☆☆☆

ハンカチ


 デパートでもどこでも、近ごろの公衆トイレには洗った手を入れれば温風が吹き出す乾燥機が置かれていることが多い。手を拭くものをお持ちでない方も用を足した後は手を洗いましょう、ってな無言の指導とも思える。



 しかしながら、実際にこのようなものが頻繁に活用されているかといえばそうでもない。それは銘々がハンカチを取り出して拭くからではなく、だいたい8割ぐらいの人が手を洗わずに出て行くのだ。中には指先だけをチョッチョッと濡らし、手を振りつつ水滴を落としながら出て行く人もいるが、彼の中では義理を果たしたような気分らしい。手を洗う行為そのものが法に定められているわけもなく、それは自由なんだけど、ウヤムヤな日常の行動の一コマであることは間違いない。時々、そのような人たちを追っかけて「きみさ、手を洗わないで出て来たでしょう。きったねえなあ」などと咎め立てしたとしたらどんな反応を示すのだろうと思う。やらないけど。
 それは、まあ、もちろん、自分が若いころにハンカチなるものを常備していたかと思い起こせば、どうだったかなあと曖昧な返事になるのは確かだが。

 ハンカチがいつもポケットに入っているようになった切っ掛けがある。30代半ば頃からやたらツアーの仕事が増えた。地方都市に出かけて演奏するだけのことで、どこに行ったとしても記憶に残るのは空港、駅、会館とホテルの毎日でしかなかった。観光に行くわけでもないから、街の様子などは公演終了後に繰り出す夜の一部分しか知らないし、名所旧跡などはほとんど知らないといってもいい。その繰り返しで次第に煮詰まってくる。どの会館のステージも上がってしまえば同じだし、暗い客席に向かって演奏していることに違いはない。そんなある日、公演前に街に出る機会があって、持ってくるのを忘れていたハンカチをついでに買ってきたことがあった。新しいハンカチをポケットに忍ばせるだけのことなんだが、これが非常に新鮮で案配いいことに気付いたのだ。それ以来、新しいハンカチは欠かせないものになった。毎日、新しいハンカチをポケットに入れてステージに上がった。ツアーが30本あれば30枚のハンカチを用意するだけで、気分を変えてステージに上がれるようになった。ステージの数だけ増え続け、夥しい数のハンカチの所有者となった。気分を変えるだけのもので、決して奇麗好きとかいうものでもなかったが、そのようなことで煮詰まり気味の気分を一新したりしていた。

拍手[0回]

気が早い算段



 気が付くと12月ってな案配で一年の速いこと速いこと、一日の長さは同じはずなのに年毎にスピードアップしているような思える。何もしなかったわけでもなく、一挙に新曲を10曲近くこさえる荒技もやってみたりした。力が入り過ぎ、見事にコケたりして、そのダメージの回復に思ったより時間がかかったが、なんと復活の目処だけは立てた。その目処にしても一時は白紙撤回しようと考えたりした。横浜方面は相性が悪いらしく集客に苦労することが多いものだから、少し弱気になったりしたわけだ。ピアノの大石氏は「そろそろ、どう?」と声をかけてくれたりしたが、もう一度違うメンバーでの音出しにチャレンジすることにした。決してマゾなどというおぞましいものではないが、自分を窮地に追い込んでハラハラするのが好きな性分らしい。以前もうまく行くかどうかは五分五分の無謀なデュオを頭に持ってきたりした。リスキーなことから始めることによって、いやが上にも集中力を高めるってな算段で、危ない賭けのようなものだった。もっとも痺れたのは歌とデュオでバッハをやった時。二声で織りなす優美な世界のつもりだったが、演奏側も聴く側も緊張していたらしく、終わると客席からホーッと安堵のため息が漏れた。
 一月のライブはいくぶんシンプルな曲を増やしてメンバーがノビノビと演奏できるように計らい、4月に大石氏とのクァルテットにつなぐことを予定している。また好き放題に曲が作れるわけだ。

拍手[0回]

顛末


 先日のライブのドタバタ振り、ほとぼりも幾分冷めたところで何が起こったかを検証というか、少々愚痴めいた話でもあるが、もやもやと気の晴れない事態だったがゆえに書き記すことにした。
 まず、リハーサルの時点で、ベーシストは譜面をそれまで検討していなかったようで、初見に近かったのではないかと思われた。油断があったのかもしれない。少し蒼ざめた様子にも見えていたから気にはなっていたのだが、全体をリハーサルしなければいけない状況では個々に構っている暇はない。で、本番の2日前に電話があり、そこで初めてデモテープを聞いた事が分かった。たぶん、その状態では相当な重荷を感じていたかと思われる。  そこに至るまでに、いくつかの手は打っていた。初めての顔合わせというものには思わぬリスクが付きまとう。それで、リハーサルを1週間を置いて2回に別けて行なう段取りにした。最初のリハーサルで判断しようとする狙いがあった。バンドの音は一音聞けばすべてが分かるから、そこでダメならすべてを白紙に戻し、気心の知れた面子で切り抜ける策だった。しかし、これはベーシストの意向で拒否され、退路を断つことになった。リハーサルの時点でいくつかの危惧はあったが、退路を断ってしまった以上後には引けなかった。で、2日前の電話では「なんとか善処する」という確約もあって、任せるしかないと判断した。
 さて、当日。初っぱなの曲から弾けていなかった。いったい何が起こったのかと耳を疑うようなぎごちないサウンドが聞こえた。先導したドラムも困惑の表情だった。これはラインが落ち着くまで放置するしかなかった。しかし、キーボード奏者は対処できず、自分のパートを弾き始めた。サウンドはガタガタになり、何も改善されぬままに過ぎ、2曲目も同様に続いた。もはや素人バンドと言えた。で、エキストラで用意していた簡単な曲で安定を図ることにした。ま、安定はしなかった。キーボード奏者は焦りからか怒りからか無闇矢鱈と弾き続け、無神経なバッキングに終始するような案配だった。手は尽くしてみたが、吹き辛いというより、ほとんど障害物競走のような状況で1セットを終えた。ま、20代のピットイン時代からライブステージは数多く経験しているが、ワーストと断言できる代物だった。で、まさか一人に向かっていうのも憚られ、みんなに向けて注意を促した。すると、キーボード奏者が「こんな譜面では出来ねえ」とキレたのだ。こちらとしては、おまえがキレてんじゃねよ、ってな話だったが、営業中の店の中で大声でキレる神経は只事ではなく、話し合いですむようなレベルではなかった。で、少し落ち着いたところでキーボード奏者に帰る選択肢を与えた。こちらとしては2人の面倒なサウンドを我慢するのには限界があったし、コードレスにする方が楽だと判断した。結果的にはキレてくれてありがとうってな展開だったわけだ。ライブは、常にこれが最後かもしれないと思って臨んでいるわけだが、あの1回目のステージが最後では悲し過ぎる。で、より良い結果を求めての判断だった。
 ベーシストはいないものと考えて演奏するのは辛いものもあったが、少なくともステージ上には平和が訪れた。2部はすべての曲でドラム、ボイスパーカッションとトリオで演奏しているようなものだった。ま、安易な人選が災いしたわけだが、この歳になって、あの試練は何だったのかと考えてしまう。ベーシストは「オレは歳だから」と何度も言う。しかし、私より五つも若いのだ。何を言ってやがるってなものだ。

 そこで、自分の弱さというか甘さも痛感することになった。実際、演奏活動を続けるにあたって、バンドのメンバーなど誰でもいいという考えもあった。自分さえしっかりしていれば何とかなるというように楽観的な見通しだった。それは間違っていないと考えるが、不測の事態も許容量を超えてしまうと対処できないことを知った。人選の際に認知症の危険も考慮しなければいけないってのもありがたくない。
 で、出来事を天啓のようなものだと感じた。何か最後に考えを改めるところがあるらしいと気付いたわけだ。いま、この時点で活動を続けるだけのためならば、依頼できる演奏家は何人もいるが、それでは以前の繰り返しになってしまう。もっと新しくディープな地点に辿り着きたいと考えているわけだが、それは夢物語かも知れず、もちろん再開の目処も立てていない。

拍手[0回]

図らずも


 久々のライブはとんでもないドタバタで始まった。たしか、3日ほど前に5時間ほどリハーサルをしたはずだが、それが無かったかのごとく、ぎごちないサウンドで始まってしまった。そういう場合、サウンドに関わる部分で単音楽器は無力に近い。こりゃ,大変なことになった、ってな感じで2曲目までが過ぎた。コードが違うところに飛ぶ現象も頻発して為す術もなし。で、急遽曲を入れ替えることになった。入れ替えるだけでなく、ボイスパーカッションのフリーなソロに持ち込み、そこにサックスだけが絡んでなんとか体裁を取り繕うという手段で乗り切ろうとした。その部分がキーボード奏者には気に入らなかったらしく、何をやっているのか分からないなどと言う。他の楽器を参加させない強行手段だったわけで、その部分はフリーなスペースだ。で、リハーサルのことなど忘れたなどと言い出すに及んで、お帰り願うことにした。
 で、2部はコードレスの編成でやることになった。少々根性が必要だったが、これは自由で楽しく吹けた。結果的には人選ミスであって、誰が悪いという問題でもないが、少々甘く見ていたのではないかという疑念は残った。というか結局は付いてこれなかっただけのような気もしているわけだ。1部に関して言えば、今まで経験したことのない残念なライブ・ステージだった。

拍手[0回]

無頼その後


 ひと昔前の扇風機はこのようなごつい感じだった。近ごろは羽のないヤツがのさばっているが、どうしても扇風機と認識できない。

 

 前回、前々回と、これまでのプレイヤー活動に触れてきたわけだが、ちゃらんぽらんな部分も含みつつ、ま、それなりに面白い体験をしてきたような気がしている。もちろん、まだ終わりではないけど。で、このようなキャリアは説明しにくいから、例えば郷里に帰ったときなど、活動状況について一切話したことはない。母は吹奏楽部に入ると言ったときに、「バンドマンになってしまうから止めなさい」と猛烈に反対した。なにやら感じていたらしい。ま、心配した通りにその道に進んだのだから図星だったことになる。世代にもよるだろうが「バンドマン」という言葉に不穏な空気を察する人は多い。役者が河原乞食と言われるのと似て、ヤクザものといったようなニュアンスで捉えられてしまう。博打に酒に女ってな案配だ。身を持ち崩す代表的な職業と捉えられていた節がある。今はバンドマンなどという言葉は死語に近く、ミュージシャンとか、歌手に至ってはアーティストなどと呼んだりする。芸術家ってわけだ。  郷里に帰ると、菓子製造業を営む伯父は「紅白は出ないのか」と何度も聞いた。その都度、「いや、それは歩いている道が違うから」と苦笑いでごまかしたが、伯父にとっては紅白こそが花道だったらしい。ま、ジャズにのめり込んでいるなどと言っても理解してもらえるわけもなく、違う次元で自分が生きていることを再認識するだけだった。  長い間、郷里に帰っても同窓生などに会うこともなかったが、50才の頃初めて同窓会に参加して、少しずつ交流が始まった。それはある部分諸刃の剣のようなものだった。むかし通りの付き合いも出来たが、こちらを値踏みする手合も現れた。いったい何をやってるんだ,ってな調子だったが説明し辛く、適当に答えると「たいしたことないな」ってな反応が返ってきて、その度に辟易することになった。そういった部分は不躾で辛辣だった。一時交流が再開していた音楽教師などは、ついにはこちらの音楽的な部分にも口を挟むようになった。こちらはプロなんだが、いわゆる前述の危ないバンドマンという括りで見ていたらしい。それは例えば教え子が政治家になっていたとして、その政策に口を出すかというようなことなんだが、分かってもらえなかった。ライブハウスは貧乏臭いからもっとちゃんとしたところでやれってなことを平気で言う手合もいて笑えなかった。数年前、椎名さんとの仕事をした途端、評価が変わったこともあった。それは、誰々の仕事をしているから凄いってな話で、分からないでもなかったが、こちらとしては「あいつは自分の音楽を今でも追い求めている」ってな理解を求めていたわけだから少し情けなくなった。ま、こちらが浮世離れしているだけの話かもしれない。

拍手[0回]

カレンダー

04 2018/05 06
S M T W T F S
4 5
10
13 15 17 18
21 25 26
27 28 29 30 31

アーカイブ

最新コメント