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 またまた大谷選手の話だが、先日の試合で走塁の際にベースで足を捻ったとかで次の打席から休場した。これに対して例の張本さんは「練習不足!! 僕らの時代は徹底的に走り込みをやったもんですよ。」と得意の批判をしてみせた。ところが、アメリカの反応はへエーッというものだった。「私たちは彼が見たいのだ。それなのに何ということだ、だいたい走塁の際にベースにつまずいてケガをしたのは彼が初めてであるはずもなく、過去にもXX、YY、ZZ、XXと多くの選手が災難にあっているではないか。そもそもベースに問題があるのではないか。足を挫くような高さではなく、もっと低くできないのか。」などと書かれている。超一流のエンターテインメントを見損ねた悔しさで不満たらたら。なんだかベースの高さを変えてしまいそうな勢いの発言に笑っちゃったのだ。

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一年の3分の一終了


 みかん、新たに購入したカゴのふかふかのマットがお気に入り。しかも春、だいたい猫というものは一日中寝ているわけだが、この時期の日だまりの中でうとうとするのは至福の時間に違いなく、代わりたいぐらい。



 近所のおっちゃん家の小薔薇は咲く寸前に見える。おっちゃんによると、今年は虫がついて大変だったらしく、薬のせいで葉がうな垂れて見え、そんなことを仰る方ではないのだが、内心「クッソー」ではないかと思われる。



 駐車場の車の上に覆いかぶさるように桜の樹がある。毎年、咲いているときには美しいなあでいいし、花びらが落ちたら落ちたで風情があって不満はない。しかし、その後がよくない。花びらが落ちた後に、ガク片とか花柄とかいう花を支えていたヤツ等が残るわけだが、それが4月の終わりごろに降り注ぐのだ。いわゆるゴミであって風情もへったくれもない。ワイパーの上に溜まる枯れたそいつ等を取り除くのが日課になる。最初、そんなことは知らずにウォッシャー液を出してウィンドウの掃除をしたら、幾つもの筋が広がった。ゲゲッてなものだった。
 浅田次郎さんのエッセイにおもしろいことが書かれていた。「おんな」「おとこ」という呼び名についてだが、某国営放送などでは基本的に「女性」と呼称するが、犯罪などに関わった際には「おんな」と言うそうだ。浅田さんは女性という呼び方が好きではなく「おんな」でいいのではないかと仰るわけだが、今や「おんな」は負のイメージを表す言葉になってしまったと嘆かれている。そういえば、犯罪を伝えるニュースなどで「警察はおんなの行方を追っています」などと聞くのは確かなのだ。それはもちろん「おとこ」の場合も同じで、報道の場ではそのような取り決めがあるのだろうか。

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血の巡り


 この部屋でのトレーニングを始めて10年が経つ。近ごろは物覚えが悪くなったというか、毎回スタートラインから吹き出しているような気がする。以前はそうではなかったようにも思える。今日は昨日の続きであり、少しだけでも前進があった。なにしろ、深く考えずとも、その場の思いつきが有効だった。要するに瞬発力などが失われているらしい。血の巡りが悪くなったともいえる。



 昨年の秋、手術をした。2ヶ月に一度の通院は続けていて、目的のほとんどは薬を処方してもらうことにある。血がサラサラになるのを促進する類いの薬だ。心臓に爆弾を抱えているというか、再発だけは避けたいから真面目に通院しているわけだ。型通りの血圧測定などをして、女医が普段は滅多にやることのない聴診器を取り出して、それも珍しく腕の脈のあたりに当てた。先生の顔色が変わった。それを見てエッと驚く。「変な音がする」と仰る。その後エコー検査で確かめると同じような診断だった。
 それで、大きな病院の血管外科の医師に紹介状を書いて頂き、次の日に行った。まず若い医師の診断があって、主治医の指示を仰ぐことになった。人間の血液の動脈は心臓から血液を送りこんで循環させている。静脈はそれ自体で血流を作ることは出来ない。動脈からの圧力で静脈の動きは作られている。そこで問題が起きていたらしいのだ。動脈から大量の血液の流出があるという。実際、その音はかなりはっきり確認できて、「ザー、ザー」と不気味に聞こえる。シャンク音と言うそうだ。主治医はベランメー調で仰るのだ。「まあ、ね、手術が必要かどうかってえのは微妙なところでね、今なにやらそれで症状が現れているってなもんでねえしさ、決めるのはあなた次第だな・・・」「日常の生活にはなんの支障もないんですけど、放っておくと何か問題が?」「そこなんだよな、たださ、あなたの場合は心臓への負担という点でリスクはあるかもしれない、ってのは言えるわけさ」「エーッ、どうすれば?」「こちらとしては手術をしろとは言えないんだな・・嫌だといえばそれまでだけど」。しばらく考えて手術をすることに決めた。それで、この手術の大変さを詳しく聞くことになった。ちょうど右腕の脈のあたりだが、この場所は血管と神経が複雑に絡み合っている場所。執刀はかなり神経を使うことや、万が一の失敗のことまで。失敗の可能性はほとんどないが、それでもゼロとは言いきれないなどと脅される。しかし、決めたからには後には退けない。一週間後の手術に決まった。症状は何かに強くぶつけたりして起こることもあるらしいが、気付かなかっただけで、たぶん先天的なものではないかということだった。正式な病名は忘れてしまったが、動脈瘤とかいう名だった。
 診断箇所は一センチにも満たない小さなエリアで、実際の手術跡は5ミリほどの痕跡が薄ら残っているぐらいのもの。そのなかの微細な血管の一部を括ろうというのだ。ほとんどミクロの世界で、米粒に写経する変なこと自慢というものがいたが、それに勝るとも劣らない。

 手術前日から2泊3日の入院。あの若い医師が執刀するのかと不安もあったが、ここまで来たら腹を括るしかない。手術前夜は強制的に入浴させられる。ま、それは手術のいつものパターンだ。5年ほど前の手術の経験もあって、さして緊張もせず本を読んで過ごした。だが、なかなか寝つけない。自分では平気なつもりでいたが、隠れた部分で不安を感じていたらしい。
 手術は朝早くから行なわれた。予定では長くて一時間とのことだった。手術室は八つほどあって、待機所にはその日の手術を受ける方たちが、同じように車椅子で待っている。そこを通り抜けて手術室へ。広い手術室には看護師を含めてかなりの人数がいて物々しい。5年前の心筋梗塞の手術の際は無意識状況だったが、しらふで自ら手術台に上がるのは怖気を震う。
 麻酔がかけられるが全身ではない。それは意識がある状態にしておいて反応を見ることでもあったらしい。執刀はべらんめえの主治医だった。麻酔が効いているから直接の感覚はないけど、腕にメスが入ったのは気配で分かる。ああ、薄気味悪いなあ、ってなもんだ。で、神経だ。やはり神経にまったく触れずに執刀は難しいらしく、触れた瞬間、腕がビョビョーンと凄まじい勢いで撥ねるのだ。肘をぶつけたときにビリビリとするのを「ファニーボーン」というそうだが、あれが大挙して攻めてくる感じ。先生はかなり緊張してメスを入れているらしいが、それでも何度もビョビョーンがあった。30分ほど経過したところで何やらただならぬ気配がする。これだと思うものを結んだらしいが、まだ大きなシャンク音は聞こえるという。「あれっ、おかしいなあ」というところだった。それで、「大元の所には辿り着いていなくて、このまま閉じてしまうか、もう少し奥を探すかという状況なんだけどどうしますか。かなり奥の裏側に隠れているようで、これ以上続けるってえと何某かの後遺症が出る可能性も・・・・」「ここまで来たら続けて下さい、何かあっても受け入れますから・・ここまでの運ですから」
 続けることになった。ここまで痛みがなかったかというとそうではない。麻酔は筋肉部分などには効くが、血管には効かないのだ。だからメスが血管に触れる度にのけ反るほどの痛みが走る。さらに奥の方を探しているのが腕が引っ張られる感覚で確認できる。先生は息を飲んで見守る看護師たちに声をかける。「おまえら、黙ってないで何か冗談でも言ってみろ。まったくよー」
 この時、手術室の中に音楽が流れているのが分かった。部屋にいる全員の緊張をほぐすために音楽を流しているらしい。それで「音楽じゃなくて落語のテープとかないの」などと軽口を聞いてみる。「ああ、これだ、これだ」と大元が見つかったとき、すでに一時間半が経過していた。そこを括るときの痛みには涙が出そうになった。やはり執刀医としては完結しないのは嫌だったろうし、無事終わらせることが出来て嬉しそうな声を上げた。「ありがとうございました」というのが精一杯だった。
 その夜、痛みがあるはずですからと、心配そうな若い医師に痛み止めをもらった。痛みはまったく来なかった。執刀した部分がケロイド状に腫れ上がってはいたが、それも一週間ほどで消えた。退院後の再診で、主治医の腕の確かさに若い医師が感動すら覚えていることを知った。まったく大したものだった。
 退院の日、金を用意して受付に行った。日曜日で閉まっていた。「後日お支払い下さい」ということで猫の元へ帰ることになった。肩の荷が下りまくって宙を飛んでいるように身軽だった。
 あれだけの痛みを我慢したし、少しはご褒美もありだよなってんで、普段は避けているチャンポンの店に向かうことにした。ご褒美がチャンポンってどうなのよと思われるかもしれないが、塩分控えめの食生活を続ける者にとってはチャンポンがとてもありがたいものなのだ。

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怪説


 突然、南北首脳会談が行なわれて世界中がアッと驚く。中国を訪問したあたりから対外政策の変換を目指しているようにも見えていたわけで、成果がどのような形で現れるかではあっても、きな臭さは一段落。
 一方、国内ではアイドルグループの一人が強制猥褻で書類送検だとか。アイドルったって46才のおっさん。何度か見かけたことがある程度で詳しくはないが、キャラクターはともかく器用な人ではなく、自分をどう処していいか困っているように見えた。このような問題を起こす人は過去にもいたが、だいたい消えていった。過ちのイメージがことさら悪く復帰は難しい。しかし、今回は復帰を難しいとしながらも、可能性はあるらしく絶望的だとは報じない。ヘーッてなものだ。

 むかし、高校野球の解説者で池西増夫という方がいた。この方の解説は好きだった。余計なことは言わず、解説はいつも的確で、何よりもグラウンドの選手たちに対する愛情があったし、聞いていて不愉快になることはなかった。しかしだ、この方は対極にあると言って差し支えない。余計なことは言いまくるし、尊大で、何よりも選手たちに対する敬意がない。こき下ろすのも愛情だといえば不承不承納得しないでもないが、基本的に弱点を論うことが解説だと思われているらしい。アメリカでも日本でも大谷旋風が吹き荒れているわけだが、これが気にくわないらしく、3試合連続ホームランはまぐれだと言うし、メジャーのレヴェルが落ちたなどと平気で曰う。見る人たちは大谷の活躍が嬉しく、自分の果たせなかった夢も含めて、彼に期待しているわけだ。そこに水を差すようなことを言わずに、「やあ、たいしたもんだ。このままいけば凄いやね」などと言っていれば良いものを、元プロ野球のご意見番としては何か苦言を発せずには収まりが悪いようで、余計な毒を吐く。先行きのことなど一般人の知ったことではなく、これもいわばショービジネスの世界だし、野球道のようなこと言われても鼻白むばかり。このような物言いを芸風にしてしまったわけだが、御本人は疲れないんだろうかと時々思う。

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フルート教室


 フルートを習い始めたのは45才を過ぎたころだった。まったくの我流で吹いていたのだけど、劇伴の仕事ではサックスと持ち替えで度々冷や汗の出る思いをした。なにしろ、サックスでロック系のソロを吹いたすぐ後にフルートの静かな曲が来るという案配で、いくらフルートの持ち替えはサックス奏者にとって当たり前だといわれても、我流での演奏では限界だった。唇にサックスのリードの跡が残った状態で吹けるわけもない。



 基本的な奏法が間違っていることは薄々気付いていたが、アドリブ風なソロが期待されることもあって、今さらクラシックの先生に就いてもなあというのが正直なところだった。しかし、今はないが、六本木のソニースタジオでの仕事の際に決定的な事態が起こった。唇に傷がついて調子を崩し、フルートの音が出なくなってしまったのだ。かなり落ち込んだ。「フルートの持ち替え止めます」と宣言できないのが辛いところ。
当時、電車で新宿方面に向かうと大久保駅のホームから見える「木下フルート教室」(現在は「木下ミュージックスクール」というらしい)という看板があった。スタジオミュージシャンのフルート奏者に就いて習うという手もあったが、教える方だって嫌だろうし、こちらだって気疲れしそうだ。それで、まったく未知の世界に飛び込むことにしたのだ。藁にもすがるというような気分もあったが、藁などというのは失礼に当たる教室だった。電話をして訪ねると、扉を開けた先生はギョッというような顔をされた。「いや、若くないとはお聞きしていましたが、予想をはるかに・・・・」ということだった。その方が学長の木下さんだったらしいが、それっきりお会いしていないので定かではない。こう見えてもミュージシャンの端くれでして、これこのような仕事をしております云々と説明したところで、誰に指導させるかを決められたようで、「では、ね、あの、美代子先生に習って下さい」ということになった。美代子先生はシュトゥットガルトに留学されてクルト・レーデルの元で学ばれた方だという。ええーっ、いきなり、こんなものが行っても大丈夫ですか、という心配もあったのだが、ここまで来ると引き下がるわけにはいかない。ま、当たって砕けろ・・・。
 何を用意するのかも分からず、当時練習していたテレマンの無伴奏フルート「12の幻想曲」の譜面を持っていくことにした。しかし、初日はそれどころではなかった。「とにかく音を出して下さい」ということでピーヒャララーと吹くと、目を白黒させて先生絶句。まず、持ち方から訂正され、唇の位置を思いきり変えられる。「えっ、これじゃあ音が出ない」というようなアンブッシャー(唇の形)。息の角度も何もすべて我流の行き着くところはそんなものらしい。赤くなったり蒼ざめたりしている内に一時間半は終了。目からうろこのカルチャーショック。音の出し方が分かると面白くて仕方ない。次の日から朝の起き抜けにすぐフルートを手にするようになった。
 テレマンは一曲だけやって、腕試しのようなラヴェルの「ハバネラ」、次はバッハの曲の緩徐楽章。それがある程度出来るようになると、ある日先生は教室から出てなかなか戻って来ない。戻ってきた先生の手にはピアノ譜。伴奏するから吹けという。それからはヴィバルディ、ヘンデルとバロックものが続き、フルートの奥深さを2年半にわたって体験した。毎週夜2時間ほどの時間を割いていたのだが、無理が利かない時期もあって教室通いを断念することになった。
 あの教室での時間は特別だった。フルートの練習だけでなく、先生との会話は知らない世界のことばかりで、その都度驚いたり感心したりした。旦那様も隣の教室で教えているというフルート夫婦。なにしろ、普段付き合っている連中とは人種が違うような気さえしたのだ。いつも、時間を大幅に超えて教えて頂いた先生が、若くして癌で亡くなられたことを知ったのはずいぶん後のことだ。
 今でも時々思い出すのは葡萄畑の話だ。葡萄畑は遠くから見ると美しいものだが、近くで見る葡萄の葉というものはささくれ立ったギザギザで決して美しくないそうだ。しかし、音もそうだという。そばで聴いて美しく聞こえるものは、案外チマチマした表現になりやすいという。「荒々しいぐらいでいいんです、小さくまとまるような演奏をなさってはいけません。音を客席に放り投げるように飛ばしてあげるんです。」

 教室に通っているころ、いつも上がり口に子供の靴があった。「あっ、小さな子が習いに来ているんだ。どんな演奏するんだろ。」と気になっていた。頻繁に靴は見るのに会うことはなく不思議なことだった。習いに行き始めて3ヶ月ほど経ったとき、それが美代子先生の靴だと分ったのだけど、もちろん先生には言わなかった。

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