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ムーンライト・セレナーデ


 今日はスタジオの予約が午後の4時間、さすがに4時間吹きっぱなしというのはヘビーで、結局は30分早く切り上げた。とは言え、吹き始めれば3時間強は夢中になれるし、やるべきことが次々と浮かんで、体力さえあれば一日中だって問題ない。だが、ま、無理は良くない。
 昨夜、久々にDVD「グレン・ミラー物語」を観た。甘味なエピソード満載の映画は一挙に最後まで観てしまう説得力がある。なにしろヒット曲の数々が次々演奏されるし飽きることがない。



 駆け足で綴られた映画の内容がどこまでが真実かは分からない。ムーンライト・セレナーデのクラリネット・リード・スタイル誕生の経緯も謎だし、レコーディング・データを見ると「茶色の小瓶」の録音は「ムーンライト・セレナーデ」と同じ年だ。映画の最後、亡くなった後の放送で、残ったメンバーが妻に捧げる形で演奏したとされているのは事実とは異なることになる。事実に基づいて描けばいかにも事務的な報告になるかも知れず、映画的な創りだから仕方ないとも言える。しかしながらヒット曲を量産した手腕は流石だと言うしかない。たいした方だったわけで、あの時代を席巻するセンスがあったことは間違いない。

 娘のジョニー、息子のスティーブ共に音楽に進むことはなく、スティーブは銃工として生き2012年に亡くなっている。一方、ミラーの兄、甥のジョン、姪のウィンは音楽の道に進んだ。ジョンはイギリスで自分のバンドを率いていて、叔父の音楽を再演したりもしている。妻のヘレンは、グレンが亡くなった後、彼の遺産を管理するプロダクションを設立し、グレンと関わりのあったサックス奏者テックス・ベネケの助けを借りてバンドを再生させたが、運営に関しての行き違いからトラブルもあったとされている。彼女は次第にグレンの音楽からは離れていき、1966年に64才で亡くなっている。
 グレン・ミラーのバンドにはボビー・ハケット、レイ・アンソニー、ビリー・メイなどのトランペット奏者、サックスのピーナッツ・ハッコーなどが在籍した。「ムーンライト・セレナーデ」は1939年の録音だが、そんな古いものだとは思えないほどで未だに色褪せることがない。ずいぶん昔、スタジオミュージシャンとして活躍したバリトンサックスの砂原俊三さんが亡くなった葬儀で有志が集まってビッグバンドを組み、出棺の際に「ムーンライト・セレナーデ」を演奏した。グレン・ミラーの音楽は僕らの前の世代がバンドを始めるきっかけにもなっていたから適切な選曲だった。しかし、あの哀調切々たるメロディは演奏するメンバーの心を直撃した。演奏不能になりそうなほど突き上げるものがあり、周りを見ると全員の顔が涙でクシャクシャになっていたそうだ。出席できなかったが、その話を聞いてこちらまで貰い泣きしそうになった。分かり過ぎるほどにその気持ちが理解できた。

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採譜


 ホームページのリンダ・オーの情報が古過ぎるなあってんで、近年のアルバムなどを参考にするつもりで聴き出したはいいが、楽曲の構造の相変わらずの複雑さに取り込まれて採譜を始めてしまった。



 彼女の作るラインそのものは単純なものだったりするが、とにかくリズミック・フィギュアが独特で、メロディが裏から入るパターンなども多くて譜面に起こすのにとても苦労する。メンバーはドラムに黒人プレイヤーが入ることもあるが、だいたい白人のテクニカルに優れた演奏家を起用する。複雑な曲を軽々とやってのけるから、どちらかというと腹立たしい。サックスのベン・ウェンデルはジョシュア・レッドマンの影響を受けたと語っているが、7拍子だろうと何だろうとサラリと吹き抜く。あまりのレベルの高さに沈黙するしかない。リンダ・オーも最初のアルバムを自主制作でリリースしたときは25才だったが、今や34才の中堅。評価も高く、ダウンビート誌の批評家の投票では、2年ほど前からクリスティアン・マクブライド、デイブ・ホランド、ロン・カーターに次ぐ4位にランクされている。パット・メセニーのツアーに参加したことなどで知名度はかなり上がった。最初に聴いて「おっ、このベースは凄いぞ」と感じたことが間違いでなかったことに鼻高々なのだ。実際のところ、このようなタイプの音楽をやりたいというものでもないが、構造が把握できないというのも悔しく、ついつい向きになって一時間ほど費やし、出来るかどうかはさて置き採譜は終了。脳味噌が疲れたのが分かるってな案配なのだ。

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半世紀


 歳のせいか、近ごろやたらと昔のことを思い出す。その昔、レコード盤は貴重なものだった。誰もが大事にしていたし、取り扱いにも気を使った。上京するころ手元に30枚ほどあっただろうか。貨物で送ればよいのだが、住居も定まっていない状況ではそれもままならず、手持ちで運ぶことにした。底が抜けそうになるトランクに押し込め、アルトとソプラノサックスも抱えて電車に乗り込んだ。ほとんど弁慶状態だ。荷物はそれが全てだった。鍋、茶碗はもとより、家具類は処分して何も持たぬ旅立ちだった。とにかく一から始める覚悟の潔さだけはあった。
 レコード盤はソニー・ロリンズ、ローランド・カーク、ミンガスのものもあったが、フリージャズ系のもの、アルバート・アイラーやオーネット・コールマン、スティーブ・レイシー、マリオン・ブラウンなどが大半で今から考えれば偏ったものばかりだった。クラシックにしても三善晃に間宮芳生がメインだった。若さにまかせて背伸びしていたことがよく分かる。



 写真は当時から持ち続けているレコード盤の一部だが、中央のロビン・ケニヤッタはCDで買い直したもの。音楽界は少しずつ変化の兆しを見せ始めていた。左のものはスティーブ・マーカスのデビュー盤でハービー・マンがプロデュースしてジャズ界に新風を送りこんだ。このアルバムの「トゥモロー・ネバー、ノーズ」をラジオで聴いた時には、ロック系のサウンドを全面に押し出すやり方に新鮮な驚きがあった。さらに右の「BS&T」はダウンビート誌の広告で目にしていたのだけど、店頭で試聴して魅せられ、即購入した。新しい流れを肌で感じつつ上京したってわけだ。住まいが落ち着くと何としてでも足を運ばなきゃいけなかったのは新宿のピットインだった。稲垣次郎さんのバンドを聴きに行ったときのことだ。稲垣さんもスティーブ・マーカスのようなやり方でライブをなさっていたのだけど、突然現れたのがニューヨークから帰ってきたばかりの日野皓正さんだった。思い切り大きな帽子で現れた日野さんは吹きまくった。その奇抜にも見える装いと勢いに「なんだか凄いことになっているなあ」と圧倒された。
 ジャズ界に様々な新しい試みにチャレンジする者が次々に現れ、活況を呈していたころだ。スティーブ・マーカスもロビン・ケニヤッタも同じレーベル、ヴォルテックスからデビュー盤を出した。Vortex Recordsは1968年から1970年にかけて14枚のアルバムを制作した。その中にはチック・コリア、キース・ジャレット、ソニー・シャーロックのデビュー盤が含まれている。先見の明のあるレーベルだったとも言える。14枚の内3枚はキース・ジャレットのもの。さて、あれから50年近く経ってしまった。ロビン・ケニヤッタはデビュー時に比べるとおとなしくなり、伝統的ジャズに向かうかと思えばフュージョンのようなアプローチもするというように迷走しているように思えた。スティーブ・マーカスもデビュー時ほどの注目を集めることはなかった。とは言っても二人ともデビュー盤は鮮烈だったし、大きな影響を受けたことは間違いない。しかし、その後のことを調べて、「そうだよなあ、50年だからな」という現実と向き合うことになった。ロビン・ケニヤッタは2004年に62才で、スティーブ・マーカスは2005年に66才でこの世を去っていた。レコード盤でしか知らなかったとはいえ、記憶に刻まれた音を持つ演奏家が消えていたことは哀しいことなのだ。

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コルトレーンを知った頃


 昭和の時代、大都市は言うに及ばず、どこの町にもジャズ喫茶というものがあった。少々気取って訳知り顔で入る店だった。店内にはいつも大音量でジャズが流れていた。ジャズが分かるとか分からないとかに関係なく当時の若者の文化の一つだった。ジャズは身近な音楽だった。



 今は当時の勢いなどまったくなく、時代の変化もあるだろうが、著作権料の問題などで閉じる店が増えたという。その問題に関しては地雷を踏む結果にもなりそうだから多くは触れない。一曲毎の徴収とかを計算した経営者もいて、その額はバカにならない。ただでさえ経営の厳しいジャズ喫茶だからひとたまりもないというのは想像に難くない。徴収された金が著作権者に渡っているかどうかは謎だ。大雑把に徴収してどこかに消えていると指摘する向きも多い。新宿にはそこら中ジャズ喫茶があった。深夜に行ける店も多かった。東口に向かう道沿いに「びざーる」があった。地下の店だったが、その階段の前を通ると「グゲ、キキキキッ、ズドン、ズドン」ってな調子でいつもジャズが聞こえた。夏の暑い盛りにデパートの前を通ると冷房の涼しい風がフワーッと吹いてきて心地よく感じることがあるが、あれがジャズの爆音になったと考えれば分かりやすいかと思われる。
 最近アナログ盤をよく聴く。それで思うのだが、当時のジャズ喫茶はアナログ盤だった。アナログ盤は片面20分前後と短い。15分ぐらいのものもザラだ。ジャズ喫茶のマスターはその都度レコード盤を入れ替えてかけていたことになる。店によってはターンテーブルを2つ用意して交互に切り替えたりしていたようだが、それでも音楽が切れないように神経を使っていたはずだ。コーヒーはもちろん酒も出さなきゃならないし、食い物だって作ったりしていた。それをやりつつ客の相手もしていたわけで、大変な毎日だったに違いない。
 高校3年生のころ、地元のジャズ喫茶に足しげく通った。正確にはジャズ喫茶ではなくジャズ・バーだった。そこで無理してカクテルなどを飲んだりしていたのだ。それは大人の世界への入り口のようにも思える妖しい魅力があった。その妖しさはジャズだからこそで、例えばマンボやタンゴじゃダメだったろうし、ましてやハワイアンとかカントリーではおととい来いってなものだったろう。そのバーで、コルトレーンを知った。とんでもなく特別な存在になった。今でもコルトレーンを聴くことはある。その度に自分のやってることはジャズでもなんでもないなあ、と思ったりする。

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むかし聴いた懐かしい音


 暖かくなったり突然冷え込んだり、春は幾分からかい気味にやって来るわけだが、この桜の花が咲くかどうかなどと言っているころが最も好ましい。咲いてしまえばそれまでよ的に落ちるだけで、それはそれで虚しい。



 CDなどの録音物を一切聴かない時期があって、それが一ヶ月以上になることもある。ようするに他人のやったことに耳を傾けるのが面倒になる。自分のことで精一杯ってわけだ。しかし、ここのところ再びアナログ盤の整理で何枚か耳を通してみた。クルセイダーズの「Street Life」と「The Good and the Bad Times」を手始めに聴き、その使い古されたクリシェの連続に辟易することに気付いた。そこで、20代初めによく聴いたフリージャズ系のミュージシャン、マリオン・ブラウンのアルバムを引っ張り出してターンテーブルに載せた。これが思ったよりスラスラと耳に入ってきた。60年代の若いミュージシャンたちのやっていたことに、今さらながらグッと来たのだ。彼らには新しい歌を創造しようとする熱意が聞こえるし、それまでにないラインを紡ぐアイデアが次から次へとほとばしる。これが自分の原点だったんだ、ってなものだ。それに周りを固めるミュージシャンも繊細なことこの上ない。これはPCに取り込んでCD化するっきゃない。なにしろCD化されたものも今や廃盤で入手の手立てはない。
 しかし、60年代のジャズシーンは本当に面白かったと思う。ターニングポイントはマイルスの電化だった。あれを境にジャズの演奏家は次第に行き場を無くしていった。ロックだって様々に進化していったし、もちろんマイルスに何の責任もない。時代が要求したともいえる。人が新たな刺激を求めたわけだ。ビートルズも70年に解散して一つの時代が終わりを告げた。70年はマイルスが「ビッチェズ・ブリュー」を発表した年でもある。
 行き場をなくしたジャズメンの多くがヨーロッパを活動拠点とするようになった。マリオン・ブラウンなどもその口だったが、60年代に残したアルバムとは少しずつ変わっていき、電化されたサウンドのアルバムも作るようになった。結局のところニュージャズ系のミュージシャンの輝いていた時期はとても短く、4、5年だった。その期間に作ったアルバムが今でも何かを感じさせるのは凄いことなのだけど、その次に行く場所が見つからなかったということが芸人の世界の過酷さを示している。
 現代のジャズメンはテクニカルな知識も豊富で、誰もが複雑なラインをいとも易々と紡いでみせる。聴いたことのない新しいラインを紡ごうとすれば複雑になるのは止むを得ないのかもしれないが、シンプルなアイデアが活かされないというのでは袋小路に入ってそのうち行き止まりになるような気もするわけだ。なんてことを言っていると、「それでは」ってんで別サイドからの切り口で答えたKamasi Washingtonのような演奏家が現れた。ダウンビート誌の批評家のランキング、ニュースター部門で俄然注目されている。次世代の演奏家として期待されているわけだが、決して深刻な表現を目指しているものではない。アルトサックス奏者として感心していたGrace Kelly女史も近ごろは妙な路線に走っているし、僕らにとっては混迷のシーンにしか見えないものが、実は次世代の真実というか本音なんだろうなと思うしかないのだ。そこで、私などは60年代に聴いたアルバム、今や忘れ去られようとしているものの幾つかを「あれは良かったよなー」などと言いつつゴールへ向かってヨタヨタと歩いていくことになるわけだ。たぶん。

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