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無頼その後


 ひと昔前の扇風機はこのようなごつい感じだった。近ごろは羽のないヤツがのさばっているが、どうしても扇風機と認識できない。

 

 前回、前々回と、これまでのプレイヤー活動に触れてきたわけだが、ちゃらんぽらんな部分も含みつつ、ま、それなりに面白い体験をしてきたような気がしている。もちろん、まだ終わりではないけど。で、このようなキャリアは説明しにくいから、例えば郷里に帰ったときなど、活動状況について一切話したことはない。母は吹奏楽部に入ると言ったときに、「バンドマンになってしまうから止めなさい」と猛烈に反対した。なにやら感じていたらしい。ま、心配した通りにその道に進んだのだから図星だったことになる。世代にもよるだろうが「バンドマン」という言葉に不穏な空気を察する人は多い。役者が河原乞食と言われるのと似て、ヤクザものといったようなニュアンスで捉えられてしまう。博打に酒に女ってな案配だ。身を持ち崩す代表的な職業と捉えられていた節がある。今はバンドマンなどという言葉は死語に近く、ミュージシャンとか、歌手に至ってはアーティストなどと呼んだりする。芸術家ってわけだ。  郷里に帰ると、菓子製造業を営む伯父は「紅白は出ないのか」と何度も聞いた。その都度、「いや、それは歩いている道が違うから」と苦笑いでごまかしたが、伯父にとっては紅白こそが花道だったらしい。ま、ジャズにのめり込んでいるなどと言っても理解してもらえるわけもなく、違う次元で自分が生きていることを再認識するだけだった。  長い間、郷里に帰っても同窓生などに会うこともなかったが、50才の頃初めて同窓会に参加して、少しずつ交流が始まった。それはある部分諸刃の剣のようなものだった。むかし通りの付き合いも出来たが、こちらを値踏みする手合も現れた。いったい何をやってるんだ,ってな調子だったが説明し辛く、適当に答えると「たいしたことないな」ってな反応が返ってきて、その度に辟易することになった。そういった部分は不躾で辛辣だった。一時交流が再開していた音楽教師などは、ついにはこちらの音楽的な部分にも口を挟むようになった。こちらはプロなんだが、いわゆる前述の危ないバンドマンという括りで見ていたらしい。それは例えば教え子が政治家になっていたとして、その政策に口を出すかというようなことなんだが、分かってもらえなかった。ライブハウスは貧乏臭いからもっとちゃんとしたところでやれってなことを平気で言う手合もいて笑えなかった。数年前、椎名さんとの仕事をした途端、評価が変わったこともあった。それは、誰々の仕事をしているから凄いってな話で、分からないでもなかったが、こちらとしては「あいつは自分の音楽を今でも追い求めている」ってな理解を求めていたわけだから少し情けなくなった。ま、こちらが浮世離れしているだけの話かもしれない。

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無頼

 さて、続きになるが、スタジオミュージシャンとしての活動はCMの録音から始まったとも言える。少し目立つ動きのあるミュージシャンをインペクはCMの録音で試すといったような案配だった。それは尺が短いことが要因でもあって、短い小節の中に詰め込まれた情報をいかに表現できるかと試すわけだ。もちろん人様々だが、あたしの場合はCMの録音に関わる事務所が最初に目をつけてくれたわけだ。それで行けると分かると劇伴の長丁場が待っている。2時間か3時間の押さえで、多い場合は50曲ほどを録音する。50曲といっても、中には数秒のシーンチェンジの音楽なども含まれるから、どれもが3分を超えるようなものではない。



 それでも譜面チェックの練習が一度だけ行なわれて、次が本番という状況は痺れるものがあった。だいたいは一発録りだからミスをすると全員でやり直すことになる。ま、冷や汗もかいた。佐藤允彦さんの劇伴にはクラリネットかソプラノサックスで度々参加した。ジャズの巨匠は劇伴でも実験的な書式を貫く方だった。変拍子は当たり前で、ある時はクラリネットとフルートのデュオが10拍子で書かれていた。お互いに複雑な動きをするものだから、相手を聞いていても分かるというものではなかった。合っているかどうかも分からないってな調子だった。で、とにかく自分のパートを正確に吹くしか手はなかった。OKが出た時には心底ホッとした。クラリネットの修羅場もあった。それはいまでも譜面を保存しているが、それほど冷や汗をかく代物だった。クラリネットのア・カペラのソロから始まる曲だったが、その最初の部分のフィンガリングが難し過ぎて中々うまくいかない。ま、逃げるわけにも行かず、何テイクも重ねた。10テイクを超えたあたりでやっとセーフラインにこぎ着けた。その後はストリングセクションだけが続くわけだが、そのセクションも変拍子で書かれていて、誰かが間違った。で、また最初のクラリネットの件から始めることになった。指揮の中谷さんは「さあ、これはうまく行くまで何回でもやるぞ」と檄を飛ばされた。で、すべてうまく行った時は、確か23テイク目だった。スタジオの中で拍手が起こった。



 しかしながら、音大出身でもなくオーケストラ出身でもない、ジャズやロックから来たこちらは、周りの状況からすれば無頼の徒であるようにも思えていた。ストリングセクションのトップには毎日音コンの受賞者もいたし、有名オケ出身者はざらだったから無理もない。
 もちろん、アカデミックな教育を受けたことは絶対ではない。以前、お嬢様が音大を卒業したはいいが仕事のあてもなく、スタジオミュージシャンにでもなるかと知り合いが相談の電話をしてきたことがあったが、それは無理だと分らせるのに難儀した。音大出身なんて言ってもアマチュアに過ぎない。何度も弾いたベートーヴェンが役に立つものでもない。初見で何でも演奏できることが最低条件の世界だ。
 ある日、前の仕事が押しまくって、1時間近く現場に遅れて入ったことがあった。ストリングスのセクションを待たせるという結果で焦った。スタジオ入りするなり本番という状況になった。ワルツやら何やら、映画音楽をクラシカルなムードミュージックに仕立てた曲が5曲ほどあった。その時のトップが友田さんだった。日本フィルから巌本真理弦楽四重奏団に入って活動され、四重奏団の後はスタジオでの仕事をメインにされていた。その仕事終わりに遅れたことを詫びに行くと、友田さんは「前の仕事押しでしょ。仕方ないでしょ」と優しく対応されて恐縮した。巌本真理弦楽四重奏団のヴェルディとプッチーニの入ったレコードを愛聴していたこともあり。全然知らない方でもなかったわけで、ま、こちらとしては平謝りするばかりだった。その件があって、次に会うと言葉を交わすようになった。それまではストリングスの人たちとは遠巻きにするばかりで会話はなかったからちょっとした変化だった。ある日、仕事が終わってゆっくりと会話する時間があった。こちらはアカデミックな教育を受けたわけでもなく「無頼ですよ、無頼」と自虐的に言うと、友田さんはすぐ仰った。「それはね、違うよ。オケの連中はね、あなたのやっている仕事の10分の1もこなせないよ。あなたのやっていることは僕らから見ればすごいことだよ、ホントだよ」と、実に予想もしない答が返ってきて驚いた。だから自信を持って続けなさい、と激励され、狐につままれたような心持になった。

 それからしばらくして、ある録音で一緒になったのがヴァイオリンの尾花氏だった。尾花輝代允さんは芸大からソリストとしてカーネギーホールデビューをした方で、ソリストからオケのコンサートマスターとして京都、読売と渡り歩かれたとんでもないキャリアの持ち主だった。2回目に録音で会った後、声をかけられた。「一緒にやらない?」という話だった。未知の領域での共演を申し込まれて驚いたのなんの。で、取りあえず、彼がその当時在籍していた神奈川フィルの関係で、みなとみらいホールで定期的にやっている昼のコンサートにゲスト出演することが決まった。不思議な体験だった。普段のようにステージにマイクが立てられているわけでもなく、何もないステージに上がって楽器を吹くのは初めてだった。ところが、このクラシックのホールの残響の豊かさといったら半端じゃなかった。その日はピアニストを連れてデュオで2曲を演奏したのだが、フッと吹き込んだ楽器の音がホール中に響き渡るのは快感だった。そこから尾花氏との仕事が読売のファミリーコンサート等々、幾度も続いた。
 その時でも少しは自分が「無頼」であるような気はしていたのだが、そもそもなぜ誘ったのかと聞かずにはいられず、話したことがあった。彼もまた天才肌の演奏家で、芸大に入った時にはすでに出来ないことはないというレベルだったらしい。で、ソリストとしてデビューはしたものの先行きは楽観できるものでなく、オケへの転身を決意したという。ま、ソリストとして生き抜けるのは一握りに過ぎないということだ。コンサートスターは過酷な仕事で、いざという時のために常時演奏可能なコンチェルトを2曲持っている必要があるらしい、それは客演ソリストが何らかのトラブルで演奏不能になった際に代わりに演奏するためだという。それを毎日お復習いするだけでも2時間はかかるという。そのような激務を果たしていて、毎回聞きに来てくれる客の一人が「今日も美しい演奏でした」とは言ってくれるのだけど、「感動した」と言ってもらえないことに忸怩たる思いがあったそうだ。自分に足りないものを探していて、君に会った時にちょっと惹かれるものがあったという。それは「表現したい」という思いのようなものを感じたそうだ。ま、買い被りもいいところなんだが、尾花氏はそう思ったらしい。こちらとしては納得できる話でなかったけれど「ま、いいか」的に彼との共演は続いた。
 ピークは2人で企画し、5人編成ほどで行なったホールコンサートシリーズだった。オペラシティ小ホールで2回、みなとみらい大ホールで1回やった。

 

 たしか、この写真は尾花氏がドビュッシーのソナタ抜粋演奏後のトーク。この後にあたしがフォーシーズンズの「シェリー」を一人で演奏したりして、まったくおもちゃ箱をひっくり返したような演奏会だった。

 

 楽しい演奏会で、縁があったらもう一度やりたい企画だけど、今は疎遠になってしまっていて可能性は少ない。しかし、このオペラシティでのコンサート。裏方で協力してくれたのが件の友田さん夫妻だったのだ。無頼を支えてくれたお二方に感謝するしかないではないか。

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ファン

20代の終わりごろから関わったのがロック系のミュージシャンだった。こちらはジャズもどきから現れたプレイヤーであり、それまでとは異なるステージを経験することになった。だいたい客が熱狂的というか、楽しもうとする気概が異次元で圧倒された。それはそれで面白かった。京都大学西部講堂でのロックフェスに至っては大袈裟でもなんでもなく阿鼻叫喚ってな調子だった。 



 そのうち、バンドのメンバーにも目を向ける女の子たちが現れた。「キャアー」などと言われても、そのような事態に慣れていないプレイヤーにとってはドギマギするだけのもので、ステージから逃げるように降りた。彼女たちにしてみればステージ上でパフォーマンスする人たちを応援したいだけのことだっただろうが、こちらもウブな青年だったわけでどう対処すればいいのか分からなかったわけだ。ある日、いつものようにサッサとステージから消えようとしたとき名を呼ばれた。「えっ」ってなものだった。逃げるように袖に消えようとすると「こっちぐらい向いてよ」といくぶん怒ったような声を浴びせられた。ドラムのゴローちゃんに「あんなー、ステージからな、ピースサインでもして笑ってやればええねん。いちころやで、ほんま。」などと穏やかでないことをアドバイスされた。やっていくうちに少しずつ状況に慣れてきたものの、ロック系のステージは2年ほどで終止符を打ち、スタジオミュージシャンとしての活動までしばらく無聊を託つ生活になった。
 スタジオミュージシャンとしての活動の初期に経験したのが「ゴダイゴ」のステージだった。「ガンダーラ」のヒットで彼らの客層は恐ろしく変わったとも聞いていた。元々はロックのバンドだったものが、まるでアイドルバンドのように子供たちが聞きにきた。売れていた彼らは5人編成のホーンセクションを雇った。それで、バンドメンバー紹介のコーナーがあって、ホーンも一人ずつ前に出て短いソロを披露する段取りになっていた。自分の番が来て前に出ると「キャー」と嬌声があがった。ま、以前の経験で慣れていたからさりげなくやり過ごしたが、嬌声とは無縁だったプレイヤーには思いきり不評を買った。ま、遠目には腹の出たオヤジよりイケメンであったことは間違いなかった。
 ある歌手のツアーは全国を回った。地方都市での公演終了後、タクシーに乗り込むために楽屋口から出ると凄いことになっていた。出待ちのファンがそこらを塞ぐようにひしめき合っていた。これは当該歌手にとってはありがたいことだった。しかし、僕らが出ただけで大歓声が起きた。もう誰でも良く、とにかく今日のステージのメンバーが現れただけで嬉しいといった風だった。すると後方にいた事務所の社長が「勘違いしてる」といまいましそうに言うのが聞こえた。もちろん、僕らに向けての発言ではなかったけど、そりゃ、ま、ぼくらはバックバンドに過ぎない。勘違いでもなんでもいいじゃん、楽しそうだから、ってなことだったが、もちろん口には出さなかった。出待ちのファンが押し寄せたことなどそれまでになかった歌手は「並ばせて、並ばせて」といくぶん高揚して事務所の人間に指図していて微笑ましいものだった。勘違いとは言うけれど、ファンというものはその勘違いで成り立っているのではないかと思えたりするわけだ。自分なりの解釈で支持し楽しもうとしているだけのことで、それ以上でも以下でもない。その社長の何気ない一言は、このような仕事から引く時期が来たことを予感させるものだった。

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リスタートの日々


 都議会議員の選挙は人気そのままに小池サイドの圧勝で終わった。自民大敗の原因は国政の場での失言や疑惑にもあると言われているが、影響はあるにしても全てではないような気もする。だいたい、都議会主流は今まで好き放題にやってきたような話を散々聞かされてきたし、ドンとかいう人物が頻繁に取り沙汰されるに及んで、そのような話がさもありなんと信憑性が増すといった案配だった。都知事の初登庁の際は会うのを拒否して隠れ、握手でさえ渋々というような議員までいた。あの拒否反応が自分に返ってきたのだとも思えるわけだ。嫌な対応をした老議員は落選した。思いきり痛烈なしっぺ返しを受けることになった。ま、大掃除はできたらしい。しかし、小池さんの立ち上げた組織が圧勝したものの、実際、当選した人となりなど知るわけもなく、これは小池さんに投じた一票であることは間違いない。で、何年か先の選挙ではまた自民大勝なんて事態になる可能性はあるし、そのように投票する側というものは無責任に揺れ動くものなのだ。

 

  近ごろ、楽器の練習で最初の一時間ほどがもどかしい。なんだかずいぶん下手になったような気がして焦る。リードが馴染むまで音が安定しないのはいつものことだが、フィンガリングもぎごちなく感じられ、さらにビートの乗り方も良くない。こんなはずでは、という感覚だ。ようするにウォーミングアップの時間が長くなってしまったらしい。暖機運転が必要になってきたわけだ。少し情けない。以前、亡くなったギターの松原氏と演奏についての話をした時に、彼がこんなことを言った。「いやあ、その日は案外うまくいったんでさ、明日はもっといい感じになるかと期待するんだよね。で、ね、次の日ね、ギター持つとさ、昨日の続きじゃないんだよね。またさ、トラックでいうとスタート地点に戻ってしまっているわけよ。ええーっってなるわけよ。また昨日の場所まで自力で行かなきゃいけないんだよね。下手すっとさ、ロッカールームに戻ってたりしてさ。」

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お決まり


 ま、相変わらず日がな一日キーボードに向かっているわけだが、ここに来てまずい展開に気が付いた。昼夜逆転だ。聞くところによると、よると、夜と昼がひっくり返ってしまうのは体に良くないらしい。免疫力低下だとかいろんなことが書かれていたりする。若いうちは無理も利くだろうが。お年寄はやめましょうねってな話だ。



 昔からの習慣で深夜の方が集中力が高まるような気がしていた。少しは心がけていても、寝ようかなってな時間にふと浮かんだりすることもあって、ついつい遅くなってしまう。ここのところ3時を過ぎることが増えた。しかしながら老人性早起き的起床は守られている、というか勝手に目が覚める。で、疲れが徐々にたまる。よくない。非常によくない。
 武満徹さんは、午前中大きな湯飲みにお茶を入れて仕事場に向かい、昼食以外は出てこずに夕刻まで作曲を続けられたらしい。小澤征爾さんは毎朝4時ごろからスコアの勉強をされていたというし、漫画家の植田まさしさんは朝10時から机に向かうことを長年続けているという。それぞれのルーティーンというものらしい。
 といっても、武満さんの場合、若いころは夜型だったはずだ。創作活動の手伝いをされた若い作曲家の証言を読んだことがある。深夜、武満さんはピアノに向かって何度も和音を弾き、「これ」と指示があったものを書き取る作業だったらしい。和音を弾いては天井を見上げ、大きな間が空いてまた次の和音を弾くという作業に付き合ったそうだ。書き取る作業を自分でやれば、そこで何らかの中断状態になるわけで、ま、集中力を持続させるためには効率のいい展開だったと思われる。その光景を想像するだけで、いくらかの緊張感とおかしさに笑えるわけだ。
 夜型も何も、夏目漱石の場合は、部屋に閉じこもるとご不浄でさえ部屋から出てくることなくオマルで済ませたというから尋常ではない。その話は漱石の奥様と付き合いのあった祖母を持つ方から聞いた話だから嘘ではない。それが漱石のルーティーンだったに違いなく、ま、そのようなクレイジーな人たちに比べれば、昼夜逆転など騒ぐほどのものでもなく、ただ早く寝りゃあいいだけのことで他愛ない。

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