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ピアノのお稽古


 高校生になってからピアノを習い始めた。遅過ぎるスタートだとは分かっていたが、もしや音大などを目指すとするとピアノは必須だったから、取りあえずどのようなものか体験してみよう程度のものだった。近所のピアノ教師に習うことになったが、でかいなりしてバイエルだ。来ているのは子供ばかりで、バイエルなどはとっくに終わりソナチネや小癪な子に至ってはソナタなどを弾いてやがった。そんな状況で身を縮めつつバイエルを弾くのは恥ずかしいものもあったが、譜面はある程度読めるわけだから一ヶ月ほどで終了してピアノを弾く仕組みなどは理解できた。
 途中休みを入れつつ一年ほどは通っただろうか。ソナチネを2曲ほどやった辺りで、こちとらピアニストを目指すわけでもないしってんで行かなくなった。しかし、当時ピアノ譜だけは大量に仕入れて、記憶にあるサウンドの端々をためつすがめつ弾いてはヘーッと感心したりしていた。その後、他の女性のピアノ教師に就いたこともあったが、打鍵の指の形などに殊更こだわるありがちな先生だったから這う這うの体で逃げ出した。



 ピアノを上手に弾くためでなく、サウンドを知りたいだけだったが、そんな向きあい方が許されるものでもなかったわけだ。ピアノが買えるほど裕福ではなかったから、運指の練習のためだけにオルガンを買ってもらった。オルガンはブラスのサウンドをシミュレートするにはうってつけの音色だったから、それを使ってファンファーレなどを作って遊んだ。20代は昔懐かしエレピアンというものを入手して作曲の真似事を始めたが、本格的にピアノサウンドを勉強するようになったのはシンセサイザーが入手しやすくなった40代に入るころだった。John Novello著の「コンテンポラリー・キーボーディスト」はバイブルのようなものになった。一年ほどは時間のある限り毎日のように鍵盤に向かい、あらゆるコードサウンドを全てのキーで弾けるように鍛練を続けた。分かりやすい解説に助けられ日々の進歩が実感できるほどだった。その恩義に報いるというような意味で「Novello」という曲を作って録音した。そこに至る前、ピアノのサウンドを学ぶには遅過ぎるという不安も抱えていたが、ジャズピアノの名手だった湊さんのアドバイスが背中を押してくれた。「おまえさ、大丈夫だって。そりゃあ、さ、俺たちみたいに弾けるというのは無理にしてもさ、サウンドを勉強するんだったら遅いってことはないって。だってさ、おまえさ、今までいろんなもの聴いてきただろ?具体的に何の音が鳴っているとかじゃなくてさ、体が知ってるんだって、ほんとだよ。そのうちな、ああ、なんだ、こんなことかって思う日が来るって」あれは、まさに神の言葉だった。
 サウンドを勉強しているころ、ある高名な編曲家が「サウンドを勉強するんだったら、コピー3000曲。それしかない」と言ったと人伝てに聞いた。そうか、ってなものだった。その日から手当たり次第に聴いたものを採譜してスコアに起こす作業を始めた。聴こえるものは全て採譜した。ピアノはもちろんのこと、ベース、ギターサウンド、コーラス、ブラス、なんでもスコアに記した。いくつかのアルバムは全曲採譜した。3000曲には至らなかったが、ピアノサウンドの勉強と採譜の相乗効果でやたら面白くなり、サウンドが具体的な形として見え始めた。当時はスタジオでの録音の仕事がほぼ毎日あった。少し早めにスタジオに入りピアノを弾いた。昨日勉強したことを弾くのは痛快だった。なにしろ録音スタジオのピアノは一級品で、某NHKのスタジオなどはコンサートグランドが各スタジオに常備されている。贅沢な時間だった。本格的な曲作りは40才を過ぎてから始まった。
 ピアノそのものを練習することはないに等しかったが、何年か前にクラウディオ・アラウの弾くシューマンの「花の曲」を聴いてピアノ譜を入手。再燃した。シフにしろ、ホロヴィッツにしろ急くようなテンポで弾くが、アラウはゆったりと心地よく、アラウのファンになった。もちろんピアノの練習そのものは手すさび程度で昔と変わらないが、ワクワク感は倍増している。高校時代に買ったバッハの「「小前奏曲とフーガ」は50年を経てやっと日の目を見ている案配なのだ。

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反復



 ドクダミの花はどういうわけか懐かしい。子供のころから度々見かけ、ありふれた花なんだが、おまえここにもいたのか的に何らかのイメージがインプットされているらしい。
 近ごろ、演奏家として結局は何も出来ていなかったような気分に陥ることがある。そもそもジャズへの指向は20代終わりに放棄したようなものだから、ジャズメンとして生きようとしていたわけではなかった。しかしながら即興でラインを紡ぐことに取り憑かれたことだけは確かだから、放棄し切れなかったらしい。若いころジャズから離脱する形になったのは、実力不足もあるが、吹くラインが全て自分のものではなくどこかから借りてきたものばかりのように思え、そんなことを一生続けるのかと不安に駆られたこともある。もっと他にいい表現方法があるのではないかというような、いわば消極的な前進を目論んだわけだ。それはある部分で功を奏し、スタジオの中で8小節ほどの限られたスペースで自由に吹くということに繋がった。
 この歳になって再びジャズのアルバムをよく聴くようになった。コルトレーンがラシッド・アリと残したデュオアルバムやブランフォード・マルサリスの最近のもの、ベン・ウェンデルなどだ。ベン・ウェンデルはベースのリンダ・オーのアルバムで知った。その誰もが同じことの繰り返しではなく、常に新しいことにチャレンジしていることに今さらながらに気付いたのだ。そりゃあ昔から気付いてはいたが、気付きようが異なるというか、まったく実践的な意味で理解したのだ。それは昔のジャッキー・マクリーンのいくつかのアルバムもそうだし、ジョン・ハンディのアルバムだって例外じゃない。彼らの歌の作り方は見事なものなのだ。
 自由であることは時々逆に自由を束縛される。ある曲を題材にラインを紡ごうとすると、どうしてもクリシェから逃れられなくなったりする。ようするに慣用句を羅列しがちになる。それを全部チャラにして新たに吹く。紡ぎ方が見えたと感じる瞬間が訪れる。そうだ、これだと出口が見つかったような気がする。それで再び最初からチャレンジすると、あれってな感じでそれが失われている。その繰り返しで一日が終わる案配。そんなことは分からないという向きには何のこっちゃなんどけど、つまり失われた集中力と戦っているということ。

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貫くこと



 次のライブのスケジュールが決まった。近ごろはチャージバックの店がほとんどで、固定でギャラの発生するサムタイムのような店には出演申し込みが殺到する。それで、ここを根城に長年やってきたバンド以外は、吉祥寺サムタイムのスケジュールを切るのが至難の業になってしまった。もちろん集客の圧倒的なバンドであれば問題ないが、なにしろジャズ系のライブに足を運ぶ方たちというものは限られていて、下手をするとというか下手をしないでもバンドの方が客より人数が多かったりするのだ。それは寄席の落語家などと同じくお勉強だともいえる。あまつさえ若くないプレイヤーには先細りの先が待っていて「もう、いいでしょう」言われているような気にもなろうというもの。ピアノの大石氏は、15年前に一緒に作ったリーダーアルバムを久々に聴いて、「いいアルバム作っていたんだ」と改めて思ったという。そのアルバムを制作した会社もCD制作から手を引き、残っていたものが40枚ほど送られてきた。ま、悲しいことにあまり売れなかった。その現実と向き合いつつ、未だにいい音楽を作る夢を捨ててないところなど、これも一種の惚けなのかと思うこともしばしばなのだ。

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フルート教室


 フルートを習い始めたのは45才を過ぎたころだった。まったくの我流で吹いていたのだけど、劇伴の仕事ではサックスと持ち替えで度々冷や汗の出る思いをした。なにしろ、サックスでロック系のソロを吹いたすぐ後にフルートの静かな曲が来るという案配で、いくらフルートの持ち替えはサックス奏者にとって当たり前だといわれても、我流での演奏では限界だった。唇にサックスのリードの跡が残った状態で吹けるわけもない。



 基本的な奏法が間違っていることは薄々気付いていたが、アドリブ風なソロが期待されることもあって、今さらクラシックの先生に就いてもなあというのが正直なところだった。しかし、今はないが、六本木のソニースタジオでの仕事の際に決定的な事態が起こった。唇に傷がついて調子を崩し、フルートの音が出なくなってしまったのだ。かなり落ち込んだ。「フルートの持ち替え止めます」と宣言できないのが辛いところ。
当時、電車で新宿方面に向かうと大久保駅のホームから見える「木下フルート教室」(現在は「木下ミュージックスクール」というらしい)という看板があった。スタジオミュージシャンのフルート奏者に就いて習うという手もあったが、教える方だって嫌だろうし、こちらだって気疲れしそうだ。それで、まったく未知の世界に飛び込むことにしたのだ。藁にもすがるというような気分もあったが、藁などというのは失礼に当たる教室だった。電話をして訪ねると、扉を開けた先生はギョッというような顔をされた。「いや、若くないとはお聞きしていましたが、予想をはるかに・・・・」ということだった。その方が学長の木下さんだったらしいが、それっきりお会いしていないので定かではない。こう見えてもミュージシャンの端くれでして、これこのような仕事をしております云々と説明したところで、誰に指導させるかを決められたようで、「では、ね、あの、美代子先生に習って下さい」ということになった。美代子先生はシュトゥットガルトに留学されてクルト・レーデルの元で学ばれた方だという。ええーっ、いきなり、こんなものが行っても大丈夫ですか、という心配もあったのだが、ここまで来ると引き下がるわけにはいかない。ま、当たって砕けろ・・・。
 何を用意するのかも分からず、当時練習していたテレマンの無伴奏フルート「12の幻想曲」の譜面を持っていくことにした。しかし、初日はそれどころではなかった。「とにかく音を出して下さい」ということでピーヒャララーと吹くと、目を白黒させて先生絶句。まず、持ち方から訂正され、唇の位置を思いきり変えられる。「えっ、これじゃあ音が出ない」というようなアンブッシャー(唇の形)。息の角度も何もすべて我流の行き着くところはそんなものらしい。赤くなったり蒼ざめたりしている内に一時間半は終了。目からうろこのカルチャーショック。音の出し方が分かると面白くて仕方ない。次の日から朝の起き抜けにすぐフルートを手にするようになった。
 テレマンは一曲だけやって、腕試しのようなラヴェルの「ハバネラ」、次はバッハの曲の緩徐楽章。それがある程度出来るようになると、ある日先生は教室から出てなかなか戻って来ない。戻ってきた先生の手にはピアノ譜。伴奏するから吹けという。それからはヴィバルディ、ヘンデルとバロックものが続き、フルートの奥深さを2年半にわたって体験した。毎週夜2時間ほどの時間を割いていたのだが、無理が利かない時期もあって教室通いを断念することになった。
 あの教室での時間は特別だった。フルートの練習だけでなく、先生との会話は知らない世界のことばかりで、その都度驚いたり感心したりした。旦那様も隣の教室で教えているというフルート夫婦。なにしろ、普段付き合っている連中とは人種が違うような気さえしたのだ。いつも、時間を大幅に超えて教えて頂いた先生が、若くして癌で亡くなられたことを知ったのはずいぶん後のことだ。
 今でも時々思い出すのは葡萄畑の話だ。葡萄畑は遠くから見ると美しいものだが、近くで見る葡萄の葉というものはささくれ立ったギザギザで決して美しくないそうだ。しかし、音もそうだという。そばで聴いて美しく聞こえるものは、案外チマチマした表現になりやすいという。「荒々しいぐらいでいいんです、小さくまとまるような演奏をなさってはいけません。音を客席に放り投げるように飛ばしてあげるんです。」

 教室に通っているころ、いつも上がり口に子供の靴があった。「あっ、小さな子が習いに来ているんだ。どんな演奏するんだろ。」と気になっていた。頻繁に靴は見るのに会うことはなく不思議なことだった。習いに行き始めて3ヶ月ほど経ったとき、それが美代子先生の靴だと分ったのだけど、もちろん先生には言わなかった。

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ボルトカッター


 車に乗るのはいいが、度々駐車場で苦労する。今は事前に駐車場所を確保するようになっていて困ることもないが、昔はテレビ局の駐車場が悩みの種だった。満車で入れられないなどと言われ焦ったことも多い。ロシア大使館横にあるスタジオの駐車場の台数は限られていて、大人数の録音の際は少々覚悟も必要だった。満車だと少し遠い東京タワーの駐車場に入れるように促された。タワーの下を通り抜けて地下駐車場に案内されるわけだが、ここに停めてスタジオまで歩くのが億劫だった。とりあえず楽器だけは降ろして行くにしても、帰りは楽器をぶら下げて歩くことになる。テレビ朝日の駐車場も、ミュージシャンと警備のおっちゃん達との攻防が繰り広げられた。空いているのに停めさせないのは何事かってな案配で、しかしながら「ここは今日出演する誰々の車で確保されています」などと言われ、激昂のあまり警備員の胸ぐらをつかむなどという諍いも起こった。テレビ局と録音の建物は並んで建っていたのだけど、共用する事に無理があった。多くの場合、敷地のすぐ側にあるコインパーキングを利用することになった。河田町にあったころのフジテレビの駐車場も台数が限られていた。ヒットスタジオの仕事の際は早い時間からスタジオ入りするわけだが、それでも待たされることが多かった。間に合うかなとヤキモキしたことが何度もあった。




 あるミュージシャンは時間ギリギリに到着し、待つ余裕もなく、思い余ってご近所の家の空いたスペースに無理やり駐車した。彼に言わせると敷地内ではなく空き地に見えたということだが、そこの住人は怒り心頭に達し、車のバンパーか何かに大きな鎖を縛りつけ、出られないようにした。仕事を終えて車に戻ると凄いことになっている。彼は困り果て、テレビ局に引き返して大道具さんに言葉巧みに頼み込み、大型のボルトカッターを借りることに成功した。カッターで鎖を切り、無事帰還したわけだ。普通では切ることも出来ぬような鎖だったらしいが、「あのカッターは万能だ」ってな話だった。切られた方だって驚いたに違いない。
 剛の者は他にもいた。新宿や六本木は路駐が凄まじいことになっていた時期があった。これは犯罪であって大きな声では言えないが、すでに時効は成立しているほど昔の話だ。彼はライブが終わって車に戻ると、彼の車はもちろん、そこら中の車に駐車違反の輪っかが括り付けられていた。ここで焦らないのが彼らしいのだが、車の中には小型のボルトカッターが積まれていて、輪っかを切ることぐらい簡単だった。彼は切った。自分の車だけでなくそこら中の車のものも含めて。後日電話を受けて「えっ、そんなもの知らないですよ」と返答したらしい。その日の違反者がすべて同じ返答だったに違いなく、当局にしてみれば狐につままれたような気分だったと思われる。その後、違反の処理がどうなったかは知らないが、当局に一泡吹かせた話は誰もを「ククククッ」と笑わせた。

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