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有馬記念


 10年ほどを過ごした佐賀の町にも競馬場があった。ずいぶん離れたところだったはずだが、開催日には風の向きによって高らかなファンファーレが聞こえた。馬ということで、曲は「軽騎兵」だった。ドー、ソッドドド、ミッドミドーが聞こえるわけだ。何度も聞こえるわけでなく、一度だけだったから、あれは開始の合図だったに違いない。馬がドドドドドドッと走り抜けるだけで面白いものではなくすぐ飽きたが、町内の遊び仲間と連れ立って遊びに行ったこともある。高校時代のクラスメートはその競馬場近くに住んでいて、よく見に行ったそうだが、大穴を当てた老人と関係者のやり取りを話してくれたことがある。その老人の目の前には大金が積まれていたそうだが、係員が「もういいでしょう」と止めるのも聞かず「「田んぼも畑も手放した。これから取り戻す」」と怒鳴っていたらしい。2、300万じゃ足りないというわけだ。



 ギャンブルというものは損をするようにできている。たまに勝つことはあってもトータルで考えればほとんどの人が黙ってしまうに違いない。ギャンブルはやらないから醍醐味などは分からないが、パチンコだってはまれば相当つぎ込むことになるらしいことは知っている。今日は有馬記念だった。有馬記念の中山競馬場には一度だけ行ったことがある。今日のようにイブの日ではなく、たしか27とか28とかだった。せっかく来たんだからと馬券もみみっちく買ったりしたが、何の知識もなく、パドックで馬を見た方がいいと言われてもどの馬も同じに見え、当たるわけもない。何の目的で行ったかといえば、植木等さんの仕事だった。スーダラ節の「馬で金もうけしたやつぁないよ」の歌詞がピッタリだってんでの登場だった。もちろんレースが行なわれているときにやるのではなく、すべて終了後だ。競馬場から最寄りの駅までは、ほとんどの人がスッテンテンになることから「おけら街道」と言うんだと教えてくれたのはトランペットの白山氏だった。終わるとみんなが一斉に駅を目指すものだから相当混みあうことになる。それで、混雑緩和の目的で観客を足止めさせるためのコンサートだった。ステージなど作ってしまったらバレバレになってしまうので、大きなトレーラーの荷台がステージに改造されていた。10分前に僕らはその中に入り、開始を待った。外はそろそろ暗くなりかけている。サプライズをやる側は案外ワクワクとしてその時を待つものなのだ。多くの人たちが通り過ぎようとした瞬間、突如、荷台の箱の壁が倒れ、煌々と照らされたステージでスーダラ節が始まるってな案配だった。みんなビックリしてステージの前に集まり、30分ほどのステージがかなり盛り上がったのは言うまでもない。

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1970年


 歳のせいか、近ごろやたら昔のこと、上京した頃などを思い出す。たいした金も持たず無鉄砲に上京して、先に東京住まいを始めていた友人の部屋に転がり込んだ。一人は画学を目指して浪人中だったし、もう一人は親の仕送りで音楽への道を模索中だった。二人の部屋を行ったり来たりして、都合一ヶ月ほどはお世話になった。居候はする側だってそれなりに気を使うし大変なんだけど、される側はもっと苛立たしかったに違いない。仕事の目処は立っていなかったが、居候も限界かというあたりで部屋探しを始めた。新宿を基点にして考え、とりあえず中央線沿線と決めた。最初に降り立った駅が東中野だった。土手の上に人がすれ違えるほどの道が出来ていて、駅から山手通りへ続いていた。そのあぜ道のような細い通路に沿って何軒もの不動産屋があった。最初に入った一軒にそのオヤジはいた。オヤジの早口に乗せられ、気が付くと彼の後に付き、恐ろしく速足で現地に向かっていた。その周辺はいまでも面影を残している。たぶん赤い矢印がその建物のような気もする。一階は飲み屋で、横手から入る二階に3部屋があった。トイレ、流し場共同でガスはなかった。安かったのは間違いない。

 

 最初に降りた駅の最初に入った不動産屋で住み処が簡単に決まった。実のところ、居候をやめるためにどこでもいいや的な考えだった。ガスがないことは不便だったが、住めば都であって、ここに3年以上はいたはずだ。調理、といってもインスタントラーメンを作るぐらいのものだったが、それには電熱器を使った。荷物もたいしたものはないし、即入居することにした。しかし、当日は電気が間に合わなくて明日になるとのことだった。しかたなく、荷物を部屋に入れて、土曜日でもあったし映画館のオールナイト興行で一夜を明かすことにした。映画館に入るまでにはかなり時間があって、石丸電気とかいった類いの店に入って、あれこれと見ている内に炬燵を衝動買いした。既に12月中旬、電気さえ通じれば炬燵で寝るのも悪くないなどと考えていたわけだ。大きな荷物になったが構わず、それを持ったまま歌舞伎町の「プラザ」に入った。何の映画だったかはまったく覚えていない。炬燵を抱えて東中野駅から15分ほど歩いて部屋に戻った。その時電気が通じていたかどうかは覚えていない。しかしながら良く覚えているのは、炬燵布団は買っていたが、天板を買い忘れていたことだった。炬燵本体は軽いが、天板はかなり重い。一緒に買っていたら歩き回ることなど出来なかったに違いない。天板には回避策があった。借りた部屋の押し入れは2段になっていて、一段ずつに襖があった。一つがほぼ正方形で、これが買ってきた炬燵にぴったりと嵌まった。「やった」ってなものだった。襖天板は一冬使うことになった。若い内の苦労は買ってでもしろ、などという。それは嘘だ。苦労などしない方がいいに決まっている。しかし、若いときは少々の困難を苦労と認識しない強さがあった。それを強さといっていいのかどうかはさて置き、生きることに費やすエネルギー量が有り余っていた。何とかなると思う楽観的な部分がはるかに勝っていて、悲観的な考えを一切寄せ付けなかった。
 だいたい当てもないのに上京することからして異常であって、あれをもう一度できるかと言われれば「と、とんでもない」と答えるしかない。

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準備


 1月に入ってからのリハーサル日も決まり、明日ベーシストに譜面資料を送付して準備はすべて終了の運びとなった。メンバーが6人もいると、ライブ期日だけでなくリハーサル日を決めるのもハラハラドキドキすることになる。今回は1日だけ都合の付く日があってめでたしめでたし。



 前回のライブで散々な目にあったし、同じ轍を踏まないためにもあえて新曲を増やすことを断念した。前回はほとんど新曲だけで通すという無茶ぶりでコケた。最初の一音が出たときに「えっ、これは何」的に狼狽した。早々と譜面などは送りリハーサルも5時間の長丁場だったが、ベースは弾けていないし、ピアノだって素人のようだった。当方の思い入れが強過ぎてプレイヤーを追い詰めていたらしい。それで、今回は楽にできるであろう曲をいくつか用意した。若いプレイヤーが主体だから何とかなるさ的に楽観しているわけだ。と言っても何が起きるかは分からないのがライブ。最悪の場合自分一人でも成立させる覚悟が必要で、そういった意味では前回の修羅場はいい経験だったと思うことにしている。そう言いつつも新しいアイデアが浮かんだりする。いけねえ、その前に次のメニューをちゃんとやらなくちゃと自戒したりする今日この頃なのだ。

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バリトン・サックス


 その日、よほど腹立たしかったらしく、言葉つきも尋常ではなく「さっ、早く運んでっ」と怒鳴るような大声だった。呆気にとられてバリトンサックスのケースをタクシーまで運び車内に押し込んだ。 次いで車に乗り込むと言葉もなく、怒った顔はそのままに立ち去った。あわてていたものだから、マウスピースとリードなどを別けているときに小さな部品を一つ落としていたことに気付き、後を追うように電車で原宿の自宅まで届けたが出てくることはなく、代わりに応対された奥様が「どうもすみませんねえ」と本当に申しわけなさそうに仰った。長年続いた下瀬さんとの付き合いは、そこで終わった。
 事の発端は、新宿ピットインで若手奏者だけのオーケストラが結成され、バリトンサックスに欠員があったことによる。そこらのビッグバンドから連れて来ることも可能だったが、あくまでもピットインで活動していることが条件だったため、それもできなかった。当時はテナーも吹いたが、アルトサックスがメインであり、バリトンサックスなど吹いたこともなかった。しかし、借りる手立てはないのかと訊かれ、ダメ元でバリトン奏者だった下瀬さんに頼んでみた。余っている方を貸してあげると簡単に承諾して頂き、ものは試しとオーケストラに参加することになった。こちらとしても簡単にものにできる楽器ではないと考えていたし、とりあえず一度やってみようというような感覚だった。貸す方にしたって「そんな無茶な、どうせダメでしたで終わるに違いない」と思っていたわけだ。マウスピースまで借りるわけにもいかず、無鉄砲にも楽器屋にただ一個だけあったラーセンのメタルマウスピースを買って本番に臨むという体たらくだった。深夜のピットインにみんなが集まるリハーサルに参加して、すぐ本番の日を迎えた。思ったよりストレスもなくステージは終了し、思い掛けなく一夜にしてバリトンサックス奏者になってしまった。いつまでも借りているわけにもいかず、一ヶ月ほど後の2回目のライブ前には、バリトンサックスを入手することに決めていた。その頃のピットインミュージックは楽器の輸入代行もやっていて、セルマーのB♭キーが最低音の楽器を注文した。今のバリトンサックスの音域は半音下のAまで出るものが一般的だが、ジェリー・マリガンもペッパー・アダムスも最低音B♭のものを使っていた。Aまでのものより幾分短く、音色にも微妙な差があってより軽快に聞こえた。3ヶ月ほどで手に入るはずだったが、少々特殊なものでもあり、船便で送られてくるものだったから尚更のこと。到着するまでに半年以上待たなければならなかった。借りっぱなしは申しわけなく思いつつも、楽器が手元に来るまでジリジリしながら待った。練習などを特別にするわけでもなく、月に1回ほどのライブで吹くだけだったから、あまり深刻に考えていなかったのだが、下瀬さんにしてみれば冗談ではないと苛立たしい展開だったらしい。楽器がやっと届き、借りていた楽器を調整に出してお返しする予定だったが、それよりも早く憤然と現れて上のような事態になったのだ。

 下瀬さんと初めて会ったのは銀座のクラブの仕事だった。宝崎さんのバンドは3サックスとトランペットに3リズム編成だった。そこにアルトで参加してご一緒することになった。下瀬さんの祖父に当たる方が下瀬火薬の発明者であり、これはロシアとの日本海海戦でバルチック艦隊を粉砕する要因にもなったとされている。出自は財閥の御曹司ということになる。軍楽隊で有名な戸山学校の出身で、團伊玖磨氏などと同期だった話を幾度となく聞いた。戦後、財閥は解体されたが、その時期は相当荒れたらしく、家にあった数台のピアノは全部売っ払って飲み代に使い、山手線の駅のほとんどのホームで寝て一夜を明かしたそうだ。軍楽隊での経験からプレイヤーになったわけだが、とても気難しい面があって同業者との付き合いは限られていた。下品な人は言うに及ばず、基本的に貧乏人の品性を忌み嫌っていた。

 そんな彼の前に突然現れた20も年の離れた若者がお眼鏡にかなったらしく、付き合いが始まった。同じバンドにいる間だけではなく、それぞれに違う仕事場に移ってからも続いた。一時は毎日のように東中野まで電車でやってきて、駅前の風月堂でコーヒーを飲んだ。知的好奇心の旺盛な彼の話の内容は多岐にわたった。財閥のご子息だったことを証明する様々な話は異次元の出来事のようにも思えた。家にお邪魔した際には昭和初期のハワイの海岸の写真などがあった。ヤシの木だけが目立つ海岸はまるで無人島のようで、今のハワイとはまったく違うものだった。多くの使用人に囲まれた生活は想像も出来ないものだった。彼の姉は栄太楼の細田家に嫁いだそうだ。(彼の話では細田家とは言わず、もっぱら栄太楼に嫁いだと言った) 挨拶に来た婿に対し、彼の母親は花を生けながら一瞥をくれ「あなたが飴屋さんですか」と一言だけ仰ったらしい。宮家との付き合いもあったという話などを聞けば、こちらの許容量を超えた話に目を剥くばかりだった。なにしろ話に登場する人物が、財界や政界の活字でしか知らない方たちばかりだった。そのような面白い話も山ほどあったが、だいたいは周りに起きる出来事に関する愚痴話に落ち着いた。こちらはもっぱら聞き役で、次から次へと続く様々な愚痴話に相づちを打っていた。あまりの頻繁さに音を上げ、電話では居留守も使うこともあったほどだった。彼は財閥が解体して没落したことを受け入れていなかったのかもしれない。バンドマンに身をやつしている自分を許せていないようにも見えた。愚痴を聞いていると、周りにいる人がみんな嫌いなのではないかと思えた。黛敏郎さんだけは違ったようだけど。
 しかし、そこはバンドマンだ。時々こちらが目を剥くような荒技を披露することあった。昔の駅の改札は今のような自動改札ではなく、駅員が切符を切り定期券も視認するものだった。彼は職場までの国電、いわゆるJRの定期券を持っていたが、その定期券で地下鉄にも乗った。改札を抜けるときポケットから素早い動きでチラッと見せるだけだった。駅員は「えっ」というような顔はしたが、止められることはなかった。背も高かったし、体から発するオーラには咎め立てを憚られるような威厳のようなものがあった。それは祖父の肖像写真と似た雰囲気があると言えば少しは納得できるかもしれない。



 喫茶店でも驚くことがあった。運ばれてきた紅茶にダメ出しをし、猛然と店員に食ってかかった。「これは何? えっ、あたしはね紅茶を頼んだんだよ。こんなセンブリみたいなものを飲みたいわけじゃないんだよ。入れ直して来なさい」
 言われたウェイトレスは真っ青になって黙り込んだ。そういう方がいたら拍手ものだったが、さすがに「うちの紅茶はこれです」などと反発する人はいなかった。クリスマスの時期になると、特別料金とかで頼みもしないケーキがセットで無理やり押し付けられることがあった。これは地雷を踏むようなものだった。凄い剣幕で怒り出し、こちらがなだめて事無きを得たことがあった。ケーキに手を付けることはなく、しかしながら怒りの収まらない下瀬さんは帰りに「これをこのままにして置く手はない。こうしてやる」と言ってコーヒーカップの中にケーキをグシャグシャと押し込み席を立った。まるで子供のようだった。「うーん、お坊ちゃまなのかもなあ」と呆れた。



 3、4年は交流があったのだけど、どうして続いたいたのかは今もよく分からない。しかし、バリトン・サックスの件で予期しない展開を迎え、少しホッとしたような、言ってみれば憑き物が落ちたような解放感はあったような気がする。

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ジェイクさん


 スタジオ・ミュージシャンとして活動していた時期、サックス奏者として君臨していたともいえるジェイクさん(ジェイク・コンセプション)の存在は高くそびえ立つ壁のようなものだった。年代的には一回り上の世代で、僕がこの業界に足を踏み入れた頃には押しも押されもせぬ第一人者として誰もが認める存在だった。抜群のセンスで多くの楽曲の間奏のソロを録音された。
 スタジオ・ミュージシャンとして仕事は、CMの録音から始まった。新人はそこで力を試されるような風潮があった。そこから劇伴に移り、その後歌手のレコーディングなどにつながるというのがだいたいの流れだった。もっとも、僕の場合は20代の終わり頃から幾つかの歌手の間奏ソロで仕事はしていたのだが、生意気盛りでもあったし、業界のしきたりを無視するような言動もあって馴染めぬままに退いていた。数年後にホーンスペクトラムのレコーディングに参加するようになって、やっとスタジオ・ミュージシャンとして正しく歩き始めたといえる。
 もちろんジェイクさんをライバルだなどと思っていたわけでもないが、同じサック奏者として覇を競う立場であったことは間違いなかった。当時のジェイクさんはトランペットの数原さん、トロンボーンの新井さん(チャンピオンと呼ばれていた)と組んで鉄壁のホーンセクションとして知られていた。そのセクションにテナー奏者として参加した日のことを覚えている。曲は途中からアッチェレランドして行く箇所もあり、合わせるのが困難を極めた。しかもニュアンスが微妙で一度やっただけでは把握しきれなかった。そこで、恐る恐るジェイクさんに訊いた。「ここはどうやって?」するとジェイクさんは数原さんの方を指し、彼に合わせろというようなことだった。ようするに聞いて判断しろってわけだ。「げっ、厳しいな」と思ったことは言うまでもない。そのセクションでの仕事はいくつか続いた。ある日はセクションが終わった後、コンソールルームから「テナーだけ残って下さい。ソロがあります」と指示があった。ジェイクさんを差し置いてソロだ。たまたまテナーのソロが必要だったわけだが、あまりありがたい展開ではなかった。みんながスタジオから出てしばらくしてソロの録音が始まった。いくつかのテイクを録りプレイバックしているときに気付いた。スタジオの大きな扉の端にジェイクさんの足が見えたのだ。新人とは言え、同じサックス奏者のソロがどんなものか聴いていたに違いなかった。「怖っ」ってなものだった。



 写真はネット上から拝借したものだが、このように穏やかな表情を見た記憶はない。恐ろしいほどの厳しさを放ちながらサックスを手にしている姿しか思い浮かばないのだ。やがてジェイクさんとの仕事をする機会はほとんどなくなり、別のエリアで活動を続けることになっていった。取り入って仲間にして頂くというようなことは考えもしなかったし、たまにスタジオですれ違うことがあっても挨拶程度だった。ずいぶん後になって、久し振りにジェイクさんのサックスセクションで吹く機会があった。その時、ジェイクさんは「俺のセクションを手伝わないか」と声をかけてくれ、即座に快諾したのだが、結局は一緒に演奏する機会は訪れず、そのままになってしまった。最後にお会いしたのがいつだったかは覚えていない。たしかビクターのスタジオでソロ入れに来ていらしたはずだ。隣のスタジオで仕事をしていたが、仕事が終わってスタジオを出ると、すでにお帰りになった後だった。少しは認めてくれていたらしく「あいつは自分の音を持っているし、それが大事なんだ」というような言葉を人伝てに聞いた。

 彼は1959年23才の時にフィリピンから来日して活動を始められたそうだが、その若い時期を知る方から話を伺ったことがあった。後にビクターのインペクとして仕事をされたトロンボーン奏者の野々村直造さんは、オーケストラの一員としてご一緒されていた時期、あまりにも生意気な若造だったので呼び出して殴ったそうだ。「決闘を申し込んだんだよ」ということだったが、野々村さんは、確か武道の達人でもあって敵うわけもない。それで、その当時のジェイクさんの腕前を訊くと「ああ、それは抜群でさ」ということだった。

 直接の指導を受けたわけでもないが、仕事の現場で学んだという意味では、師匠だと認識していた。そのジェイクさんが先週亡くなったとの知らせを受けた。詳細は不明だが81才だった。
 大きな一つの時代が幕を下ろしたと痛感する。

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