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級友


 昨日の夕陽は紅く燃える太陽を実感した。ああ、ホントに燃えてるんだってな案配。



 さて同窓会だが、例年連絡を頂くものは高校のもので、それ以前になると中学のころの同窓会の連絡は一度だけあったが行けず、それ以後は行われていないらしい。小学校のころのものはない。もっとも姫路での2年間のクラスなど一人か二人の記憶がおぼろげに浮かぶだけで、ましてや隣のクラスなど覚えているわけもない。佐賀に3年生として転校したが、そのクラスは先生以外誰も記憶にない。だいたいそんな風だから小学校時代の同窓会というものは行われないようにも思える。50年ぶりかで会ったとしても、「君はだれ?あんたは?」ってな具合に、誰もの記憶が風化し初対面のような集まりは意味がないともいえる。しかし、通った佐賀の小学校では4、5、6年のクラスが持ち上がりだった。それは実験的な試みだったらしく他で聞いたことがない。二年の持ち上がりはあるようだが、三年は稀なケースには違いない。このクラスの級友たちは、全員は無理だとしても、数多く顔も名前も即座に思い出すことができる。ただでさえ子供のころの一日は長い。それが3年間だ。小学校低学年ではなかったから記憶も鮮明に残っているわけだ。リーダー格だったのは誰よりも身長のあるヤツだった。そのリーダーと取り巻きもいいヤツだったから乱暴者がクラスをかき乱すことはなかった。森山くんは強ぶる気弱な乱暴者だったが、リーダーたちが蓋をすることで出番は限られ、少々の悪さはしたが嫌われ者として定着していた。ずいぶん後、高校3年の終わり頃にダンスホールでアルバイトのように楽器を吹いていたことがあった。そこに現れたのが森山くんだった。彼は中学卒業すると関西方面に就職したらしく、お正月の帰省だった。声をかけられ驚いたのなんの、長いコートの姿は少し恐いお兄さんのようでもあり、顔つきが大人の世界で生きていることを語っていた。小学校のころはリーダーたちの蓋によって大人しかった一人は中学に入ると少しグレて恐いヤツに変貌した。彼は中学卒業後は船員になった。なんの船だったかは忘れたが世界中回るというようなことを言っていた。彼と久し振りに会った時、得意そうに「あの町では女が安く買える」などと言うのを聞きゲンナリしたことを覚えている。太田君はあがり症で人前に立とうものなら気絶でもしかねなかった。行進の練習の時に彼の歩き方がおかしいと気付いた教師がいた。可哀想に、彼はみんなが円を描いて行進している中央で一人だけ個別に練習させられた。緊張がマックスに達した彼は増す増す歩き方がおかしくなった。右手と右足が同時に出るようになってしまっていた。僕らは彼のシャイな面を知っていたから、そんなことが逆効果だと分かっていても教師に抗議できるほど強くなかった。
 小学3年生の時に初恋のような感情を持った。それは学芸会の舞台だった。その子は5人ほどで踊る「月の砂漠」の中の一人だった。舞台から離れているにも関わらず目が釘付けになり、電撃が走った。経験したことのない感情の動きに戸惑った。4年生のクラス替えは校庭で発表された。壇上から名前とクラスを告げられたものが、その枠に入るというような形だった。その子が同じクラスの名を告げられて入ってきたときには、無表情のまま心の中で万歳三唱した。今のこどものようにませたものではなかったから告白などというものはなかったが、クラスメートになれたことで、より3年間が楽しくなった。
 小沢章友は当時の親友の一人だった。家が近かったのもあるが、中学校のころビートルズをいち早く聴かせてくれて、音楽への道を開いてくれた恩人だともいえる。考え方によっては恩人というよりも災いの扉を開いてくれたと言える。彼は作家になった。直木賞だの芥川賞の恩恵に与ることはなかったが、小学校のころから既に片鱗があったらしい。クラスで学芸会の時に芝居をやった。どちらかと言わなくともお調子者であった僕は台詞の多い役どころを演じることになった。映画が好きで、いつの間にか役者の台詞回しを真似ることができるようになっていた。思い出せば相当恥ずかしいものではあったが、時代掛かった役者のように喋った。後で、別のクラスの担任に「ほら、芝居のうまかったヤツがいただろ」と訊かれて赤面したことがある。まさか、その後芝居の道に走ることなどは考えもしなかったが、舞台に立つと言う意味では同じようなものかもしれない。その芝居の台本を書いたのが小沢だったことを5年前に小沢と飲んだときに知った。彼とは新宿ピットインでの吉田美奈子さんのライブの際に50年ぶりに会ったのだ。
 リーダー格だったヤツとは同じ高校に通った。彼は小学校時代のカリスマ性を徐々に失っていった。他のヤツ等の身長も伸びてくるし、威圧感は少しずつ消えた。しかし、彼がいたことで3年間は実にうまくいっていたから、その功績は大きい。 
 「あいつ今何してる」という番組を見ることがある。見続けている内に、これは何らかの形で成功している旧友たちを追うものであって、当たり障りのない展開に飽きてきた。もちろん、犯罪を犯したなどという者がいたとしても取上げるわけにもいかないだろうが、知りたいのは明暗のすべてだと無理を承知で思う。件の高校の同窓会にしても、出席するのは成功とまではいわなくとも安定した生活を行なえる人たちの集まりであって、本当に会いたいのは他の人たちだったりする。それこそ、あいつ今何してるなんだけど会えることはない。苦労話の一つも聞いて力付けることができればと考えたりするが、それは余計なお世話に違いない。

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あたし、ごはん食べました?


 財務省次官のアホな音声が世に出てしまった。万事休す。普段からあのようなことを悪ふざけで言う人だったのかどうかは分からないが、録音されているとは本人もビックリだったに違いない。
 偉そうにふんぞり返った人生はこれを以て終了ってな話になってしまい、家族はやりきれないだろうし、ま、気の毒なことなのだ。

 写真は若いころの猫ども。みかんなどはほとんど一日中外で過ごし、飯時にだけ帰ってきていた。外出するといっても、猫の行動範囲は広くとも半径50メートル程度。






 主な遊び場は家のすぐ前のビルの一階部分の駐車場だった。車が8台置けるスペースだった。2階部分はアパートになっていて、3階に大家のおばさんが住んでいた。歳の離れたご主人が老後のためにと建ててくれたと聞いたことがあった。四部屋ほどのアパートと駐車場の上がりだけで食っていけるだろうという心遣いだったらしい。ちなみに駐車場の賃貸料は月3万円強だった。とても育ちのいいお嬢様のような方だった。その人柄が敷地にも出ていたのか、ホンワカした佇まいの駐車場が猫たちのくつろぎの場所になった。車がやっと通れるような道を挟んですぐの場所だったから、こいつ等にしてみれば隣の部屋に行くような気分だったに違いない。今は、2つの広いベランダがあるから外出気分を味わえると言えないこともないが、以前のような散歩気分にはなれないだろうと申しわけなく思っているのだ。しかしだ、少々の無理は聞いてあげようという気になっているのに、最近の2名のわがままぶりには時々ムッとする。歳のせいかもしれない。「えっ、おばあちゃんさっき食べたでしょう?」というようなやり取りが毎日のように交わされるのだ。今日も15日分の食料買い出しに行ってきた。パスタはおやつのような位置づけで売られているものがお気に入りなのだが、さすがにそれは主食には無理がある。それで、絶対食ってもらえないものが何かを把握した上で、「これは食べなかったな、これはまあ食べるな」という具合に売り場で散々悩んで買ってくるわけだ。もちろんおやつ的なそれも一日一つというような計算で買ってくる。ところが、買ってきたことを知っているらしく、他のものにそっぽを向き、「あれを出せ、あれを」と猫なで声で、この場合は父ちゃんなで声でかなりしつこく要求して聞かないのだ。少し前にしょうがねえなあと再度与えたりしたのが失敗だった。皿に入れたものを前に懇々と言い聞かせるのだが、なかなか言うことを聞かず、今日は出ないなとあきらめるまで攻防は続くのだ。あきらめた後はどうするかというと、ちゃんと出されたものを召し上がるという展開で、朝起きると皿の中は空っぽになっている。よし、いいぞ、いいぞってんでまたおやつ的なものを差し出してしまうところがこっちもバカなんだけど、猫にいいような操られているような気もしてくる。しかも、学習したらしく、それを見ていた弟分のみかんまでが同じルーティーンで攻めてくるのだ。

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季節は巡り


 駐車場への行き帰り、つい花たちに目がとまってしまう。春なんだなー、ってなことを言いたくなってしまうわけだ。



 東中野に住んでいたころも、桜の季節は「ほーっ」とか「へー」などというのはあったけど、このような花を見かけたことは記憶にない。



 いわゆる大邸宅の庭先などにはあったかもしれないが、コンクリートで囲まれたような町並みでは無理というもの。

 

 猫を抱えて越してきて10年、四季折々楽しませていただいている次第。
 冬の間は生け垣にも痕跡は見当たらず、もう死に絶えたかと思わされたおっちゃんの家の薔薇も芽吹き、もうすぐそこらが真っ赤に染まるってな案配。

 
 自然の摂理とはいえ、こいつ等は四季のスパンをしっかり認識しているらしい。ってなことに感心しつつ一年の3分の一が過ぎようとしている。速い、時の経つのが実に速い。

 先ごろ毎年行われる同窓会の案内が来た。今年はパスすることにした。当たり前のことだけど、未来への展望など出るわけもなく、同窓会というものは概ね昔の話しかしない。御多分に漏れず年寄の集まりだから病気自慢とかは出るけれど、昔の話だけが共通の話題だから仕方ない。懐かしさだけで語られる昔の話は罪がない。その後それぞれに歩いてきた道は不問に処し、その短い時代だけを摘みあげて愛おしむってのが少々疲れることに最近気付いた。高校卒業30周年の集まりは超が付くほど面白かったが、やはり同窓会というものはその位の時の経過があって初めて成り立つような気がするわけだ。

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支持率



 内閣支持率が下がったと昼間のワイドショーのような番組で盛んに言い、現政権もこれまでかと煽り立てる。聞かれた方が深刻に考えているわけもなく、最近の報道から適当に答えているような気もする。だいたい示された数字はいつだって胡散臭い。こういった茶番は常にマスコミからの発信で、彼らの遊びに付き合わされている国民という図式にも見えてくる。と、まあ、誰が首相になろうと結局は同じだし、何十年にもわたって繰り返される政権攻撃を見てしまうと、そんな風にも思えてしまう次第。

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ボルトカッター


 車に乗るのはいいが、度々駐車場で苦労する。今は事前に駐車場所を確保するようになっていて困ることもないが、昔はテレビ局の駐車場が悩みの種だった。満車で入れられないなどと言われ焦ったことも多い。ロシア大使館横にあるスタジオの駐車場の台数は限られていて、大人数の録音の際は少々覚悟も必要だった。満車だと少し遠い東京タワーの駐車場に入れるように促された。タワーの下を通り抜けて地下駐車場に案内されるわけだが、ここに停めてスタジオまで歩くのが億劫だった。とりあえず楽器だけは降ろして行くにしても、帰りは楽器をぶら下げて歩くことになる。テレビ朝日の駐車場も、ミュージシャンと警備のおっちゃん達との攻防が繰り広げられた。空いているのに停めさせないのは何事かってな案配で、しかしながら「ここは今日出演する誰々の車で確保されています」などと言われ、激昂のあまり警備員の胸ぐらをつかむなどという諍いも起こった。テレビ局と録音の建物は並んで建っていたのだけど、共用する事に無理があった。多くの場合、敷地のすぐ側にあるコインパーキングを利用することになった。河田町にあったころのフジテレビの駐車場も台数が限られていた。ヒットスタジオの仕事の際は早い時間からスタジオ入りするわけだが、それでも待たされることが多かった。間に合うかなとヤキモキしたことが何度もあった。




 あるミュージシャンは時間ギリギリに到着し、待つ余裕もなく、思い余ってご近所の家の空いたスペースに無理やり駐車した。彼に言わせると敷地内ではなく空き地に見えたということだが、そこの住人は怒り心頭に達し、車のバンパーか何かに大きな鎖を縛りつけ、出られないようにした。仕事を終えて車に戻ると凄いことになっている。彼は困り果て、テレビ局に引き返して大道具さんに言葉巧みに頼み込み、大型のボルトカッターを借りることに成功した。カッターで鎖を切り、無事帰還したわけだ。普通では切ることも出来ぬような鎖だったらしいが、「あのカッターは万能だ」ってな話だった。切られた方だって驚いたに違いない。
 剛の者は他にもいた。新宿や六本木は路駐が凄まじいことになっていた時期があった。これは犯罪であって大きな声では言えないが、すでに時効は成立しているほど昔の話だ。彼はライブが終わって車に戻ると、彼の車はもちろん、そこら中の車に駐車違反の輪っかが括り付けられていた。ここで焦らないのが彼らしいのだが、車の中には小型のボルトカッターが積まれていて、輪っかを切ることぐらい簡単だった。彼は切った。自分の車だけでなくそこら中の車のものも含めて。後日電話を受けて「えっ、そんなもの知らないですよ」と返答したらしい。その日の違反者がすべて同じ返答だったに違いなく、当局にしてみれば狐につままれたような気分だったと思われる。その後、違反の処理がどうなったかは知らないが、当局に一泡吹かせた話は誰もを「ククククッ」と笑わせた。

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