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ビリー・チャイルズ


 今年もグラミーの受賞者が発表された。アルバム・オブ・イヤーとレコード・オブ・イヤーはChildish Gambino(チャイルディッシュ・ガンビーノ)が受賞した。ああ、情報不足で知らない。MTVが盛んに地上波で放映されているころはアメリカの音楽は身近にあったが、音楽的な鎖国を業界が始めてからは、とんとこの手の情報が入らなくなり、毎年グラミーが発表されるたびに「それ、だれ」と相成る。元々はラップ系だったらしいが、少し路線を変更しての受賞だという。それで音源を入手して聴いてみた。80年代のファンクを思い起こさせるサウンドで違和感なく聴けた。 ソング・オブ・イヤーはBruno Mars - That’s What I LikeでYouTubeでの視聴回数が1,152,902,305 回、とんでもないことになっている。ま、おっさんが知らなかっただけらしい。ジャンルが多過ぎることもあるが、知らない名前が多い。
 それで馴染みのあるジャズ部門に目を向けた。ピアノのBilly Childs(ビリー・チャイルズ)の「Rebirth」がベストアルバムに輝いていた。おっ、いいぞ、いいぞってな感じだ。ビリーはフレディ・ハバードの原宿キーストンコーナーでのライブで聴いたこともある。彼のピアノに参ったのはグロバー・ワシントンの晩年のアルバム(確かラストアルバム)での演奏だった。このアルバムではストリングスなどの入った編成でクラシックのオペラのアリアをグローバーは吹いた。白鳥の歌にしても哀しみのある作品だった。ここでのビリーの繊細なバッキングに魅入られ、俄然ビリーのピアノのファンになった。いつか共に録音することがあればと夢想したりした。ずいぶん前に見たホームページでの情報によれば小さな編成でのアンサンブルでの活動も活動も行なっているとのことだったが、その後の消息は不明だった。2011年には作曲でグラミーを受賞していたことも今日知った。



 このアルバムは知らなかったものだから、早速ダウンロードで入手して聴いた。アルトとソプラノのスティーブ・ウィルソン、ドラムのエリック・ハーランド、オーストリア出身のベースのハンス・グラヴィシュニクのクァルテットを核に、ゲストプレイヤーが入る編成。曲はかなりコンテンポラリーな作りになっていて、スティーブ・ウィルソンの存在感.、エリック・ハーランドのドラムに感心したり驚いたり。しかしながらミシェル・ルグランの「風のささやき」やホレス・シルバーの「Peace」が収められている所がこの人らしい。彼はハンコック、チック・コリア、キース・エマーソンなどと並んでヒンデミット、ラヴェル、ストラヴィンスキーなどにも影響を受けたと語っていて、クラシック関連の作品も数多く発表している。受賞アルバムの「Peace」などのような繊細で厳しい演奏が個人的にはツボでたまらないわけだ。

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ドルフィ


 エリック・ドルフィのレコードはかなりの数を、せき立てられるように買った。正直なところ、好きだったかどうかは未だによく分からない。基本的にはバップの延長線上にあって、そこから離れずにウダウダと奇抜な跳躍を取り混ぜて続けるものもある。そのタイプは少し退屈する。そのような路線でも、緊張感をやたらアピールしないLJQ(ラテン・ジャズ・クァルテット)とやったものや、ケン・マッキンタイヤーとの共演盤は軽めのアプローチが心地よい。

 

 しかしながら、ミンガスとの共演の際などに、自分のアプローチが炸裂し始めると手が付けられない。恐ろしいほどに攻撃的で容赦がない。そんなドルフィを怖いもの見たさで次々に買っていたような気もする。
 ドルフィのレコードはほとんどを処分してしまったが、このレコードはなんとなく捨てられないでいる。



 「Pieces by Lewis, Farbermann. Schuller, Smith / dedicated to Eric Dolphy」1966
 これはドルフィが演奏しているレコードではなく、彼に捧げられた作品集で、ジョン・ルイス、ガンサー・シュラー、ハロルド・ファーバーマン、WM. O.スミスのスコアが5曲演奏されている。メンバーはジェローム・リチャードソン、ジョー・ニューマン、ボブ・ブルックマイヤー、リチャード・デイヴィスなどで構成されていて、一曲だけヒューバート・ローズが参加しているが、ここではフルートとテナーサックスを吹いている。珍しいローズのテナーソロが聴ける。ジョン・ルイスのスコアはジャズ寄りだが、他のスコアは現代音楽的なアプローチが目立つ。ガンサー・シュラーの曲の一つはジム・ホール(ギター)とビル・スミスのバスクラ、メル・ルイスのドラムと二人のベーシストという編成で予想通りのマニアックなサウンド。ライナーノートはレナード・フェザーが書いていて、かなり詳しくアプローチを分析している。聴いた感触を言えば、ドルフィとは無関係であって、ドルフィという存在をモチーフにしてそれぞれの作曲家がイメージを膨らませた作品集ということになる。希少盤で、そもそもLPジャケットの写真すらネット上にはない。歴史に埋没していくアルバムの一つに違いない。このように話題になることもなく消えていくアルバムは捨てるのも憚られ、天の邪鬼の私としては「シュラーさん、ファーバーマンさん、これからもあなた達の苦心したスコアを何度も聴き続けますぜ」とエールを送りたくなるものなのだ。

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流行歌


 ほぼトップランナーだったと言われる女性歌手が引退を発表してしばらく話題になった。その歌手についての知識はまったくない。いつだったかサミットのレセプションで彼女が歌うと聞き、日本を代表する歌手としてふさわしいのかどうか疑問に思ったぐらいだ。しかし、こちらが思っていたよりずっと人気を誇る歌手だったらしい。



 業界に長くいて活動していたが、ヒットチャートなどとは無縁で、ただスタジオのマイクの前で音を出していたに過ぎないことを自覚したのはずいぶん後のことだ。来る日も来る日も「おニャン子クラブ」関連の録音ばかり続いたこともあった。もちろん個人名など覚えているわけもない。「ベストテン」などの番組で、自分が関わったレコーディングの歌が売れたというので出演依頼され、そこで初めて誰が歌っていたかを知るというようなこともあった。レコーディングの際は仮歌(かりうた)というものが入っていて本人ではなかったりするから分からないわけだ。その仮歌専門の歌手がいたのだ。もともと仮歌を専門にする気はなかったのだろうし、普段はコーラスの一員として仕事をしているような方たちだったが、いつの間にか仮歌のオーダーが増え、ある人は「仮歌の女王」などと呼ばれていたりした。そういう方たちの中にはゴースト的な役割で新人のサポートをする人もいた。昔のテレビの音楽番組はやたら生放送が多かった。それにバックは生バンドだ。ヘッドホンではなく生のバンドの音を聞きつつ歌うのは、慣れなければまた違った難しさがある。そこで放送ではカットされるが、イヤホンかモニタースピーカーかで本人にだけ聞こえるようにユニゾンで歌う人がいたのだ。決して上手ではないアイドル系の歌手には重宝されたらしい。今はそのようなアイドル歌手はほとんど見かけず、集団でのケースが多いが、理屈としては大勢で歌うというやり方で切り抜けているともいえる。

 年末になると何とか賞の番組を見ることがある。名を聞いたことはあっても歌そのものは知らない歌手が多い。なにしろテレビなどから音楽番組は思いきり減った。歌を聴く機会はほとんど失われているようにさえ思える。もちろん若い人たちは敏感に嗅ぎつけて楽しんでいるわけだが、もともとたいした興味を持っていなかった僕らのような世代には知ることすら難しくなった。あまつさえレコード大賞を金で買ったなどと暴露されたりして、それもむべなるかなと思えたりする。昭和の時代は国を覆い尽くすようなヒット曲があった。その歌ばかりがラジオやテレビで放送されたし、万人に届く歌声だったと言っていい。古い話で笑われそうだが、ペギー葉山の「南国土佐を後にして」(1958年)とか吉永小百合と橋幸夫の「いつでも夢を」(1962年)、舟木一夫の「高校3年生」とかは国中に響き渡っていた。その後も「ルビーの指輪」(1981年)や「愛は勝つ」(1991年)などが目立ったが、その1991年あたりを境目に歌の受け入れ先が狭まって行ったように思われる。
 歴代シングル盤の売り上げ第一位は「およげ!たいやきくん」で断トツ。先の引退する女性歌手のものは14位にランクインしていてなるほどなんだが、50位以内に現在の賞にノミネートされる歌手がほとんど入っていない。ようするに小振りになってきた受け入れ先という展開で先細り感は否めず、見通しは決して明るくない。
 それが時代だとも言える。

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即興演奏の怖さ


 その昔、まだ「ピットイン」での活動をする前、銀座にあった「ボヌール」というレストランでの仕事をしていた。音楽を聴かせる店だった。クァルテットで何曲か演奏し、その後でシャンソンやカンツォーネの歌手が歌った。ジャズ系の歌手は出演しなかったが、それがこの店のスタイルだった。クァルテットはジャズのスタンダードがレパートリーだった。何人かのピアニストが出入りしたが、そこに現れたのがギターの飯田さんだった。今ではほとんど名を知る人もいないが、間違いなく達人だった。彼はウェス・モンゴメリーのスタイルを愛するギタリストだったから、ウェスの曲を毎夜のように吹くことになった。
 サックス吹きにとっては縁遠い曲の数々が次々と告げられ、ほとんど知らない曲ばかりで焦ることになった。飯田さんは譜面を書く人じゃあなかった。「その曲知らないんですけど・・・」と怯えつつ言うと「聴いてりゃ分かるよ、ワン、ツー。スリー」ってな調子で演奏は始まった。まさに修業だった。テーマからギターのソロの間にコード進行を把握し、おっかなびっくり吹き出すということを続けた。把握するったって完全には無理だったが、なんとか嘘三百位は交えて切り抜ける案配。それで、気に入ってくれて松本英彦さんの仕事を紹介して頂くことになったりした。恩人だった。飯田さんは褒めてくれたけど、そんな人ばかりじゃなかった。数年先輩のピアニストはすでにライブハウスなどで活動もしていて意気盛ん。面と向かって「おまえなんかダメだよ」と罵倒された。もちろん、よほどの天才でない限り、若いころというのは足りているところと欠如している部分が半々で成り立っている。2分8分ぐらいかもしれない。欠点を突くには事欠かないわけだ。飯田さんのような人は伸び代を見てくれているわけで、むしろ応援してくれる立場だったともいえる。思い返してみれば、どちらの言うことも正しかった。今は克服できたというものでもないが、欠点だらけだったし、幾許かの可能性もあった。

 チック・コリアが76才になったと聞いて驚いた。そんなになるのか、ってなところだが自分だって大台間近だと考えれば当たり前の話だ。コリアのピアノは明快で、聴くたびに感心するプレイヤーの一人。ピアニストのソロを完璧にコピーしたのはこの人のものだけだった。彼がマイルスのバンドに入ったころの話を聞いた事がある。マイルスはリハーサルをしないことでも知られていた。知っている曲はともかく、まったく知らない曲が始まったりして相当困ったらしい。それで、ステージに上がる前に「誰か、コード進行だけでも教えてくれ」とメンバーに頼んだそうだ。すると、ウェイン・ショーターがおもむろにペンを走らせ始めた。渡された紙に書かれていたのはコリアの似顔絵だった。ようするに、当時のマイルスのバンドはフリーな流れに沿うことが多く、耳で聴いて判断しろというものだったらしい。もちろん、僕が飯田さんと経験したこととは次元が違うが、困っている気分は同じだ。



 マイルスは白人のプレイヤーについて「どうしてかは分からないけど、みんなビートに乗り遅れるようだ」と語っていた。それがどんなレベルだったかは分らないが、そう感じていたらしい。結局は白人プレイヤーは白人たちだけで集まるようになるとも言っている。チック・コリアもまたそのような動きを始めた時期があった。エレクトリック・バンド、アコースティック・トリオと白人で固めたバンドで活動した。それは素晴らしかったし不満があるものでもなかった。
 80年代、日本がバブル景気に湧き、ジャズフェスティバルがあちこちで大々的に催された。ブルーノートレーベルが引っ越してきたのではないかとプレイヤーに言わしめた「マウント・富士」もその一つだった。チック・コリアもジョン・パティトゥッチとデイブ・ウェックルを擁するアコースティックバンドを率いて出演した。テレビ放映されたのは日本側から有名なホーンプレーヤーがゲスト参加したブルースだった。テーマを吹くことも困難に思える速さだった。異変はテーマの時からあった。最初のソロはコリアに委ねられた。相変わらず自由自在に紡いでいったが、どことなく妙なソロだった。続いてホーンの登場だった。変だった。ベースのパティトゥッチは露骨に嫌悪感を顔に表した。トリオとソリストはちぐはぐに聞こえた。ドラムとの掛け合いまでこぎつけ、終わりに差しかかった。コリアは明らかにテーマのバッキング部分を弾いていたが、ホーンはテーマに戻れぬままに曲は終わった。ソロの中でもトリオに付いていけてないことが顕になっていたし、恐ろしいドキュメントだった。テレビ放映では一曲だけだったが、前後に何かあったのかもしれない。ジャズは恐ろしいなあ、と本当に思った。当時、私的にはスタジオ・ミュージシャンとしての活動がすべてだったから、直接的なダメージはなかったが、ジャズというジャンルの怖さを思い知るに充分な1曲だった。何をやっているんだと非難することは簡単だけど、よく健闘したと称える選択肢がないわけでもない。レベルが違っていたことだけは確かだった。
 最近、その音源を改めて聴くことになった。封印していたわけだが、何が起きていたのか知りたいと思ったのだ。それで、つぶさに採譜してみた。コリアはもちろんジョン・パティトゥッチのベースラインもウェックルのドラムもたいしたものだった。ホーンはリズムで思いきりつまずいていた。8分音符が下手をすると3連符になりそうなほど転がってしまっていた。パティトゥッチが困るわけで、ピアノが2分音符でリズムを出すと、パティトゥッチが「それ、それ。それが欲しかった」というような目配せをした理由も分かった。激烈なジャズという市場の中で現れてくるアメリカのプレイヤーがいかに凄まじい力を持っているかを改めて知ったわけだ。
 自分のライブ活動を再開したころ、オリジナル曲で自分だけのアプローチを目指した背景には、この記憶が少なからず作用していたような気もする。

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Song to moon


 アジア・プロ野球・チャンピオンシップなどという。その日本の初戦の相手が韓国だった。延長戦にもつれ込む息詰まるような面白い展開の試合だった。結局は日本が勝利したわけだが、薄氷に近かった。で、昨日は決勝だという。「もう決勝?へっ?」ってなものだ。聞いたことはないけど、アジアプロ野球というからもっと多くの国が参加していると思っていた。日本と台湾と韓国の3チームしかなかったらしい。チャンピオンシップなんだろうけど、これってアジア大会とかで考えれば、最低でも銅は確保ということになる。チャンピオンなどと言わずに、友好シップとかにすればいいのに、人騒がせな。



 先日YouTubeでドボルザークの「Song to moon」を観た。Frederica Von Stade(フレデリカ・フォン・シュターデ)のソプラノ、指揮は小澤征爾さんだった。ずいぶん前の映像だと思われるが、彼女は私のお気に入りのルチア・ポップの友人でもあったらしい。芸風もなんとなく通じるところがあるなと思いつつ観ていたわけだが、ふと彼女の歌う姿に人が音楽を演じる意味合いのようなものを感じてしまったのだ。現世で演ずることの素晴らしさと虚しさのようなものを同時に。曲調がそんなことを考えさせたのかどうかは分からないが、他の歌手で聴いてそんなことは感じないから、彼女の歌の力かもしれない。人がこの世に生きて享受できる娯楽の一つが音楽であり、それを提供できる存在が音楽家だが、体が滅び骨だけに至るとそれは幻のように消え去る。むかし小澤征爾さんは、音楽家という公園があって、そこに僕らはいるだけで、いつかは公園を出るだけのことなんだと仰った。もちろんそんなことは他の分野でも、そもそも人が生きることもそうなんだが、「Song to moon」が突然そのような真理を一気に運び込んできたような気がしたのだ。喜びと虚しさの表裏一体ぶりに参ったわけだ。まあ歳のせいであることは間違いない。

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