☆☆☆

採譜


 ホームページのリンダ・オーの情報が古過ぎるなあってんで、近年のアルバムなどを参考にするつもりで聴き出したはいいが、楽曲の構造の相変わらずの複雑さに取り込まれて採譜を始めてしまった。



 彼女の作るラインそのものは単純なものだったりするが、とにかくリズミック・フィギュアが独特で、メロディが裏から入るパターンなども多くて譜面に起こすのにとても苦労する。メンバーはドラムに黒人プレイヤーが入ることもあるが、だいたい白人のテクニカルに優れた演奏家を起用する。複雑な曲を軽々とやってのけるから、どちらかというと腹立たしい。サックスのベン・ウェンデルはジョシュア・レッドマンの影響を受けたと語っているが、7拍子だろうと何だろうとサラリと吹き抜く。あまりのレベルの高さに沈黙するしかない。リンダ・オーも最初のアルバムを自主制作でリリースしたときは25才だったが、今や34才の中堅。評価も高く、ダウンビート誌の批評家の投票では、2年ほど前からクリスティアン・マクブライド、デイブ・ホランド、ロン・カーターに次ぐ4位にランクされている。パット・メセニーのツアーに参加したことなどで知名度はかなり上がった。最初に聴いて「おっ、このベースは凄いぞ」と感じたことが間違いでなかったことに鼻高々なのだ。実際のところ、このようなタイプの音楽をやりたいというものでもないが、構造が把握できないというのも悔しく、ついつい向きになって一時間ほど費やし、出来るかどうかはさて置き採譜は終了。脳味噌が疲れたのが分かるってな案配なのだ。

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murder


 陽射しは既に夏、気温も上がり夏日だったとか。寒いのが大嫌いなとうちゃんとねこ共に取ってはありがたい日々。



 ここ数日騒がれていた小学生の殺人容疑者が逮捕された。見た目は普通の若い男で凶行に及ぶような印象はない。事件を聞いたとき、30年ほど前の宮崎勤を思い出した。宮崎は4人の幼児を殺害し、その異常性が取り沙汰された。犯行から20年後に死刑執行されたが、新潟の事件の容疑者にしても放っておけば犯行を重ねたかも知れず、逮捕に至ったのは良い知らせには違いない。子供に危害を加える異常者は度々現れる。異常性愛者だったりもするが予期できない。アメリカは銃社会というものもあるが、今年に入ってからだけでも殺害された子供は110人に達している。過去にもニューヨークで刑務所から出たばかりの黒人の男が8人の子供を含む10人を殺害した。他に読み進めるのもおぞましい事件の詳細が書かれたいたりするが、ここでは触れない。
 宮崎の場合は父親は自殺しているし、家族は崩壊した。今回の容疑者の場合も同じような軌跡を辿ることになるに違いなく気が滅入る。ここには宮崎の事件の詳細が書かれている。
 暗い事件の話だけでは何なので、またかよ的に薔薇・・・。

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酒と薔薇の日々


 しつこく薔薇、くどくも薔薇。それで、その薔薇だけど、箱バン時代から何かというと演奏した楽曲に「酒と薔薇の日々」というものがあった。ヘンリー・マンシーニの書いた名曲だ。



 あまりにも度々演奏したものだからバンドマンの間では飽き飽きしている向きも多く、曲名を告げるには躊躇いもあった。「えー、酒薔薇かよ」というような反応を恐れたわけだ。いい曲なんだが迷惑な曲でもあったのだ。困ったときに「酒薔薇・・・・でも・」ってな感じだ。いろんな形でやった。佐藤允彦さんは旅先の酒の席で、ベーシストがうっかり洩らした一言で閃いたらしい。それは「酒薔薇」を7拍子でやるというアイデアだった。次の日のライブでアレンジされた譜面を渡され、ドラマーは天を見上げたそうだ。「だからさ、うかつにアイデアを提案するとさ、こうなっちゃうんだよ」とベーシストを恨んだそうな。ホテルに帰ってからアレンジしたらしい。

 肝心の映画「酒と薔薇の日々」を観たことはなかった。タイトルが示す通り甘い映画かと勝手に想像していたわけだが、こないだ格安のDVDを入手して観たところ、エッと驚く内容だった。アル中の映画だった。アルコール中毒だ。粗筋詳細は省くが、ジャック・レモンの酔っぱらいぶりが見どころの一つでもあるらしい。
 さてアル中だ。わが師匠、菊池先生も晩年は酒に苦労した人だった。最終的にはアルコール依存症の治療を行なう施設に入所されたとも聞いた。僕が37、8でスタジオワークに専念しているころ、ある朝早く先生から電話が入った。5時半とか6時とかでまだ外は暗かったように覚えている。そんな時間に師匠からの電話だ。何かのっぴきならぬ事態が起こったのかと誰でも思う。しかし、師匠の第一声は「ああ、ふちの、元気?」という気の抜けるような言葉だった。こっちは寝起きで頭もはっきりせず、事態が良く飲み込めない。いわゆる世間話のようなものに相づちを打ちつつ、「これは何だ、普通の電話だぞ」と気付き30分ほど付き合うことになった。そこらの事情に詳しい方によると「ああ、秀ちゃんはさ、毎朝始発のころの駅に行ってさ、駅の売店でワンカップと新聞買うのが日課でさ、いや、その時間に開いている店あんだよ。で、飲みながら帰ってくるだろ。帰ってきたときはいい気分なわけだよ。うへへへ」・・・らしい。毎日続いたらどうしようと心配もしたが、その日だけで終わってホッとしたものだ。
 師匠の酒はほとんど絡み酒だった。言いがかりを付ける手合だが、押しの強さは誰もかなわないほどだったから、絡まれた方は本当に困ったそうだ。当時付き合いのあった共演者にそのことを聞くと、誰もがうな垂れてため息をついた。記憶に残っているのはラーメン屋でのことだ。カウンターに座った師匠に店主が「はい、お待ちっ」と丼を差し出すと、師匠は詰問するような物言いで「ねえ、あのさ、天皇陛下、どう思う?」と訊いたそうだ。ここで驚くのはそんなことで絡まれた方が怒れなくなることだ。蛇に睨まれた蛙状態になって言葉を詰まらせ、アウアウと口をパクつかせるようになってしまうという。どうしてか分からないが師匠にはそんな特異な能力があった。答えようのない言いがかりに固まってしまう。弟子には厳しくとも、そのようなことはなさらなかった。師匠のあの癖は本人が自覚していたかどうかは分からないが悪意だったと思う。巧妙に仕組まれた悪意を放ち、人がそれで困るのを楽しんでいたような気がするのだ。その悪意を放つことがストレス解消だったかも知れず、酒の上でのこととの言い訳で防御も万全。迷惑な酒だったことは間違いない。だいたい交渉事には滅法強く、自宅が電車の路線拡張に伴い立ち退きを余儀なくされたときも交渉人が音を上げるほどの強さで押し切り、自宅は少し離れたところに3階建てのビルとして建て直したほどだ。正真正銘の「酒と薔薇の日々」と言えなくもない。

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反復



 ドクダミの花はどういうわけか懐かしい。子供のころから度々見かけ、ありふれた花なんだが、おまえここにもいたのか的に何らかのイメージがインプットされているらしい。
 近ごろ、演奏家として結局は何も出来ていなかったような気分に陥ることがある。そもそもジャズへの指向は20代終わりに放棄したようなものだから、ジャズメンとして生きようとしていたわけではなかった。しかしながら即興でラインを紡ぐことに取り憑かれたことだけは確かだから、放棄し切れなかったらしい。若いころジャズから離脱する形になったのは、実力不足もあるが、吹くラインが全て自分のものではなくどこかから借りてきたものばかりのように思え、そんなことを一生続けるのかと不安に駆られたこともある。もっと他にいい表現方法があるのではないかというような、いわば消極的な前進を目論んだわけだ。それはある部分で功を奏し、スタジオの中で8小節ほどの限られたスペースで自由に吹くということに繋がった。
 この歳になって再びジャズのアルバムをよく聴くようになった。コルトレーンがラシッド・アリと残したデュオアルバムやブランフォード・マルサリスの最近のもの、ベン・ウェンデルなどだ。ベン・ウェンデルはベースのリンダ・オーのアルバムで知った。その誰もが同じことの繰り返しではなく、常に新しいことにチャレンジしていることに今さらながらに気付いたのだ。そりゃあ昔から気付いてはいたが、気付きようが異なるというか、まったく実践的な意味で理解したのだ。それは昔のジャッキー・マクリーンのいくつかのアルバムもそうだし、ジョン・ハンディのアルバムだって例外じゃない。彼らの歌の作り方は見事なものなのだ。
 自由であることは時々逆に自由を束縛される。ある曲を題材にラインを紡ごうとすると、どうしてもクリシェから逃れられなくなったりする。ようするに慣用句を羅列しがちになる。それを全部チャラにして新たに吹く。紡ぎ方が見えたと感じる瞬間が訪れる。そうだ、これだと出口が見つかったような気がする。それで再び最初からチャレンジすると、あれってな感じでそれが失われている。その繰り返しで一日が終わる案配。そんなことは分からないという向きには何のこっちゃなんどけど、つまり失われた集中力と戦っているということ。

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消えていくもの


 4月、所用で近くに行ったついでに、思い出深い塔の山の住居を訪ねてみた。取り壊しが始まったところだった。そりゃあ、まあ50年も前の住み処だから老朽化は避けられず取り壊しになってもおかしくはないが、あの頃が消滅したような気分になった。



 何度も書くが、とにかくここでの生活は人の出入りがことさら多く、共に演奏した方々のほとんどが来た。ベースの松永君も来て酒を飲んだ。松永君の住んでいるアパートは四畳半ほどの部屋で、そこにベースも置いているという。どんな生活だと聞くと「いやあ、普段は床に転がっているけど、寝るときはカーテンに括り付けて立てるんだよね。そうすると横になるスペースが確保できるから。いやあ、ここも広くはないけど何だか居心地がいいねえ」と言う。気分が良かったらしく酒が進み、さて駅まで送っていこうかと外に出ると、いきなり走り出す。深夜12時近くに追っかけっこをする羽目になった彼は確か四国のどこかの出身だったはずだが、その後帰郷したと聞いた。スコット・ラファロがお気に入りだった。
 川西さんはキャバレー時代のバンドのピアニストの一人だった。当時同じバンドにいた彼は埼玉の方から遊びに来てくれた。僕はそのころ金に困っていて、そんなことを洩らしたのを川西さんは聞き逃さなかった。コーヒーを飲んでしばらくすると紙袋の中から取り出したものを見せてくれた。それは宝石箱のようなものに入れられた腕時計だった。俺も現金の持ち合わせはないけどこれだったら提供できる、高価のものだからこれを質入れして金を作れというのだ。驚いた。いや、それはあまりにも・・・と丁重に断った。そんな気遣いをする人だった。ある時は毎日のように自転車でやってきたベーシストもいた。中野富士見町あたりから来るらしかった。ピットイン時代の仲間のトロンボーンの板谷、ベースの早川なども度々来た。上田正樹氏のバンドにいるころはバンドのメンバーが来た。狭い部屋に5、6人が座を囲みレコードを聴いた。アルトの小沢君は女房同伴で朝までいて、ついでだから朝飯でも食って帰ればってんで朝飯を食い、そのまま話が盛り上がり、ついには昼飯を食ってお開きになった。ベースの菊池君とギターの小林さん(僕らは小林少年と呼んだ)も頻繁に来た時期があった。小林さんは当時の周りのものには珍しく車を所有していて、当てのない深夜のドライブが恒例になった。



 この3階の角部屋がいわゆる青春時代といって差し支えない。大久保通りから少し入ったところにあって、手前に見えるフェンスは最高裁の宿舎の入り口だった。



 今は廃虚だが、ここに寝泊まりする最高裁の関係者がいたのだ。朝になると次々と黒塗りのお迎えの車が来た。何か重要な裁判の案件があると突然簡易ポリボックスが建ち、警備のお巡りさんが常駐した。あの部屋の居心地の良さは、道を隔てて小学校の理科室、大きなスペースを隔てて宿舎という立地にあったような気もする。隣り合うアパートがあるわけじゃなし、部屋の箱が独立した空間に浮かんでいるようなものだった。
 ま、お年寄りが昔を懐かしんでいるだけの話だが、20代の自分は懐かしんでも懐かしんでも懐かしみ切れないものなのだ。

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