☆☆☆

おい、めし


 いつの頃からか昼寝が欠かせなくなった。加齢による疲れから来るものなのか昼の1、2時間の微睡みが殊の外心地よい。特に午前中のトレーニングが盛り上がった後は尚更で、この場合は完全な睡眠になる。邪魔するものは何もないと言いたいところだが、時々ねこ共の邪魔が入る。隣の部屋からみかんの声がする。ごはんの要求だ。「さっき食べたじゃん」と無視してみるが、声はどんどん大きくなる。たまらず「みかん!」と叫ぶ。すると一端声は収まり静寂が訪れるわけだが、その妙な間が曲者なのだ。しばらくすると「トトトトトトト」ってな足音が聞こえる。ベッド脇に到着。「うん」とか「おっ」ってな掛け声でベッドに飛び乗る。それからがすごい。何の躊躇いもなく、横になっているこちらの胸の上を歩いていくのだ。それで去り際に振り返り、こちらをチラッと見る。どうやら「これで分かったに違いない」ということらしい。それで「ごはんか?」と言うと、目を輝かして皿の前に急ぐ。ま、何だかんだ抗議活動も功を奏し、会話が成立したわけだ。



 パスタの我が侭ぶりも磨きがかかってきていて、ヤツは昨夜出して食べ残したものは食べ物と見なさない。まだたんまり入っているにも関わらず「ニャオー」と悲痛な声を出してみせたりする。あまりにも多く残っている場合は「ちゃんと最後まで食べろ」と叱る。渋々食べる。残りの量との兼ね合いで新しい缶が開けられるかどうかの判断は少し分かってきたらしい。仔猫のころ、忙しくしていたものだから家を空ける時間が長くなることが多かった。それで皿に食べ物を大目に入れて仕事に行った。そこらで不規則な食事時間の癖がついた。毎日同じ時間に食事を与えることが出来なかった。勝手気ままに要求することが当たり前になったのだ。そんな生活をしていて時々思うのは、「こいつらは飼い主などと認識していなくて、まかないのおっちゃんとして見ているに違いない」ということだ。

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アドリブ・ソロ



 バインダーが4冊。この10年ほどの間に採譜したソロの譜面が収められている。ソロコピーはプロとして活動を始めたころからの習慣に近い。ギターの和泉くん言わせれば「趣味ですから」ということになる。今でもオヤッと思うソロを聞くと採譜してしまう。それが何の役に立つかと訊かれれば、たぶん徒労になると答えるしかない。だいたいソロのコピーなど全体を通して再現できるものはない。どこかで引っかかるというか、謎の小節が必ずある。コルトレーン然り、ロリンズ然り、マイルスに至っては「どうしてここでこんな音を?」というものが散見されて謎は果てがない。もちろん理路整然としたソロもないわけではないが、そういったものはソロとしては案外つまらない。勢い余って行っちゃった感のあるものの方が面白い。アドリブソロの教師をしている仲間もいるわけだが、そこで習うのは基本的なことであって、そこから先は各々で工夫するしかない。チェット・ベイカーもインタビューで語っているように、そこからってのが大変なのだ。たとえばビバップの語法を習う場合、それは結果的にコード進行の流れを説明するようなものになる。覚えたフレーズを並べるだけだから、どちらかと言えばパッチワークになってしまう。それでは先がない。スタジオワークのソロの録音で楽しかったのは、コード進行の中から新しいメロディラインを工夫することだった。そういった意味では、採譜した多くのソロの中にヒントが限りなくあった。
 ミュージシャンになり立ての頃、情報は恐ろしく少なかった。理屈もよく分からず、しかしながらレコードを聴いて情報をかき集めることが大事だった。採譜を始めたのは止むに止まれずというものだった。オープンリールのテープデッキを買ってからの2年間ほどは、毎日雀の鳴き始める朝方まで採譜に明け暮れた。あらゆる楽器のソロを採譜した。意地になってやっていた。そこまで採らなくてもというものまで採譜した。当時の鉛筆書きの楽譜には小さな間違いも多い。しかし少々の間違いは問題ではなく、おおまかに全体が見えることが大切だったから気にせずに続けた。名を知るプレイヤーのほとんどがターゲットになった。採譜しなかったプレイヤーを探す方が大変なほどだ。自分はさて置き、毎日のようにステージに立った多くのプレイヤーたちが、昨日と違うアプローチの為にどれだけ苦心したかが採譜した多くのソロに隠されている。その中には明らかにコードから逸脱したものも多いし、分析しても分からないものもある。それぞれの冒険は底なしに近い。しかしながらそのような冒険がジャズを作ってきたに違いない。その妖しさに惹かれて今に至っていることだけはよく分かるってなわけだ。

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不完全過ぎる思い出たち



 ジャズのライブを始める前、キャバレーやクラブなどで過ごした日々が掛け替えのない時間だったことは確かだが、歳を取って思い出すのはすべてが断片で切れ切れ。懐かしむ糸口がやたらと狭い。赤坂の高級クラブにはフル編成のビッグバンドで出演した。しかしながらフカフカの絨毯の張り巡らされた床が響きを吸い込んでしまうものだから、まるで無響室で演奏しているようで辛かった。同じ赤坂の大きなキャバレーはステージが可動式だった。ビッグバンドの演奏が終わるとステージがゴトンと音を立てて横にスライドし、待機していたチェンジバンドのステージと入れ替わった。チェンジバンドはコーラスグループの外人たちで、「ヒデとロザンナ」でデビューしたロザンナのおじさんだと聞いた。銀座のクラブ「アスターハウス」に客として現れたのは藤田まことさんだったが、思ったより大きな方で、優雅にホステスさんと踊る姿は、僕らの世代が馴染んだ「てなもんや三度笠」の人とは違うように見えた。池袋のキャバレーではラストの曲でステージが暗くなるとたびたび鼠がステージを走り回った。足の上を通ったと騒ぐメンバーもいたほどだ。赤坂のホストクラブ、当時はホストクラブそのものが珍しいものだったけど、運転手付きの大きな外車で送り迎えされる御婦人も見かけたその店では、厨房の裏の方に大きな猫が3匹ほどいた。ねずみ対策だと聞いた。深夜になると放されたいたらしい。思い出は語り尽くせないほどあって、語っていれば一日や二日では無理だろうが、残念なのはその場に居合わせた筈のメンバーの顔はもちろん名前もほとんど思い出せないことだ。長年付き合いのあったバンマスの寶崎辰人さんは別格だが、それでも何人かは覚えていて、チャキチャキの江戸っ子で喋るとべらんめーだったテナーの遠藤さん、喘息持ちでワンステージ目を過ぎると吸引していた薬が利き始めてラリってしまうピアノの河西さんなどは姓を覚えている。旅帰りの山手線の車内で偶然会ったテナーの久保田さんは名前を思い出すのに少々時間を要した。池袋のキャバレーのピアニストはバンドマンとしては異色だった。学校の先生風でインテリであることを隠せないその方の前職はオーケストラのヴィオラ奏者だった。ヴィオラのトップだったというから大した経歴だ。しかし、彼は指の疾患でヴィオラを諦めた。指の疾患と聞いて、当然弦の上を滑る指だろうと思ったが違った。弓を持つ方の指が鬱血して続けられなくなったということだった。鬱血は化膿して臭うほどに悪化したという。指板を滑る指というものは力まかせではないけど、弓を支える指はかなりの緊張を強いられ、加減に力が入ってその度が過ぎたのだと仰った。厳しい鍛練が偲ばれて同情の言葉もなかった。在籍した2ヶ月ほどの間、そのピアニストとは色んな話を毎日したはずだが、名前も顔も思い出せない。当時の写真はない。今なら携帯電話のカメラでいくらでも残せただろうが、カメラを持って歩くなどということはあり得なかったし、たまに集合写真を撮ったこともあるが、そんなものは何枚もない。当時の仲間たちを写真に残していれば、思い出に浸るのも潤沢な写真を前に潤ったのにと悔やまれる。

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虚像


 若くしてスターに登りつめる代表がアイドルという存在だった。そこに至るまでの確固たる方法があるわけでもなく、しかしながら目指す女の子はそこら中にいた。いろんな噂を耳にした。ずいぶん昔の話だ。どんなプロダクションだったかは謎だが、ある養成所ではスッポンポンの裸で一時間畳の間に座らされる訓練があると聞いた。みんな「ええーっ」と声を上げたが、その養成所にいたという女の子と付き合った仲間が言うものだから半信半疑でも「そうなんだ」と声を顰めた。そういった訓練は羞恥心というものを取り除く目論見で行われていたという。なんと乱暴なやり方かと驚いたが、アイドルと呼ばれた人には元ヤンキー、いわゆるスケバンのような存在で闊歩していた方もいたからあり得ないことでもない。箱入りお嬢様では務まらない世界というか、何にしても度胸が大事だってわけだ。どちらにしても容姿に自信のある若い子が大勢集まるそのような場所では二十歳を過ぎるともう望みはないとも聞く。ずいぶん前にアイドルを目指していたことがあるという女性と知り合った。付き合ったわけではないが、交流があって幾度かライブにも足を運んでくれた。すでに若くなく、中年にさしかかる一歩手間だったが、若いころはさらに美しかったに違いないと想像させる華やかさがあった。しかしながらその歳になってもアイドルへの執着が消えていないのが理解できなかった。普通に生きることを拒否しているようにも見えたし、そもそも普通に生きることが分からないようにも思えた。 
 ほとんどテレビを見なかった時期に誕生したスターの一人が天地真理という人だった。見ないといっても、この方はあらゆるメディアでもてはやされたから見るともなく見ることになった。ヒット曲も知っているほどにだ。先日、彼女の全盛時の姿を見て驚いた。その可愛さは群を抜いていた。後にも先にもこんなアイドルはいないと断言できるほどに見えた。ブームを巻き起こしたのもむべなるかなってな感じだ。まさに70年代のスターだった彼女も30代半ばになるとアダルト映画に出演したりして迷走し始めた。アイドルのまま歳を重ねることは不可能だろうし、どこで転換を図るかは難しい。週刊誌は「元トルコ嬢だった」などとバッシングしたこともあったし、良からぬ噂を撒き散らすことに余念がなく、人気の陰りに追い討ちをかけた。スターというものは虚像であって、実際にどんな人なのかは知らずともいいわけだが、ほじくり返して転覆させずには置かないのがこの世界らしい。そんな流れもあって彼女は消えていった。そして60歳近くになって再びテレビに姿を現したとき、彼女はそこらにいる普通のおばさんになっていた。歳を取れば誰だって変わる。変わらないわけがない。芸能界には70を過ぎても若いころの輝きを維持し続ける方もいるわけだが、その方が異常なのだ。倍賞美津子さんは年齢に逆らうことなく存在感を失っていないが、稀な方であることは確かだ。
 天地さんは容姿のケアーにまったく無頓着だったらしく、あまりといえばあまりの変わりようだったが、見られるということを意識せずに生きるということはそんなものらしい。だが、70年代の彼女の輝きが特別なものであることは間違いないのだ。

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ポセイドン・アドベンチャー


 20代初期、夜はだいたい箱バン者であって店の中にいたから当時のテレビ番組というものは縁遠いものでしかなかった。昼のテレビは「3時のあなた」とかワイドショーの走りが始まったころだ。夕刻になると昔のドラマ番組などの再放送が多かった。その7、8年前の番組も面白く見ていたが、70年代のテレビ番組にはとても疎い。キャバレーというものはお正月に休むところもあったが基本的に年中無休だった。それで4年間ほどは世の中の動きに疎いままに過ぎていった。連合赤軍の浅間山荘の事件にしても、仕事に行く前にテレビ中継を見て、帰ってきてテレビを点けるとまだやっていた。「あれ、まだ続いてんだ」と驚くような案配だった。そのような生活の中で息抜きになったのが映画だった。ありがたいことにオールナイト興行というものが定着していて、仕事が終わってから行くことが出来た。最終上映は深夜一時ぐらいからだったから、連携はピッタリだった。食事を済ませて新宿のコマ劇場の建物の中の「新宿プラザ」か靖国通り沿いの「ピカデリー」に行くことが多かった。夏になると上映が終わって外に向かうと眩い光に迎えられた。歌舞伎町から新宿駅に向かう人は、いつも気だるくスゴスゴと群をなしていた。ロードショー館でもオールナイト興行はもう一本併映した。そうしないと一本では朝まで持たないからという配慮だった。月に一回は行ったが、この併映作品は限られていたらしく、月が変わっても同じものということもあった。それでアラン・ドロンの「ジェフ」は3回も見る羽目になった。寅さんシリーズ、仁義なき闘いシリーズ、等々多くの映画を観たわけだが、深く脳裏に焼き付いた映画が「ポセイドン・アドベンチャー」だった。この前の年にオスカーを受賞したジーン・ハックマン主演のパニックものだが、船が完璧に裏返ってしまうという設定もよかったし、なにしろアーネスト・ボーグナイン、シェリー・ウィンタース、レッド・バトンズと共演陣も見事だった。この映画を観たころはピットインの朝の部を始めたころだったから、映画の緊迫感と実際の生活の中になんらかの共通点があったのかも知れないが、ことさら深く印象に残るものだった。何年か前にこの映画のDVDを買った。当時と同じぐらい楽しめたし、たまに見ても最後まで観続けることができる。映画の面白さ云々よりも、これをリアルタイムで観た当時の20代初期の自分と再会できるような気分になるのかも知れない。

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