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横浜たそがれ


 昨日、歌手の五木ひろしさんが文化勲章の栄誉に輝いたとかで、彼のヒット曲「横浜たそがれ」のことが語られていた。歌詞冒頭に出てくる「ホテルの小部屋」のモデルが当時お洒落なホテルとして知られていた「バンドホテル」だったそうだ。昔のことで、バンドーホテルと覚えていたがバンドだったらしい。横浜で半年ほど仕事をしたのは22、3才のころだ。キャバレーバンドを渡り歩くのにも少々飽きていて、一緒の店で仕事をしていたドラムの林田さんが、横浜でバンドを組むのだけど手伝わないかと声をかけてくれたのに乗ったのだ。よく聞けば歌い手が入った、早い話がコーラスバンドだというのに些かの抵抗はあったけど、それも面白いかも知れないってんで新しい流れに乗ってみることにした。もちろん「横浜たそがれ」も「傷だらけの人生」もやったけど、サンタナの「オエ・コモヴァ」も「ブラックマジックウーマン」もやったし、ごった煮的レパートリーで横浜での活動は始まった。バンマスの知り合いのクラブが拠点だったが、深夜はあちこちの違う店で朝までの仕事をした。今だったら倒れるところだが、なにせ若いから平気だったし、朝の東横線で渋谷に向かう毎日だった。



 バンドホテルの最上階に「シェルルーム」というクラブがあって、どういう経緯か、そこのバンドのオーディションを受けることになった。1929年開業の老舗中の老舗の格調高いホテルで敷居は相当高く、1968年にオープンしたクラブのオーディションに受かるとは思えなかったが、ダメ元興味半分で僕らは参加した。いくつものバンドが来ていた。その中で笑ったのはゴテ辺さんのバンドだった。当時渡辺という名のプレイヤーは「XXなべ」と呼ばれる方が何人もいらっしゃった。トランペットのゴテ辺さんは、一度聞いたら忘れないあだ名で、どうやら不平不満の多い方らしかった。恰幅のいい体格のゴテ辺さんは演奏前のバンドメンバーに向かって仰った。「さあ、どれだけ大きい音が出るか、やってみよう」受かる気があるとは思えなかった。それで、ドッカーンと大きな音で演奏して終わった。その頃、バンドのオーディションが新しく開店するクラブなどで行なわれることは度々あった。当時は知らなかったが、多くの場合バンドはすでに決まっているらしく、しかしながら多くの事務所の顔を立てるためにオーディションという形を取り、それは店のお披露目的な役割も担っていたらしい。ゴテ辺さんはそれを知っていたはずで、「馬鹿馬鹿しくてやってらんねえや」ということだったわけだ。
 横浜での仕事は色んな意味で刺激に満ちていた。深夜の仕事の店で彫師という人に会ったのも驚きだった。その筋の人たちの刺青を彫る人だ。バンマスが知り合った女性に冗談半分でオカマに興味があるから紹介しろと言ったら、店にやってきたのはどう見てもオジさんだった。それもプロらしく着流しでさらりと客席に現れた。焦ったバンマスは逃げ腰だったが、テーブルで脂汗を流しながら取り繕う様を僕らは楽屋から見ていて腹をよじって笑った。歌い手の元ヤンキーのジローさんは横浜の人で、もちろん街のことは詳しかった。中華街の店でも、ここは美味しいと連れていってくれた店の焼きそばはそれまで食べたことのない美味しさだった。焼きそばには苦い思い出もあった。一週間ほど仕事をした桜木町駅前のホテルのラウンジでは、毎夜のように食事が供されたが、一週間同じ焼きそばだった。犬や猫じゃあるまいしと僕らは憤然とした。それで食事はいらないと言うようになったのだが、それこそが店の望んだことらしかった。映画「天国と地獄」の横浜の酒場シーンのモデルとなった根岸屋にも連れていってくれた。朝方で客はほとんどいなかったが、青とも緑ともつかない妙な色の昔の椅子が並んでいるのが印象に残っただけで、結局は何も頂かずにすぐに出た。仕事後の朝に行った本牧の町は平ぺったい趣で何か特別という感じではなかったが、ジローさんが開けた重い扉の中は薄暗い中に大勢の人の姿があった。いわゆるバーだが、背の高いテーブルを囲んで立っているのはほとんど外人だった。米兵が集う場所だったらしい。外は明るいというのにそこだけは夜だった。まるでアメリカ映画の一シーンに入り込んだように錯覚した。



 極め付けはホームページの「70年代」にも書いたが、夏の茅ヶ崎だった。朝まで仕事をしての帰り、ジローさんが「今から海行こうぜ」と言い出し、錠剤でラリった後のみんなは何となく勢いで付いて行ってしまった。海に着いたのは7時前だったから、当然人はいない。しばらくは海だ海だと盛り上がっていたが、やがてみんなは深い眠りについた。目が覚めたときの驚きは尋常ではなかった。朝は海岸も海も暗い土色と鉛色だったものが、海岸は眩いほどに輝いていたし、辺り一面が色彩に溢れていた。夏休み期間であることなど僕らは忘れていたのだ。僕らは海岸のど真ん中に、海水浴客に遠巻きに避けられるようにして倒れていたのだ。普通の人たちの日常に、夜の世界で生きる人間が突然紛れ込んだようなものだった。僕らは這う這うの体で海岸から逃げ出したのだけど、その辺りからこんなことしている場合じゃないなと思うようになった。しかしながら、今にしてみれば横浜での半年ほどはある種の青春というものを経験していたのではないかと思う。大学進学もせずに18才で夜の世界に入り、大学のキャンパスも知ることはなく楽屋とステージを行ったり来たりした自分にとってはとてつもなく刺激的な毎日だったのだ。バンドホテルも根岸屋もなくなり、バンドホテルの名を聞いた瞬間、70年代初頭の横浜の息吹が脳裏に蘇ったってわけだ。

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ターニングポイント


 人生に転機というものがあるとすれば武藤さんの誘いに応じることもその一つだったに違いない。ビッグバンドで演奏する道があった。切っ掛けは他にもあった。ゴダイゴでホーンセクションを手伝っているとき、ちょっとした揉め事が事務所とプレイヤーの間であり、ま、それは金銭的なことも絡んでいたのだけど、ホーンセクションを替えることになってしまった。しかしながら何が起きているか知らないこちらはトラブルに関与していなかったから、残って欲しいと言われた。自分のトラブルではなかったが、自分だけ残るというのも後ろめたいような気がして固辞した。しばらくして浜田省吾というロック歌手のツアーを何本か手伝った。ある夜、旅先のホテルで会食に招かれた。たしか彼のお姉さんがマネージメント担当で、ウチのバンドに加入しないかという話だった。誘いは光栄な話だったが、当時の彼のバンドのツアーは年に50箇所を超えていた。3日に一回としてもリハーサルを含めて年の半分は拘束されることになる。それはそのバンドの活動で生きる事がすべてになることを意味していた。頭を下げて断った。誘いに乗っていればロックの世界でサックスを吹くおっちゃんになっていただろう。



 ツアーを何年も続けることはあまりなかった。その中で3年続けた山下さんのツアーは珍しいことだった。そもそも自由な職業に就いたはずだった。それなのに自由を束縛されるような立場になることだけは避けたかったのだ。その山下さんのツアーも3年目が限界だった。来年も、という申し出を断ることになった。彼に感謝することはあっても嫌いだとかいうものではなく、自由が欲しいというような心持で辞することになった。ま、多くの事務所サイドからは生意気なヤツと取られたかも知れないが、フワリフワリと流れるように生きるのが好きだった。大仰にいえば、他人の音楽ではなく自分の音楽で生きることが大切だと信じていたというか、信じようとしていたのだ。あの時こうしていればという後悔があるわけではない。ビッグバンドのリード、ロックのサックス、どれもその立場にいる自分を想像できない。そんなことを言えば、スケジュールが合わなかった山口百恵さんのラストツアーや、海援隊のツアーなどに参加していれば、劇的な変化はなかったにせよ何らかの影響はあっただろうが、結局は今の場所がいるべき場所だったと思うのが正しいのだ。

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ライブ


 さて昨夜のライブに足を運んで頂いた方々に感謝します。遠方から泊まりがけで来て頂いた柳亭さんにはさらに深く感謝する次第です。



 今回で少しは先が見えるかと期待していましたが、好事魔多しというか、少々の行き違いの末、またまたドラマーが抜けることになってしまって振り出しに戻るってな案配。ようするに、ライブ前には新しい楽曲についてはシーケンサーで打ち込んだデモテープを送っているのだけど、それを聴いて対処できない場合は対応不能になる。例えば、自分の作った楽曲の説明にレス・マッキャンの路線だと説明したりするのだが、知らないと言われ、林英哲の名が出て来た辺りで接点は消えるってな具合だ。そういえば和太鼓的なアプローチをしようとする傾向があったわけだが、根のところのベクトルがそうだったらしい。結局、何曲かはピアノとのデュオ形式で対処した。ソロに入るといきなりピアノと2人だけになるというような展開で全体のグルーブを確保する。そのやり方の方がずっと楽だったってのも悲しいことなのだ。この先どれほどのライブを重ねることが出来るのかは謎だが、一回一回のライブがますます貴重なものになってきた。

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毎日リセット


 台風が南方の熱気までしっかり運んできたらしく、今日は夏が戻り汗ばむ陽気になった。昨夜遅く、猫のみかんが外に出たいというので、無理は承知で窓を少し開けてみた。轟音と共に風と雨が飛び込んできた。猫はビックリして後ずさりし、目を丸くして窓を見つめる。このような強風を知ると、雨露しのぐ家というものの存在がどれほどありがたいものかを痛感する。それにしてもあのような風の中、野良猫たちはどうやって凌いでいるんだと心配したりする。



 ってなことを言いつつ、遂に大台まであと少しの誕生日を迎えてしまった。ちっとも目出度くない。誰でも同じように歳は取る。しかしながら他の人がどうなのかは知らないが、老いたという実感があるわけでもない。どちらかと言えば、二十歳の頃から何も変わってはいない。定年とかいう区切りを付けられることのない職業の所為だとも思える。有り体に言えば浮世離れした生き方ということにもなろうが、同じ世代の友人たちが言うように夢を追いかけているわけではない。夢など追いかけてはいなくて、今ここにある現実を追いかけるというか、それはとても具体的だ。この音の後にこの音を繋ぐとこうなって、というような感じで、それを全部把握した上で自由になりたいと思っているわけだ。これがなかなか手強くて、そう簡単に自由は手に入らない。それで、夢を追いかけているというより何かをいつも探しているというのが近い。もちろん気力は不可欠だ。探す気力を失うことなく続けられれば万万歳という案配なのだ。

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残像



 色見本ではなく今日の空。久々に晴れ渡り、気温も上がり日中は半袖で過ごせた。台風が接近していて、残念なことに束の間の好天だった。
 近ごろ昔のこと、携わった仕事のことなどを盛んに思い出すようになった。と言ってもステージの様子とかを思い出すわけではない。僕らは基本的にステージ上では譜面とにらめっこをしているわけだから細かなことは見えていない。だいたいはステージ袖だとか楽屋だとかの記憶が多い。もっともスタイリスティックスやスティービー・ワンダーのステージのように、演奏しているにも関わらず聴衆の一人のような気分で眺めていたステージもあるにはある。しかしながら思い出すのは、どうしてか分からないが本の一瞬の些細な場面だったりする。百恵さんが引退する一年ほど前、中野サンプラザで歌謡賞か何かのテレビ収録があった。リハーサル時、百恵さんが一階の客席の中央に独りポツンと座っていた場面だけがフラッシュバックするような案配だ。深夜、神宮外苑の小さな店で遭遇したのは研ナオコさんだった。何の店だったかはっきり覚えていないが、窓口から直接ホットドッグだとかを買う店だった。彼女は男性の陰に隠れるようにしていた。まだそれほど有名ではなかったように覚えているが、三枚目的に扱われることの多かった彼女が目を見張るような美人だったことだけが残像のように残った。フジテレビの通路で会った十朱幸代さんの妖艶さに思わず振り返ったことも一瞬の映像として残っている。そのようなことは芸能界の隅に生息していれば特段珍しいことでもない。
 二十歳の頃、初めて入ったK・名和野とニュー・スターズというビッグバンドで地方のステージを何度も経験した。熊本でのステージは歌謡ショーで、当時のスター達が多く参加していた。舟木一夫さんや小川知子、千賀かおるといった面々に加えてヒデとロザンナもいた。その他にもいたはずだが覚えていない。ステージ袖で待っているとき、まだまだ子供のように見えたロザンナがしきりにヒデに話しかけていたのが見えた。衣装のこと、例えば髪飾りのようなものがどうかと訊いているようだった。ヒデは生返事で、彼女はガッカリしたような顔をした。それを見ていた小川知子らが幾分眉をひそめたようにしつつ「あの子ったら」というように囁き合っているのが見えた。当時のロザンナは19才。ヒデの気を引こうとしているのが傍目にも分かり過ぎるほど分かった。その僅かな時間のやり取りが鮮明な映像で記憶に残った。やがて2人は結婚し、10年ほど経って、生バンドを抱える日本テレビの昼のワイドショー番組にゲストとして出演した。それも本番ギリギリにスタジオ入りするという事態でスタジオはパニック寸前になった。生番組中に何曲も歌う予定だったから大変だった。それ以後会うことはなく、ヒデさんは47才で亡くなった。ロザンナさんがヒデの思い出を語るような映像を幾度となく見ることがあった。その都度、あの日の彼女の様子を思い出した。悲しみが伝わるような気がしたのだ。記憶に残っているのは女性のことばかりだが、男性歌手などのことは端っから覚える気はなくて当たり前なのだ。

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