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潟の空港


 姫路から移った佐賀では一軒家の2階に住んでいた。家主の暮らす一階の横の階段を上がる間借りの生活だ。同じ年頃の姉弟のいる家族で気遣いも余儀なくされ、母も気苦労が多かっただろうし、あまりいい想い出はない。町そのものは好きだったが、この家での生活は嫌いだった。中学2年の頃のある日、父が朗報を持って帰宅した。学校と住んでいる家の中間ほどの町の県営アパートに移れるようになったという。母と姉と共に、もう暗くなり始めているというのに見に行くことになった、それほどみんな嬉しかったのだ。外は大禍時の群青色、最上階4階から見える景色は夢のようだったことを覚えている。父が呉服屋の経営に失敗して、一家は波乱の時代に突入していたが、やっと窮屈な思いから解放されるというような案配だった。家族5人には少々手狭ではあったが、間借りの生活に比べるべくもなく、そこで高校卒業まで暮らした。



 そのアパートを取り囲むようにして平屋の一軒家が建ち並ぶ県営住宅群があった。ウチの棟のそばの住宅の生け垣にも毎年のように薔薇が咲いた。薔薇の生け垣に惹かれるのはあの記憶のせいかもしれない。その家には評判の美人姉妹がいた。三年ほど先輩だった長姉はとりわけ美しい方で、何よりも遠巻きにして見るしかないほど知的な風情があった。
 佐賀には母が存命の頃は度々帰省した。寝台特急という手もあったが、だいたい飛行機を使った。当時は佐賀空港というものはなく、福岡に飛んで、それから急行電車で1時間弱の佐賀駅というルートだった。ある帰省の日、飛行機の中で思わぬ人に再会した。薔薇の家の長姉がスチュワーデスだった。今はキャビン・アテンダントとかいうが当時はスチュワーデスであり、女性の憧れの職業の一つだった。仕事そのものは過酷な肉体労働に違いなくも、なにしろ容姿端麗は絶対的な条件であって、誰もが望めるものでもなかった。近所にいたとはいえ話したことがあるわけでもなかったから、やはり昔のように遠巻きにして見るだけだったが、まさに相応しい職業に就いたのだと合点した。最後に帰省したとき、その家のあった辺りは更地になっていて、その後の彼女らがどうなったのかは分かるわけもなく、うねるような時の流れが誰をも押し流していくことを改めて思った。
 佐賀空港が開港したのは1998年の7月28日だが、開港するまでには紆余曲折があった。最初の計画は1969年だった。計画は湾岸部の漁民の猛反対によって4年後に頓挫した。1977年にも同じく計画されたがうまく行かず、1983になってようやく合意を見る事になった。開港は当初の計画から凡そ30年後だった。父から直接聞いたわけではないが、開港に積極的だった方と父は関わりがあり、話し合いの場にも同行したらしい。中止が決まったときにも同席したのだが、帰りの途中でその方は車を停めて降りてしまわれたそうだ。父は待っているしかなかったという。父は「泣いとったとさ・・・」と言ったそうだ。住民の反対は「魚が捕れんごとなる」という飛行機の爆音に対する警戒だったらしい。佐賀空港は何度か利用したことがあるが、緑の平野の隅にチョコンと降りる飛行機から下を眺め、反対運動はいったい何だったんだろうかと毎回思う。

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薔薇は咲いたけど


 やっと咲きやがった、と騒ぐほどのものでもなく、ただおっちゃんの庭の薔薇が咲いただけなんだけど。おまえはマイク眞木かってな話。



 テレビを点けると、朝っぱらからあのグループのメンバーの不祥事ばかり取り沙汰する。大した興味はなくとも知ってしまうわけだ。被害者への配慮から実際なにが起こったかはつまびらかにならないわけだが、そもそも電話での誘いに応じた経緯というものがよく分からない。下世話な話だが、彼は見込みがあると感じていたに違いない。共演者に声をかけて家に来させようとして、応じるということで増す増す脈があると思ったはずだ。以前からの知り合いであるわけだから、双方の関係性については何某かの流れがあったと思われる。彼女にしてみれば相手はスターだ、声がかかったことは満更でもなかったと考えるのが妥当だ。さもなくば男性の一人暮らしの部屋に行こうとするわけもない。しかし、事の不穏さは感じていたらしく友人同行での訪問となったらしい。未成年とはいえ、ここらの駆け引きがきな臭く、本当は行くべきではなかった。電話での誘いが懇願するようなものだったのかどうか、とにかく彼はおびき寄せることに成功したわけだ。そこで泥酔の揚げ句、無理強いというヘマをしでかしてしまう。勘ぐれば、そのようなことをするのが初めてではなかったかもしれず、結果、立場上取り返しの付かない事態になり、消えていくことになった。グループの看板背負ったスターとしての驕りもあったかもしれない。ま、だいたいこんなところで話はまとまるわけだが、ワイドショーでの取上げ方はすでにお祭り騒ぎというか、一人のスターの転落ぶりをしつこく何度もなぞり、どこか面白がっているようにさえ見える。「他人の不幸は蜜の味」ってな案配だからやりきれず、酔っぱらってキスをしようとしただけの話だから、誰が考えても明るみに出てしまってアウトってだけなのに、繰り返し繰り返し論議するのは相当馬鹿馬鹿しい。

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咀嚼


 開花遅々として進まず、気を持たせるなあ的展開。



 今は北九州市などというボンヤリした名前に変えられてしまったが、昔は八幡市、門司市、小倉市、戸畑市、若松市だった。その八幡市の時代に育った子供のころ、一緒に暮らしていた祖母は食事の際の行儀にはことさらうるさかった。やれお箸の握り方がおかしいとか、茶碗の持ち方がおかしいだの「はしたない」とやかましく言われた。いわゆるテーブルマナーというか、卓袱台マナーだ。なにせ戦時中の記憶の生々しい人だったから、飯粒の一つでもこぼそうものなら大変だった。「なにも御飯食べているときにそんなことを引き合いに出さずとも」と聞く度にウンザリしたのが、「御飯一粒だって粗末にしてはいけません、戦時中であれば便所の隅に落ちている米粒だってありがたいものだったのです」というような言い方だった。、それを聞きたくないがために気をつけるので、その効果はあったわけだが、それは今に至っても「三つ子の魂百まで」という風に身にしみ付いている。感謝するにやぶさかではない。
 しかし、そんなお婆さんが誰にでもいたとは限らない。
 街のタンメンが美味いことでよく知られている中華屋で食っていたときだ。その店はカウンターが8人ほど、4人がけのテーブルが3つほどの店だ。カウンター席は丸椅子が並べられていて、特にここからここまでという境界はないが、並べられた椅子の数と応相談であって、割と一席は狭い。肩が触れ合うかどうかの際どい設定だ。一人で入るとカウンターに座らざるを得ない。お気に入りのレバー野菜定食を食べているときも、隣に客がいてかなり窮屈だった。食べ始めると耳元で「クチャクチャクチャ」と嫌な音がする。あっ,これだ。隣の人が何か口に入れる度にクチャクチャが続くのだ。本人は気付かないだろうけど、それは「はしたない」というより「汚らしい」に近い。まさか「あの、うるさいんですけど」と言うわけにもいかず、早々にかき込んで店を出た。
 ある日は街中の小洒落たイタリアンの小さな店で食事をした。静かな店内だった。この時は遠慮がちに「クチャ」が聞こえた。音のする方を見ると、斜め向かいの若い女性だった。大人しそうな方でも「クチャ」はクチャだ。もちろん、入れ歯にしてしまった老人とか、そのような食べ方しかできない人もいるとは聞くが、ほとんどは口を閉じて咀嚼することで解決する。
 こないだのおっちゃんは笑えるほどだった。大きな店内で席はかなり離れていたにも関わらず、クチャだけは明瞭に聞こえ続けた。こちらが気になる音だから聞こえるのかどうかは定かではないが、それが聞こえてしまった店での食事は散々で、言ってみればムチャクチャな気分というのが正しい。

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53の日


 おっちゃん家の薔薇の開花はあと一息、しかしこの時期が最も好ましく、咲いてしまえば一気に咲き誇り終わるだけ。咲き終わるころには夏の気配も本格的に漂い始め、ああ、また夏になってしまうのかと残念な気にもなるわけだ。



 さて今日は5月3日。なんの日だっけなどと考えてしまったりするのだが、5月3ということでゴミの日ってのも悪くない。というのも、ほんの2、3日前、ウチの近所にもゴミ屋敷というものが存在していることに気付いたのだ。毎日のように車で通るのだが、これまで気付かなかった。大きな道路から脇道に逸れたあたりで、ちょうど道幅が狭くなっていて車がすれ違うことは出来ないので注意は対向車に向けられる。言わば死角にあるわけだ。暗くなって通る際に、この家の前に自転車が停まっていて、おばさんかお婆さんかは定かではないが、なにやらゴソゴソとやっているのは知っていた。その際も自転車に触れないように気をつけるし、暗くて家の前の状況など見えたこともなかった。こないだ、対向車が向かってくるので待機している時に見てしまったのだ。


 後日、散歩のふりをしてこっそり撮った。一応整理はされているようだが、どう見ても変だ。もちろん部屋の中は見ていないわけだが、シートで覆われていて、山積みになったものが何なのかはよく分からない。



 掃除用具の塵取りは2つもぶら下がっている。



 住人は汚してしまえと思っているわけでもないようだが、不用と思われるものも其処彼処に積まれている。ようするに捨てられない人ではないかと思えるわけだ。
 他人事ではなく、母に言わせれば、どちらかというと片付けられない息子だったらしい。それは何でも積み重ねてしまうことから起きる事態だ。本の上にCD、その上に楽譜、さらなる上にティッシュボックスというような案配で、CDは時々行方不明になったりする。早い話が、元々あった場所に戻しさえすれば、そのような事態は避けられるのだが、これが何年経っても出来ないようだから、十日に一度の大整理日を拵えて折り合いをつけている。

 以前、仕事部屋にするつもりで自宅近くに1DKほどの部屋を探したことがある。不動産屋が「今月いっぱいで出る方なんですけど、先方に話はつけましたのでちょっと見に行きませんか」との連絡を受けた。若い女性の部屋だという。在宅時にお邪魔することになった。部屋はまだ引っ越しの準備には入っていなかったのだが、ドアから一歩部屋に入って絶句した。彼女は昼食を取っているところだったらしいが、部屋の真ん中に置かれた卓袱台の上に食べ物が並べられ、それを囲むように靴を載せたシューズボックスが置かれていたのだ。10コ近くあったと思う。それにフロアが見えぬほどに物が散乱している。他人が入ってくるというのに片付けられていないのは、そんなこと全然気にしないというものだったらしい。それで、部屋の間取りなどつぶさに見る気も失い早々に引き上げたのだけど、不動産屋のおっさんも黙り込んでしまい「あれじゃあ、分からないですよね」と一言だけ仰った。
 人にはそれぞれ自分の生活のリズムというかパターンのようなものがあって、どうしようと誰か他人に迷惑かけるのでなければ自由なんだけど、そのようなことに鈍感になってしまった行き着く先に悪臭漂わせる本格的なゴミ屋敷があるらしい。

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貫くこと



 次のライブのスケジュールが決まった。近ごろはチャージバックの店がほとんどで、固定でギャラの発生するサムタイムのような店には出演申し込みが殺到する。それで、ここを根城に長年やってきたバンド以外は、吉祥寺サムタイムのスケジュールを切るのが至難の業になってしまった。もちろん集客の圧倒的なバンドであれば問題ないが、なにしろジャズ系のライブに足を運ぶ方たちというものは限られていて、下手をするとというか下手をしないでもバンドの方が客より人数が多かったりするのだ。それは寄席の落語家などと同じくお勉強だともいえる。あまつさえ若くないプレイヤーには先細りの先が待っていて「もう、いいでしょう」言われているような気にもなろうというもの。ピアノの大石氏は、15年前に一緒に作ったリーダーアルバムを久々に聴いて、「いいアルバム作っていたんだ」と改めて思ったという。そのアルバムを制作した会社もCD制作から手を引き、残っていたものが40枚ほど送られてきた。ま、悲しいことにあまり売れなかった。その現実と向き合いつつ、未だにいい音楽を作る夢を捨ててないところなど、これも一種の惚けなのかと思うこともしばしばなのだ。

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