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去った友へ


 14日にピアニストの佐山が逝き、前日にはテナーの片山広明氏も身罷っていたことを知った。続けて2人が消えたことに愕然とする。佐山氏が僕らのバンドにいたことがあることは先日書いた。彼は有望な新人として知られていて、すでに巷では大阪ピーターソンとも呼ばれるほど達者だった。クラシックのスコアを見てすぐピアノにトランスして弾くことも出来たし、とにかく多才だった。一緒に活動した時期、バンドはオリジナリティを求めるために割合過激な展開を取ることが多かった。それが辛かったようで、あるライブの日に彼はスケジュールをすっぽかしてしまった。ベースの早川と2人でこっぴどくとっちめることになった。それがトラウマになったのか、その後仕事などで会う事があっても、目が泳ぐようになってしまった。ずいぶん後に、どこかのホールで彼のアレンジによるコンサートに参加した折、やっと昔の話をすることが出来た。「才気走ったナイフのような人で苦手だった」と言われて驚いた。決してそんなものではなかったと思うが、彼にして見ればそんな存在としてインプットされていたらしかった。一生食いっぱぐれることのない才能豊かなピアニストとして認識していたし、その通りに彼は多方面で活躍した。たまに仕事などで会う事があっても、苦手意識は消えなかったようだった。一緒にライブで演奏したのはずいぶん前のブルースセッションが最後になった。彼は周りへの気遣いが際立っていて、誰に対しても毒を吐くということがなかった。笑いを取ろうとするユーモラスな部分も彼の気遣いの一部だったと思う。その周りへの優しい気遣いがストレスになって病を呼び込んでいたのではないかと考えたりもする。一緒にやっている頃、蓄膿症で悩まされていて、今は水洗だから見かけることはないが、糞尿くみ取りのバキュームカーのそばで深呼吸しても何も感じないと、自虐ネタを楽屋で言っていたことがあった。意を決して手術を行なった後、食い物の味が激変したと嬉しそうに言った。70年代のキャバレーには、ビルの一階部分が店で、バンドの控室などはビル上階のマンションの一室になっていることがあった。彼はそのような店にトラで行った。店の人に言われて上階の一室で休憩することになった。いやに生活感の漂う部屋のキッチンの椅子に座って休んでいると、戸がガラガラと開いた。血相を変えた人が立っていて「おまえ、なんだ、お前は」と叫んだ。何事か分からずに「あ、あっ、あおの今日のピアノのトラで・・」を抗弁した。「トラアー!!、な、なんだ、てめえは」と要領を得ない。一般の方の違う部屋に入ってしまったのに気付くのには間があったらしい。謝罪して這う這うの体で逃げてきたらしいけど、ほんとに怖かったと言う。僕らはその話を聞いて、ピットインの楽屋で笑い転げた。

 テナーの片山さんと一緒にステージに上がったことは数えるほどしかないが、会う事があれば嬉しい人だった。羽田空港でばったり出くわしたこともあった。無類の酒好きで死因はやはり肝臓ガンだったという。板谷が亡くなったときの通夜で、振る舞い酒ですっかり酔っぱらった彼が、「今日は酒代浮いちゃったな」などと言っていたらしい。もちろん嫌なヤツなどではなく憎めない人柄で誰にも愛された。彼と梅津さんがRCサクセションのホーンを担当していたのだが、彼らが出来ないときには一人でトラをやった。あるライブでは佐山氏もいたし、梅津、片山と割合フリー系統の人たちの中に入って演奏することになった。どう対処していいか分からずに困っていると、片山氏が言った。「なあ、渕野、お前みたいな真面目系統のヤツがいないと困るんだよ。ここはさ、ま、笑ってさ・・・」などとフォローしてくれたのだ。
 最後に会ったのは荻窪のライブハウスで、トランペット奏者に資料を渡すために行ったのだけど、ここでは2部の演奏に参加して2人で並んで吹いた。



 「おまえ、元気だなあ、元気だよ。みんなも言っておこう」などと嬉しそうにはしゃいだ。新しいアルバムを作ったばかりで、気前良くくれたのだけど、帰り際に「なあ、一回ぐらいはちゃんと聞けよ」と言うのも忘れなかった。こちらがフリー系にあまり興味がないことを知っていたのだ。その日のツーショット写真が残っている。



 1人2人と仲間が消えていくのだけど、こちらにしても5年前に死んでいたかも知れないわけで、その時の看護婦がいみじくも仰った「命を拾ったのよ、大切になさい」という言葉が前にも増して身にしみる。

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あたふた



 昨夜はブルースアレーでのライブ。リハーサルの時点で予想してはいたが、だいたい空回りして20点ほどの出来に肩を落とした。ようするに自分がこうなれば最高だなと期待していた部分がことごとく外れて、ついつい力んでしまう展開になった。ま、自分の所為なんだが、集中力が途切れがちになるのも頂けないわけだ。ライブでの演奏はエキサイトする部分も必要だが、それ以上に繊細な部分というものが欠かせず、むしろ細やかなサウンド展開がすべてを決めると言ってもよい。それが欠如すると音楽としては機能しなくなる。曲によってはピアノとヴォーカル、それにサックスのトリオ編成でも良かったななどと思ったりもしたが、ま、終わってしまってからでは後の祭り。やり直しのきかないライブは大変でござんすってなことだった。
 しかし、目黒駅周辺というものは駐車場が極端に少なくなっていて焦った。10年ほど界隈に行くことはなかったが、久しぶりに行ってみると、記憶にあったコインパーキングはほとんどがビルに変わっていたし、一日の上限価格が最低でも3000円で、中には15分300円というのもあった。一時の六本木に迫る勢いになっている。そんなこんなで店に入る頃にはすでに疲れていたのも良くなかったなあってな日だったのだ。はあー。

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訃報が入って中断する


 リハーサルの翌日、指の状態を診てもらうために病院に行った。症状は芳しくなかったらしく、医者は「うーん・・」と言って表情を曇らせる。前回の話では風呂などはそのまま入ってもかまわないし、バンドエイドとかで包んでしまうと蒸れたりして良くないからこのままでなどと言っていたのが、思いきり変わった。やはり患部は膿んでいて、大きなピンセット状のものでグイと押さえられた。思わず跳び上がった。ただでさえ痛いのに、そこを押されちゃかなわない。ズッキーンと痛みが走った。見ていた看護師も気の毒そうな顔をする。さらに、ここの先が膿んでいるから出しちゃいましょう、と言って先の尖ったものを出してきた。覚悟するしかない。後から看護師が肩を押さえている、これは相当来るなと歯を食いしばっていたのだが、案外簡単に穴は空いたらしい。しかし、そこをまたグイと押される。イテテテと言う間もなく白い膿が出てきた。ゲッってなものだ。「これで痛みは和らぐでしょう」などと言いガーゼと包帯と指サックで包まれてしまった。大層なことになったわけで、箸すら持てない状態になった。外科医はサド入っているなあと思った。
 少し落ち着いてきたところで、明日の譜面を完成するべくあたふたと作業を始めて、先ほどやっと終わった。ま、本番になると譜面などあまり見ていなかったりもするが、この作業の過程が大事なのだ。



 それで印刷を始めようとしていると、電話が入ってピアノの佐山雅弘が死んだという。ショックは大きい。近年の付き合いはなかったが、数十年前のピットイン朝の部時代のバンドのメンバーだったし、思い出は尽きない。彼のことは後日語ることにする・・・・・。

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 渋谷で来週のライブのためのリハーサル。スタジオは渋谷駅から246号線を上がった場所にあるわけだが、下の駐車場から歩くのだってかなり疲れた。最初は渋谷辺りは駐車場見つけるのが大変だし、電車で来ようかと思っていたわけだが、楽器を持って駅から歩いたのでは、疲れ果てて一時間ほどは使い物にならなかったに違いない。だがしかし、楽器を演奏するのは問題ないが、この行き帰りに使う労力というものがバカにならず、帰宅して倒れ込む案配。30代40代と歌伴は仕事の大半を占めるジャンルだった。スタジオワークだってほとんどが歌手のレコーディングだったから、歌伴はおろそかにできるものではない。ま、フォートップスの歌伴の仕事の際は「歌伴人生ここに極まれり」などと思ったほどだし、ちょうど聴きに来ていたギターの山岸にそれを言うと大笑いされた。そんなこんなで今日も曲が始まった途端「これだよな」とテンションが上がってしまったのだ。
 だが、好事魔多し。3日ほど前から右手薬指が大変なことになっているのだ。



 爪周囲炎とか言い、要するに深爪やささくれから菌が入って炎症を起こす厄介な症状。今までも何度かこのような症状になったことはあっていつの間にか治っていたが、今回は重かったのだ。腹側が化膿するものは「ひょう疽」と呼ばれ、ほっておくと骨にまで害が及び、とんでもないことになるらしい。外傷ではないから抗生物質で押さえるしかない。最初は痛みを抑えるために外傷薬を塗っていたりしたのだからお目出度い。で、今日の昼間は痛みがピークに近く中指がずっとチクチクしていたのだ。ヒトの体というものは何が欠けても不自由になるように出来ていて、指一本だって大変なのだ。第一、箸が持てない。中指の真ん中辺りを使って何とか持つことは出きるが、上手に持てていないから麺などは掬えなくて、ポロポロと落ちていく。鉛筆も不細工な持ち方で書くのだが、採譜した譜面は自分だけにしか分からない判じ物のようになってしまった。なんだか、歳のせいもあるのだが、病院のカードが年毎に増えていく。

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こどものために



 今年もまたおっちゃんの庭に変形の菊が咲いた。ま、菊と言うよりゴッホの向日葵だ。毎年、春は薔薇、夏は朝顔というように、おっちゃんの庭で季節を感じることになっている。


 昨夜、車の中で久々にラジオドラマというものを聞いた。途中からで内容はさっぱり分からなかったが、あー、あの時代だと郷愁を誘われた。小学生のころの数年間、ラジオドラマを楽しみにしていた。覚えているのは「赤胴鈴之助」「不思議なパイプ」、それにアイヌのことを知る切っ掛けになった「コタンの口笛」などだ。やがてテレビの時代に移り、「月光仮面」が子供たちの圧倒的な支持を受けることになるが、ラジオドラマがテレビに比べて劣っていたというものではない。ラジオドラマのキャスト、当時は声優などという言葉はなかったような気がするが、彼らは大したものだった。僕らはそれぞれに映像を思い浮かべながら聞き入った。もちろん漫画原作の赤胴鈴之助だったが、子供たちの数だけの赤胴鈴之助がそこら中にいたに違いない。テレビドラマも実写版からアニメへと移行していった。「鉄腕アトム」がその先鞭をつけたはずだ。「エイトマン」というものもあった。テーマ曲を歌った克巳しげるという歌手が10年後に殺人を犯して逮捕されて、エイトマンのテーマ曲は悪い連想を導くものになった。
 テレビがカラーになる頃、もっぱら受けていたのは人形劇の「ひょっこりひょうたん島」だった。熊倉一雄や藤村有弘などという達者な方たちが吹き替え担当で何とも魅力のある番組として広く知られていた。しかしながら、僕らはこども向けの番組からは卒業する年齢になっていた。ずいぶん後になって、こちらが30代に達した頃、むかしのテレビ番組がテレビ開局何十周年とかで再放送された。その中に「月光仮面」もあった。月光仮面の悪役として仮面をかぶった「サタンの爪」という怖い役柄があった。見ていた僕らは怖気を震ったものだったが、大人になって見るサタンの爪の手は布製のグローブのような粗末なものだったし、爪に至っては銀紙が貼られた情けないものだった。しかし、そのようなものを僕らは怖がって見ていたわけだ。大人は何とチャチなものかと思っていたかも知れないが、僕らは画面に出てくるものをちゃんと補正しながら見ていたわけだ。こどもの想像力は大したものなのだ。悲しいことに僕らはある日その想像力を失うらしい。

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