☆☆☆

失われる音


 台風一過、息を吹き返したように夏が躍り出る。これでもかと言うように夏の雲が空を席巻する。



 2007年4月30日、NHKのスタジオにいた。どんな音楽を演奏したのかは覚えていないが、大きな編成での録画だった。



 2009年1月6日は確かキングレコードのスタジオだったと思う。ひげ面の好漢はメインをバリトンサックス奏者として活躍した宮本大路氏。見た目は無理を承知で言えば同世代とも思えるが、8才ほど年下で、目上に向かっては敬語で話すきっちりした人だった。



 過去形になっているのには訳がある。一昨日あるライブハウスのスケジュールに宮本大路トリビュートバンドとの表記があった。トリビュートって何?と気付き調べると、彼は2年前の10月に亡くなっていたのだ。ショックだった。スタジオでの仕事が多いころには、サックスセクションのオーダーがあれば必ず電話をする一人だったし、数多くのCMなどの仕事をした。結局は録音スタジオでの付き合いがすべてで、例えばライブ活動などでの接点はなかった。
 個人的にはビッグバンドというものが嫌いで、その界隈に足を踏み入れることはない。コンボ屋だと謂うものでもないが、若いころの数少ないビッグバンドでの経験からそうなっていった。編成の多いバンドには派閥というか、ヒエラルキーが必ず形を成す。それは演奏の優劣などで決まってしまうから仕方ないことなのだが、その空気が鬱陶しくて遠ざかるようになった。
 第一、ソロの出番は限られ、他人のソロの間はなんとなく時間をやり過ごす体になる。ま、ビッグバンドのサウンドが嫌いなわけではない。それはそれで自分で編成して出来るものならやってみたい気はある。
 大路くんは自分のグループも率いていたが、多くのビッグバンドで活動していた。そこらで会う機会は減っていった。気付けば、自分はみんなと歩調の合わない場所で生きていたわけだ。上の写真を撮った後に会ったかどうかも定かではない。しかし、5年ほど前に突然電話が入ったことがあった。何かの仕事の控室からの電話だった。特に用事はないのだけど、どうしていらっしゃるかと思って、声が聞きたかったんですよなどという。あれが最後の会話になってしまった。
 過酷な闘病生活だったと聞いた。還暦前に逝ってしまうのは悔しかったに違いない。また切磋琢磨の末に磨かれた一つの音が失われた。

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新たな挑戦


 ライブの翌日、ピアノの大石氏からほとんど緊急の連絡。彼はここ数年レコードレーベルからではなく、自宅で制作した音源をCD化して20枚近く発表しているのだが、その制作に関わるスタジオが生楽器の録音も可能になったという。それで、今までライブで頻繁にやっていたが録音に至らなかった曲などを発表するべきだという。録音スタジオを借りるととんでもない金がかかるし。ましてやプレイヤーを呼べば製作費がかさむばかり。
 曲作りはイメージがまとまったらコンピューターのシーケンスソフトでシミュレートして形を整えるという方法で20年近くやって来た。それをメンバーに聴かせてイメージを喚起すれば話が早いのだ。そうやって作るから、サウンドの音の重ねもベースラインも割合細かく書かれた譜面が出来上がる。ピアニストには任せる形にしてはいるが、大石氏はだいたいその通りに弾く。ま、信頼してくれているわけだ。バンドでオリジナル楽曲を演奏する場合、細かい部分を演奏者にまかせてしまう方法もある。しかし、経験上、この方法だと予定していたイメージの20パーセントか、下手をすると10パーセント程度の成果しか得られないことが多い。それはプレイヤーの責任だと一概に言えるものでもない。聴いたこともない曲をいきなり出されて、サウンド構成からベースラインまでお任せする方に少々無理がある。それで出来得る限りの具体的なイメージを伝えることが重要になる。具体的なベーシックサウンドを提示すると、プレイヤーはそれぞれに自分のアイデアを付け加えてくれるから、結果はうまくいけば200パーセントになるわけだ。大石氏の提言では、あのデモテープのシーケンスデータで充分成立するというのだ。あれにサックスを入れて、バックのキーボードをオレが弾けばパーフェクトだと笑う。



 予期しない申し出に戸惑いはあったが、チャレンジする気にはなってきた。最初のアルバムを作った際に洩れた曲は多い。今でもたまにやる早いファンクの「moh moh」とか、初期のライブでは必ず1曲目にやっていた「92」、録音したがあまりうまく行かず没になった「Dr John」、気に入っていたがいつの間にか演奏しなくなった大晦日にほとんど徹夜で拵えた「Last Night」などなど。「92」は今は亡きセシル・モンローが「これはチャイルドだ、子供の歌だ」と言ったから「チャイルド」にしようかってな感じで、それだったらテーマ部分に子供の声が入ればいいなとか、イメージばかり膨らんでいく。すっかりその気になっているわけだ、これが。それで古いシーケンスデータを開いてみた。



 うーん、これは難事業になるなという予感はあって、少々気は重いが1曲ずつやっつけていくしかないと腹を括ることになった。とりあえず録音していない曲が20曲は下らないから新曲を作るほどのプレッシャーはないが、緻密に再構成して行く作業はかなりの集中力が必要だ。気長に1年ほどかけて録っていくことにしよう、ってな感じだ。

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雪辱


 27日午前1時40分、サムタイムのライブから帰宅した。実にめでたいことに昨年のリベンジ、というか何に対して雪辱を果たしたのかは難しいところだが、1週間ほど呻吟を繰り返して創った曲の数々が浮かばれ成仏した。前回は1曲目のベースがもたつき、その上で始まったピアノサウンドがすでにアウトだった。どうしてか分からないがお遊戯会のピアノの先生のようだった。「あっ、今日は大変なことになった」と焦り、予定の曲を急遽入れ替えて対処しようと図ったが、酷くなるばかり。そればかりか、遂にはピアノ弾きがアホな切れ方をしてお帰り願う事態になってしまった。軽くトラウマになった。ミュージシャンは基本的に同世代のプレイヤーと生きるしかない。若手の世代と一緒にやるのもひとつの方法だが、分かりあえる余地は同世代の方がずっと大きい。しかし、あの件でその一角が脆くも崩れ去ったように思えた。もう引き時かと考えたのだ。気を取り直して、1月に若手とライブをやってみた。これも手強く、まるで障害物競走のようになった。諦めきれずにもう一度と組んだのが昨夜のライブだった。



 迷いは雲散霧消。心地よい瞬間がほとばしるライブになった。すべての曲が息を吹き返した。大石の力も大きい。同世代のベースの久末氏は、ボトムをしっかり支えてくれたし、吹きやすいったらありゃしない。同窓のトロンボーン奏者宮地利治に捧げた「The Very Thought Of You」は見事なタイミングで大石がストリングスを入れる。亡きヤツを偲ぶ曲でまた泣きそうになった。先日レコーディングに参加した歌手の三輪知可さんも駆けつけてくれて、泣いたと仰る。さらには間奏での大石のソロはハーモニカのトゥーツ・シールマンスのようだった。あの曲が昨夜のライブを象徴していたように思える。豪放なファンクとセンシティブな緩が起伏を織りなし極上のライブになる。期せずして目論見は開花し、アンコールの「Crazy He Calls Me」で止めだった。たぶん、今までのライブから一皮むける切っ掛けになるのではないかと思われた。というか、またライブを続けられるってのが実にありがたい。

 昨夜のセットリスト
1 王様の耳
2 Evening Haze
3 Old Man
4 Calm Wind  
5 Dr John 
6 Cussedness

1 The Very Thought Of You (Standard)
2 Detour
3 Hush Little Baby (Traditional)
4 Sad Wings
5 Spiral Upstairs
6 Blueberry Hill (Standard)

アンコール
 Crazy He Calls Me (Standard)
括弧表記のないものはオリジナル

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朝顔


 夏休みに入ってスーパーなどで子供の嬌声を聞くことが増えた。そりゃあ嬉しい。夏休みに入って1週間ほどは躁状態だったことを思い出す。次第に足は遠ざかったが、面白くもない朝のラジオ体操にも1週間は真面目に通った。夏休みは蝉を捕ることも義務のように果たした。虫かごに無理にでも詰め込み、蝉たちは朝の通勤ラッシュの電車内のような状況で息も絶え絶えになった。蝉を飼うことは出来ないし、結局は放してしまうのだけど、蝉たちには申しわけなく悪いことをした。毎年のようにやったことは朝顔を育てることだった。水を含ませた脱脂綿の上に種を散らし、その皿を暗い押入れに入れて置くと数日で発芽した。頃合いを見計らって土に植えれば簡単に朝顔は育った。後は細い竹の棒でも立てておけば、やつ等はスルスルと蔓を伸ばした。単純作業だから苦もなく植物の栽培を経験できた。



 最初の花は毎年感動した。「おおー、咲いた咲いた」ってなものだった。しかし、朝顔ってものは朝だけの命で、昼ごろには咲いたことを後悔でもするように、だらしなく萎れうな垂れた。その都度ガッカリした。それでもガッカリを何年か繰り返した。



 朝顔なんて東洋だけのものかと思っていたら、欧米にもあった。北の地方では育ちにくい植物らしく種類は少ないが「Morning Glory」というらしい。直訳すれば「朝の栄華」ってなことだ。
 最初の写真はアメリカのガーデニングサイトのものだ。これが僕らのイメージに最も近いもので、他はだいたい色合いのけばけばしいものが多い。



 品種改良の果てと思われるが、どちらかと言えば「我がもの顔」ってな気もする。



 近ごろは蝉の声を聞くことも少なくなってきたし、花の栽培に熱心なおっちゃんの家の庭でも朝顔を見ることはない。たぶん、おっちゃんもしおしおになってしまった朝顔の花どもを見るのが嫌なんじゃないだろうかと勝手に推察している。

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ムーンライト・セレナーデ


 今日はスタジオの予約が午後の4時間、さすがに4時間吹きっぱなしというのはヘビーで、結局は30分早く切り上げた。とは言え、吹き始めれば3時間強は夢中になれるし、やるべきことが次々と浮かんで、体力さえあれば一日中だって問題ない。だが、ま、無理は良くない。
 昨夜、久々にDVD「グレン・ミラー物語」を観た。甘味なエピソード満載の映画は一挙に最後まで観てしまう説得力がある。なにしろヒット曲の数々が次々演奏されるし飽きることがない。



 駆け足で綴られた映画の内容がどこまでが真実かは分からない。ムーンライト・セレナーデのクラリネット・リード・スタイル誕生の経緯も謎だし、レコーディング・データを見ると「茶色の小瓶」の録音は「ムーンライト・セレナーデ」と同じ年だ。映画の最後、亡くなった後の放送で、残ったメンバーが妻に捧げる形で演奏したとされているのは事実とは異なることになる。事実に基づいて描けばいかにも事務的な報告になるかも知れず、映画的な創りだから仕方ないとも言える。しかしながらヒット曲を量産した手腕は流石だと言うしかない。たいした方だったわけで、あの時代を席巻するセンスがあったことは間違いない。

 娘のジョニー、息子のスティーブ共に音楽に進むことはなく、スティーブは銃工として生き2012年に亡くなっている。一方、ミラーの兄、甥のジョン、姪のウィンは音楽の道に進んだ。ジョンはイギリスで自分のバンドを率いていて、叔父の音楽を再演したりもしている。妻のヘレンは、グレンが亡くなった後、彼の遺産を管理するプロダクションを設立し、グレンと関わりのあったサックス奏者テックス・ベネケの助けを借りてバンドを再生させたが、運営に関しての行き違いからトラブルもあったとされている。彼女は次第にグレンの音楽からは離れていき、1966年に64才で亡くなっている。
 グレン・ミラーのバンドにはボビー・ハケット、レイ・アンソニー、ビリー・メイなどのトランペット奏者、サックスのピーナッツ・ハッコーなどが在籍した。「ムーンライト・セレナーデ」は1939年の録音だが、そんな古いものだとは思えないほどで未だに色褪せることがない。ずいぶん昔、スタジオミュージシャンとして活躍したバリトンサックスの砂原俊三さんが亡くなった葬儀で有志が集まってビッグバンドを組み、出棺の際に「ムーンライト・セレナーデ」を演奏した。グレン・ミラーの音楽は僕らの前の世代がバンドを始めるきっかけにもなっていたから適切な選曲だった。しかし、あの哀調切々たるメロディは演奏するメンバーの心を直撃した。演奏不能になりそうなほど突き上げるものがあり、周りを見ると全員の顔が涙でクシャクシャになっていたそうだ。出席できなかったが、その話を聞いてこちらまで貰い泣きしそうになった。分かり過ぎるほどにその気持ちが理解できた。

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