしながら思い出すのは、どうしてか分からないが本の一瞬の些細な場面だったりする。百恵さんが引退する一年ほど前、中野サンプラザで歌謡賞か何かのテレビ収録があった。リハーサル時、百恵さんが一階の客席の中央に独りポツンと座っていた場面だけがフラッシュバックするような案配だ。深夜、神宮外苑の小さな店で遭遇したのは研ナオコさんだった。何の店だったかはっきり覚えていないが、窓口から直接ホットドッグだとかを買う店だった。彼女は男性の陰に隠れるようにしていた。まだそれほど有名ではなかったように覚えているが、三枚目的に扱われることの多かった彼女が目を見張るような美人だったことだけが残像のように残った。フジテレビの通路で会った十朱幸代さんの妖艶さに思わず振り返ったことも一瞬の映像として残っている。そのようなことは芸能界の隅に生息していれば特段珍しいことでもない。
 二十歳の頃、初めて入ったK・名和野とニュー・スターズというビッグバンドで地方のステージを何度も経験した。熊本でのステージは歌謡ショーで、当時のスター達が多く参加していた。舟木一夫さんや小川知子、千賀かおるといった面々に加えてヒデとロザンナもいた。その他にもいたはずだが覚えていない。ステージ袖で待っているとき、まだまだ子供のように見えたロザンナがしきりにヒデに話しかけていたのが見えた。衣装のこと、例えば髪飾りのようなものがどうかと訊いているようだった。ヒデは生返事で、彼女はガッカリしたような顔をした。それを見ていた小川知子らが幾分眉をひそめたようにしつつ「あの子ったら」というように囁き合っているのが見えた。当時のロザンナは19才。ヒデの気を引こうとしているのが傍目にも分かり過ぎるほど分かった。その僅かな時間のやり取りが鮮明な映像で記憶に残った。やがて2人は結婚し、10年ほど経って、生バンドを抱える日本テレビの昼のワイドショー番組にゲストとして出演した。それも本番ギリギリにスタジオ入りするという事態でスタジオはパニック寸前になった。生番組中に何曲も歌う予定だったから大変だった。それ以後会うことはなく、ヒデさんは47才で亡くなった。ロザンナさんがヒデの思い出を語るような映像を幾度となく見ることがあった。その都度、あの日の彼女の様子を思い出した。悲しみが伝わるような気がしたのだ。記憶に残っているのは女性のことばかりだが、男性歌手などのことは端っから覚える気はなくて当たり前なのだ。

拍手[0回]

機材


 気温の上がった午後、焦ったようにツクツクボウシが鳴きだした。「えっ、これは鳴いておかなきゃ」ってな感じに聞こえて笑った。

  PCで打ち込みの音楽を作り始めてずいぶん経つ。シーケンサーそのものはDX7の後に買ったコルグのT3で始めた。見やすいとは言えない小さなウィンドウで確認しつつチマチマと鍵盤を弾いていた。それでも、その頃作ったいくつかの曲はアルバムに収録したから、その気さえあれば機材はなんでもいいらしい。周りでMacが俄然注目を浴び始め、その注目度はiMacが登場した辺りでピークを迎えたわけだが、Macを入手したときはまだまだ値段が高く、クラシックという一体型のものでも今のiMacが2台買えるような価格だった。そのクラシックとパフォーマーというシーケンサーソフト、ミディ・インターフェイスを買ってきてPCでの作業が始まった。当時はシーケンサーソフトの説明書が邦訳されていなくて、ベーシストが翻訳したものがあったが、それだって一万円近くした。とにかく金食い虫的な旅が始まった。キーボードも4台買ったし、音源モジュールも次々と増えていった。2005年にアルバムを作ったとき、外に持って行く必要があってシステムを全部ばらした。その際にリムーバブル・ハードディスクが飛んで使えなくなり、サンプラーが使用不能になった。アルバムの録音が終わると、すっかり出し殻のようになってしまい、システムを再構築することなく4年ほどが経った。再開したころにはPCを取り巻く環境が変わりつつあった。数々の名機を生んだエンソニックは合併で消えていたし、サポートも無くなっていた。使い慣れたキーボード類も次々に不具合を見せるようになるし、また機材を買い替えるのも躊躇われた。コルグのキーボードはだいたい液晶のパネルが読み辛くなった。ミキサーは3年もすれば接触不良でおかしくなる。消耗品に金をつぎ込むのが馬鹿馬鹿しくなって、この5年ほどはキーボード2台だけでやっていた。曲を作るだけならそれでいいが、ちゃんとしたサウンドのデモを作ろうとすると、やはり昔の機材が懐かしくなる。そこで今さらなんだが、システムの再構築を始めた。鍵盤は3台だが2台は音源としてだけ使用。そして、ついに今日エンソニックのASR10Rを繋いだ。昔の機材だからハードディスクは接続がSCSIのものを使うしかないわけだが、入手の目処が立った。これは個人的にとても目出度いことなのだ。写真の上のものがそれで、その下はオーバーハイムのマトリックス、ウォルドルフのマイクロウェーブ。ASRは発売当時42万円もしたらしい。とんでもない価格だったわけだ。そんな大金をはたいた記憶はないが、マトリックスが10万円ほどで安いと感じたわけだから機材入手の際は金銭感覚がおかしくなっていたらしい。



 次から次へとPCもディスクも買い替え、ソフトのバージョンアップにもつぎ込んでいたことを思い返せば、これはアホな道楽ってのが正しい。

拍手[0回]

思ったより多かった曲ども


 大型台風接近中でテレビは物々しく状況を伝える毎度のパターンだが、強風の現場に赴いて倒れそうになりながら中継する毎与太も相変わらず。



 古い楽曲のデータの主だったところは揃ったようだが、見落としがあるかも知れないとファイルをさらに調べている。大石氏の言う100曲には届いていないようだが、少なくとも演奏可能なものは優に50曲を超えている。お蔵入りしたものを含めると70曲ぐらいがあるわけだ。録音用にエディットを始めたものが35曲。唸りながら気の遠くなるような作業が続く。電話で自主制作でもレコーディングするべきだと言われたときは、考えたこともなかったから虚を衝かれた案配できょとんとした。もごもごしながら「ま、あっ、その検討してみる」と応えたわけだが、作業を始めてみると奥が深い。言われなければむかしの楽曲のデータを引っ張り出すこともなかったに違いない。楽曲はライブで消費されて消えていくものという感覚でしかなかった。飽きれば次を作るってな調子だった。それが一転して、世に問うというほどのものではないにしても作品として残すことは案外悪くないと思い始めたのだ。ひと昔前は自主制作のレコードなど手売りが基本だったし、大手の販売ルートに乗らない限り泡沫に近かった。時代は変わった。今やAmazonなどが委託販売を引き受けるようになったし、iTunesも僅かな手数料で配信可能だ。
 などと取らぬ狸の何とやらで夢ばかり膨らんでしまうわけだが、その前に大変な作業を終わらせなきゃと、奮い立たせながらも現実に戻ることを行きつ戻りつしている。

拍手[0回]

失せ物


 とんでもなく早い梅雨明けから長い夏が始まり、暑い暑いと言ってるうちに9月だ。秋が来る。



 このところ半日はヘッドホンをしているわけだが、ゼンハイザーの密閉形のヘッドホンは締めつけがしっかりし過ぎなのか、3時間を過ぎる辺りから必ず耳が痛くなる。僕らは仕事柄それなりに奮発して良いヘッドホンを買ったりするわけだが、ヘッドホンには苦い思い出がある。まだ20代のころ、無理をして値段の高いヘッドホンを買った。折り畳むと小さくなるし、旅先などに持っていくのも都合が良い。買った日は渋谷でライブがあった。大きなライブハウスだったが、あれがどこだったのかはすでに思い出せないし、もう無くなっているかも知れない。「おっ、いいの買ったなあ」などとメンバーに言われ得意満面だった。カセットデンスケに入れたテープを聴きながら開演を待った。ライブは無事終了して帰宅。家に辿り着きしばらくして「あっ、ヘッドホン」と気付いたのだ。ライブでテンションが上がっていて、買ったことすら忘れていた。楽屋に袋ごと忘れてきたらしい。次の日、早々にライブハウスに赴き忘れ物の届け出の有無を訊いた。出て来なかった。楽屋に出入りする人は多い。泣く泣く諦めるしかなかった。
 バンドの楽屋とか、リハーサルスタジオでの忘れ物が出てくることは滅多にない。だいたい誰かに持ち去られてしまうのだ。中野のリハーサルスタジオには個人練習で毎日のように通った時期がある。当時ウチのバンドを手伝ってくれていた女性ドラマーも常連だった。ある日、スタジオにメトロノームを忘れてきた。次の日、当然届けられていると思ってスタッフに聞くと「さあ?」などと言う。ドラマーの臼井さんにそれを話すと「いやあ、出て来ないっすよ」と事も無げに言われた。彼女の場合はドラムだからメトロノームは必需品。今まで何コ無くしたか分からないと言うのだ。忘れてきた時点であきらめるしかないという。ああそうかと納得したわけだが、選別したリードをベースアンプの上に忘れてきたときは、「大事そうに並べてあったから」という理由でカウンターに届けられていた。誰でも使えるものではないから出て来たらしく、苦笑いするしかなかったのだ。

拍手[0回]

継続


 さて着々というか遅々としてというか、自作曲データの掘り起こし作業は続いている。PCのデスクトップには楽曲のファイルが並ぶ。デスクトップの写真が猫というところは猫バカの所以でもあってお笑いくださいってなものだ。現在未発表のものは14曲で、日々増え続けている。



 15年ほど前に出したアルバムでは10曲を録音した。その際に洩れたものも今回見直そうというのだから大変なのだ。作ったのは20年も前なのに、バンドで演奏する楽曲としては難しいということでお蔵入りしていたものも多い。プログラミングで土台を作るということであれば、それらも全て日の目を浴びる余地がある。いいぞ、いいぞ的に作業は進んでいる。バンドを始めたときから現在まで、曲を作るということは常に懸案事項であり、それが自分を前に進める源だったように思う。それで、録音して発表する当てなどなくとも作り続けた。1、2度の演奏でやらなくなった曲もかなりの数に上る。曲が気に入らないのではなく、次に作るものに興味が向いていたのだ。曲を作った時点で自分の中では終わっていたとも言える。演奏で掘り下げることをせずに次に移っていくというのもせっかちな話だが、20年間ほとんどそうだった。20年間分だ。次から次に出てくる曲の数々、すっかり忘れていた7拍子のもの、編成が大きくなってしまっているもの、それらを見直す作業は大変だが、ま、・・楽しい。薬物中毒で更生施設に入り、出所後には演奏される当てがないのに曲を作り続けたタッド・ダメロンのことを、比べるの大それたことだとは分かっていても考えたりする。20年間以上作り続けてきたわけだが、その都度は日常的な作業だった。しかし、多くの楽曲のデータを目の前にして、継続は力ということは本当だなとつくづく実感している。

拍手[0回]

カレンダー

12 2019/01 02
S M T W T F S
3 5
8 11 12
15 17 18 19
21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

最新記事

(01/20)
(01/16)
(01/14)
(01/13)
(01/10)
(01/09)
(01/07)
(01/06)

アーカイブ

最新コメント

[12/10 s・f]
[09/26 s・f]
[09/26 ぐれじゅー]