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惜別


 昨夜、故宮地利治のお別れの会に参加した。葬儀は家族葬で執り行うということだった。それで、最後まで共に演奏をされていたトロンボーン奏者の中澤律子さんの尽力で、生前親交のあった演奏家などが集まった。中学時代の同窓生もいたし、スタイリスティックスでご一緒したテナー奏者との再会もあったが、ほとんどは知らない方々だった。疎遠になり始めたディズニーランド時代からの知り合いの方々が多かったわけだ。会はモニターにYouTubeにアップされた映像と音楽を聴く形で進行した。ディズニーランド時代の多くの映像も残されていて、ずいぶん多く見ることになった。



 出席者がそれぞれに彼の想い出を語るコーナーでは古株として挨拶をしないわけには行かなかった。中学、高校時代から始まって、プロの世界に飛び込むきっかけを作ったわけだから最も長く深く関わり合っていたことになる。なにしろ、小倉の「チャイナタウン」という店のキャバレーバンドに一緒に参加したとき、当方19才、彼は18才だ。先行きの不安は抱えきれないほどあったが、若いときは根拠もなく不安を吹き飛ばす夢とパワーがあった。同じ屋根の下での生活で、毎夜のように朝まで音楽のことなどを語り合った。半年ほどの小倉での仕事を終え、彼はひと足早く上京した。残されたこちらとしては散々お世話になったバンマスに暇を告げることが出来ず困り果て、前借りしていた金などを封筒に入れて先輩に託し蓄電するという、とんでもない暴挙で去ることになった。厳しいバンマスだったから、相談すれば「もう少し勉強してからにしろ」と言われるような気がしていたのだ。しかし、こちらとしては気が逸るばかり。20才目前であって「こんなところで足踏みするわけには行かない。えーい、逃げてしまえ」という短絡ぶりだった。彼から2ヶ月遅れて上京した。頼みの綱は、小倉の店のチェンジバンドのドラマーから頂いた同郷の先輩ドラマー西川喬昭さんへの紹介状だけだった。
 宮地はひばりケ丘に住んでいた。そこへ転がり込んだわけだが、彼はその時点では何もしていなかった。仕事を得るには何らかのきっかけが必要だったから無理もない。
 ホームページ「70年代」にも書いたが、こちらが用意していた紹介状にしても、住所が分かっているわけでもなく、新宿歌舞伎町のジャズ喫茶「ポニー」に行けば会えるという頼りないものだった。夜8時頃からポニーで3時間ほど待ったが現れず、会計の際にレジの方に紹介状を託して帰宅した。8時など、普通に考えれば仕事をしているわけで会えるわけもないのだが、舞い上がっていてそこまで考えは及んでいなかった。もしやと思い、12時過ぎに店に電話をすると西川さんが出て「すぐ出て来い」と仰った。最終電車で駆けつけた。後は電光石火だった。「先ず師匠を決めないとな」ということになり、菊池先生に付くことになった。次は仕事だ。その時間にポニーにいるのは、ほとんどがジャズ・ミュージシャンなどだった。西川さんは店の中にいるみんなに向かって「ねえ、このボーヤがさ、アルトで仕事探してんだけどさ。何かない?」と言うと、あちこちから「それだったら」という声が返ってきて、その場で2ヶ月間のトラだったが風林会館のバンドの仕事が決まった。その仕事場で最初にバンマスにお願いしたのはトロンボーン吹きの仕事の紹介だった。「おっ、なんでもいいのかい?」ってんで宮地の仕事もたちどころに決まった。当時のバンドマンの情報網は、それこそ網の目のように張り巡らされていた。なにしろ、今は無くなったコマ劇場の前の広場を取り囲むようにして、3つのダンスホールがあった。ダンスホールにはフルバンドとタンゴバンドが必ず入っていて、休憩時間にはあちこちから同じ色のブレザーを着たバンドマンが出て来た。その上、そこら中にキャバレーがあって、何れにもバンドがいた。どこの店でもフルバンドというものでもなかったが、最低でもナインピースのバンドを抱えていた。12時過ぎの新宿中央線のホーム、当時は10番線で向かいは外回りの山手線。このホームはバンドマンとホステスと酔っ払いで溢れ返っていた。一度どこかに所属してしまえば仕事は尽きることなくあった。20才と19才の東京での出発はそんな風に始まった。
 こう言っちゃあなんだが、戦友のようなものだった。あの当時の話を今できたらどんなに楽しかったかと思う。
 永六輔さんは生前、友人の葬儀に参列した後「生き残った」という安堵のようなものを感じることがあると仰った。宮地に関してはそのようなことを思うことはない。「先に逝ってしまいやがって」と置き去りにされたような悔しさだけが残る。ここ10年近くは会うこともなかったが、生きていればいつでも会えるという油断があった。今、二度と会えないということの悲しみを知った。挨拶をしていて、上に書いたように詳しく語ったわけでもないが、次第に悲しさが込み上げ言葉に詰まった。不覚にも涙があふれ出て止まらなかった。最後に、悔しいと言って終えた。あいつと過ごした20代の日々がどれほど大きかったかを改めて知ることになった。

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続・後輩


 一昨日は思いがけない訃報に困惑しつつ後輩のことを書いた。一つしか歳は違わないのだが、後輩でもあるし、この先もずっと生きているはずだとの思い込みもあった。先に逝ってしまうなどとは考えもしなかったから、ショック状態は今でも続いている。長く続いた付き合いだったが、ここ10年近くは疎遠だったから、いなくなったことを実感できないままだ。



 それで、冷静になって思い起こすと、記憶が次々に蘇ってきた。ビッグバンドで一緒になったのが最後ではなかった。赤坂のホストクラブのナインピース編成のバンドで何ヶ月か一緒に演奏したことがあった。ちょっと異質の雰囲気を持つ店での仕事だった。客筋は水商売風の女性も多かったが、中には運転手付きの大型車でやってくる御婦人もいた。有閑マダムの手合かと噂したものだ。それに、このバンドには変わった風習があった。休憩時間は大っぴらに飲み会になった。年配のメンバーはそれぞれがボトルをロッカーに入れていて、酒の肴も持参していた。控室は飲み屋と化した。郷に入れば郷に従えってんで付き合ってみたが、仕事をやる気が失せるだけの馬鹿馬鹿しい時間だった。当時、二人とも仕事に恵まれず、その場凌ぎの仕事だった。
 こちらがピットインで活動を始めたころ、宮地はフリーのグループに所属していた。フリーというのは、どこかの店などと契約せず、その都度仕事をブッキングするやり方のバンド経営で、「拾い」のバンドというような呼び方をしていた。あちこちで仕事を拾って歩くという意味だ。そのバンドのホーンセクションだけがスタイリスティックスのツアーを手伝うことになった。
 ところがバンドはビッグバンドより小規模だったからバリトンサックス奏者がいなかった。ちょうどピットイン・オーケストラのためにバリトンサックスを手に入れたころだ。宮地は手伝わないかと声をかけてきた。スタイリスティックスなど知らなかった。テープを聞かされて女性の入ったコーラスグループだと思ったぐらいだ。そのツアーは楽しいものだった。ほとんどの公演先で用意されていたホテルの部屋はシングルユーズではなく誰かと相部屋というものだった。割り振りを任されていた宮地はいつも無理にでも一緒の部屋にした。他のメンバーは場所によっては3人部屋という情況だったから不満も聞こえたが二人とも知らぬ顔で押し通した。
 博多の公演先で用意されていたのは、ホテルなどではなく全員雑魚寝の旅館だった。宿の前に立ったとき、年長のプレイヤーが「おい、嘘だろ、これ」と憤慨した。彼は早速東京の事務所に連絡を取った。今のように携帯電話などない時代だ。連絡がついたのは翌日で、博多で宿を手配したヤツが宿代を浮かせて懐に入れたことが発覚した。
 そんなトラブルもあったが、ステージ上は極楽だった。黒人のリズムセクションの送り出すしなやかなビートは、一つのフレーズの意味合いもまったく違って感じるほど浮き浮きとさせてくれた。宮地はその経験からか、後にディスコ・バンドを結成したりした。
 当時のラジオ放送のテープがどこかに残っているはずだ。泣けてしまうからも知れず、すぐには聴く気がしない。しかしながら、あのツアーに青春時代ともいえる輝きがあることは間違いない。

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後輩


 一つ年下のトロンボーン奏者だった彼と知り合ったのは中学校のブラスバンドだった。同じ高校でも部活動を共にし、そこから50年以上が過ぎた。彼自身が目指していたのかどうかは分からなかったが、母親が熱心だったらしく、高校のころは夏になると上京してN響の奏者の講習を受けていたりした。こちらは高校卒業と同時にプロミュージシャンとしてのキャリアをヨロヨロと始めていた。貸したレコードがボロボロになって返ってきた事もあったが、ジャズに少なからず興味を持っていることを知って、「おまえも同じ道歩くか?」と訊いた。まだ高校3年生だったし、そんな簡単に決められることでもないが、試しに冬休みの間だけ博多の仕事場に遊びに来るように提案した。大晦日の米軍キャンプの年越しパーティーで一緒に演奏し、面白いと感じたようだった。



 卒業するころになると「やってみたい」と言うようになった。こちらはちょうど博多から小倉のバンドへ移るころだった。移る条件として、もう一人トロンボーン奏者を雇ってくれないかと申し出ると快諾され、小倉のバンドから活動を共にするようになった。最初は一緒に住んでいたが、間もなく自分の部屋を借り、駆け出しバンドマンとしての生活が本格的に始まった。もちろんそこで終わる気はなかったし、二人とも早く上京したいと願っていた。半年ほどで小倉のバンドを辞めた彼はひと足早く上京した。後を追うように3ヶ月後にこちらも上京し、彼の住んでいたひばりケ丘のアパートに転がり込んだ。その後、彼はビッグバンドに入ったのだが、彼の紹介で同じバンドにこちらも何ヶ月か在籍した。その何ヶ月かが、共に演奏した最後のバンドになった。同じ師匠の菊池秀行さんに習っていた時期もあったが、そのうち松本英彦さんの教室に通うようにもなった。こちらは同じバンドに長居せず転々とすることを繰り返していたが、彼は一つのバンドに入ると根が生えたように動かなかった。ピットインのオーケストラにも呼んだりして、機会を見つけては一緒に活動するように心がけてはいたが、活動の場は離れていった。
 演奏する場所は違っていたが、プライベートな交流は頻繁で、東中野に近い落合周辺に越してきてからは、お互いの家を往き来してよく一緒に飯を食った。彼が結婚してからも交流は絶えることがなかった。彼のかみさんは「先輩」と呼んだ。やがて彼は亀戸の方に越し、ディズニーランドのバンドに所属することになった。20年近く演奏していたはずだ。プレイヤーとしての活動を退いた後も、ミュージシャンを手配する役職でディズニーランドに関わっていた。
 昼と夜の仕事の立場上止むを得なかったが、ディズニーランドの仕事場に移ってからは少しずつ疎遠になっていった。ミュージシャンの手配の仕事をするようになって、時々無茶な要望の人探しの電話がかかってきた。「痩せたテノール歌手っていないかな」などと言う。「おまえ、そりゃ、テノール歌手ってのは大体恰幅がいいもんだろ。病み上がりの歌手でも探すしかないんじゃないの」ってな調子だった。演出上の問題で要求はいつも難しいものだった。
 最後にじっくり話したのは10年以上前のことだし、連絡の最後は数年前のライブ案内だった。今さらながら顔を出してればよかったと後悔する。その宮地利治がイヴの日に癌で亡くなったとの知らせを受けた。悲しい。深く哀悼するものだが、「おまえ、ちゃんと連絡よこして見舞いぐらい行かせてもよかったんじゃないのか」と言いたい。

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食事会


 今でも告知を見ることはあるが、ひと頃ほどの勢いでやっているものでもないらしい。クリスマスと言えばディナーショーの時代があった。歌うことさえ出来れば「ディナーショーだ”」という流れだった。様々な歌手のバックで全国のホテルを廻った。



 この場合チケットと言ったかどうかは覚えていないが、フルコースの食事にショーが付いて、だいたい2、3万の料金だった。食事としては破格だが、ショーが付いてくるんじゃ仕方ないかってな案配で、どこの都市でも地元の名士を含む大勢の方々が詰めかけた。一般的にはあまり知られていないのではないかと思われる方のディナーショーもあった。石田純一さんなどは歌手でもなく、歌の方は・・・だったけど、どこの会場でも盛況で、その日選ばれた二人の方が楽屋で直接対面できるというプレゼントも用意されていた。楽屋にいらした方が感激で涙ぐむのを見たこともあった。郷ひろみさんのショーには全国どこにでも現れる熱狂的なファンの方もいて驚いた。交通費、宿泊費から、もちろんディナーショーの代金まで、相当の出費をされていたわけだが、そのために一年頑張るんだと聞いて感心したりした。
 しかしながら、年を追う毎に下火になって行き、誰でもディナーショーというわけにも行かなくなった。場所によっては、チケットが出入り業者のノルマと化し、業者は身銭を切ることになっていたとも聞いた。ホテルとしては百人単位で料理が出るわけだから、ありがたい流行りだったらしい。
 二間ぶち抜きの広い会場が基本だったが、そう出来ない狭い会場でもディナーショーは詰め込むようにして行なわれていた。結婚披露宴の会場のようにテーブルが並べられ、僕らが会場入りしてリハーサルを始めるころには、食器はもちろんのこと、パンなどはすでにテーブルの上に置かれていることもあった。埃だらけになるんじゃないかと呆れたが、誰もそんなことは気にしていなかった。
 ショーはだいたい一時間だったし、バンドはコンサートに比べれば楽なものだった。だが、コンサートとは違い、音楽と食事のどちらがメインかよく分からないステージにはいつも違和感を感じていた。感覚としては、ホステスのいない「移動キャバレー」のようなものだった。バンドの特典は食事だった。客と一緒のものではなかったにせよ、ステーキなどの豪華な食事にありついた。ある日、郷ひろみさんのショーでホテル側がバンド、スタッフに用意したものは、駅弁のような折り詰め弁当だった。これには全てのショーをプロデュースする方が、「客と同じものを供しろ」と烈火のごとくお怒りになった。ホテルのレストランで食事するように言われることもあったが、毎日ステーキなど食えるものではない。仙台のホテルで「あの、スパゲティに代えて頂けませんか」と言うと「えっ、それでいいんですか」と喜ばれ、それまで食べたこともないような美味しいミートソースのスパゲティが運ばれてきた。数年にわたり何食ほど頂いたのか覚えているはずもないが、そのスパゲティのことだけはよく覚えている。

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有馬記念


 10年ほどを過ごした佐賀の町にも競馬場があった。ずいぶん離れたところだったはずだが、開催日には風の向きによって高らかなファンファーレが聞こえた。馬ということで、曲は「軽騎兵」だった。ドー、ソッドドド、ミッドミドーが聞こえるわけだ。何度も聞こえるわけでなく、一度だけだったから、あれは開始の合図だったに違いない。馬がドドドドドドッと走り抜けるだけで面白いものではなくすぐ飽きたが、町内の遊び仲間と連れ立って遊びに行ったこともある。高校時代のクラスメートはその競馬場近くに住んでいて、よく見に行ったそうだが、大穴を当てた老人と関係者のやり取りを話してくれたことがある。その老人の目の前には大金が積まれていたそうだが、係員が「もういいでしょう」と止めるのも聞かず「「田んぼも畑も手放した。これから取り戻す」」と怒鳴っていたらしい。2、300万じゃ足りないというわけだ。



 ギャンブルというものは損をするようにできている。たまに勝つことはあってもトータルで考えればほとんどの人が黙ってしまうに違いない。ギャンブルはやらないから醍醐味などは分からないが、パチンコだってはまれば相当つぎ込むことになるらしいことは知っている。今日は有馬記念だった。有馬記念の中山競馬場には一度だけ行ったことがある。今日のようにイブの日ではなく、たしか27とか28とかだった。せっかく来たんだからと馬券もみみっちく買ったりしたが、何の知識もなく、パドックで馬を見た方がいいと言われてもどの馬も同じに見え、当たるわけもない。何の目的で行ったかといえば、植木等さんの仕事だった。スーダラ節の「馬で金もうけしたやつぁないよ」の歌詞がピッタリだってんでの登場だった。もちろんレースが行なわれているときにやるのではなく、すべて終了後だ。競馬場から最寄りの駅までは、ほとんどの人がスッテンテンになることから「おけら街道」と言うんだと教えてくれたのはトランペットの白山氏だった。終わるとみんなが一斉に駅を目指すものだから相当混みあうことになる。それで、混雑緩和の目的で観客を足止めさせるためのコンサートだった。ステージなど作ってしまったらバレバレになってしまうので、大きなトレーラーの荷台がステージに改造されていた。10分前に僕らはその中に入り、開始を待った。外はそろそろ暗くなりかけている。サプライズをやる側は案外ワクワクとしてその時を待つものなのだ。多くの人たちが通り過ぎようとした瞬間、突如、荷台の箱の壁が倒れ、煌々と照らされたステージでスーダラ節が始まるってな案配だった。みんなビックリしてステージの前に集まり、30分ほどのステージがかなり盛り上がったのは言うまでもない。

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