☆☆☆

幸せな時


 幼いころの記憶というものは断片的で要領を得ない。前後の経緯など消し飛び、一つの映像だけが残ったりする。大型トラックの助手席で見た山道の緑の木々、トラックの高い座席から手が届きそうな間近に葉が揺れるのが見えた。葉の間から木漏れ日が次々と現れては消えた。



 近所、と言っても家々は離れていて隣は50メートル先という案配だったが、何軒か集まった集落にかわいい柴犬の子犬がいた。その犬が好きで、わざわざ出かけては遊ぶのが楽しみだった。その集落には若いトラックの運転手がいた。大きなダンプカーだったような気がする。ある日、子犬に会いに出かけるとトラックの運転手が「乗るか?」と声をかけてきた。子犬がその人の飼い犬だったかどうかは覚えていないが、子犬と一緒だったら乗りたいと言ったのだと思う。「よっしゃ」というのでどんなに頑張っても乗れない高い助手席に押し上げてもらった。彼にしてみればいつも独りじゃつまらないし、子供とはいえ同乗者がいることが楽しかったに違いない。抱きかかえるといってもアップアップするようなものだったが、子犬は膝の上に乗っかっていた。車が走り出すとえも言われぬ充足感に包まれた。子犬を独占できることの喜びの方が強かったかも知れない。そこから長い時間を子犬と共に過ごすことになった。道中でどんなことがあったのか、お兄さんはどこに行って何をやって帰ってきたのか、その一部始終を覚えていないことはとても残念な気がする。記憶に残っているのは幸福感に浸りながら車のフロントウィンドウから見た木々の緑だ。いつの間にか子犬は座席の隣に寝そべっていて、僕らは並んで寝ていたかも知れない。帰途について集落の近くに辿り着いたのは薄暗くなり始めた夕刻だった。大変なことになっていた。到着する辺りに14、5人がいた。そこら中の人が集まっていたようだった。暗くなろうってのに子供が帰って来ないと母がみんなに言ったに違いない。この時間から捜索するのは大変だと色めき立っていたのだ。そこにのこのこ子供を乗せたトラックが帰ってきたのだから、騒ぎは若者に対する容赦ない叱責に変わったのだ。彼はみんなにこっぴどく叱られていた。携帯電話などない時代だから連絡のしようもないわけで、彼は蒼ざめてうな垂れるしかなかった。軽はずみなことをしてしまったわけだが、そのとき怒る大人たちに「この人は悪くない。なにしろ今日は初めて幸せな時間というものを感じることが出来たのだから。」と言いたくても言葉を知らず、ただ怒られている彼を気の毒に感じたことを覚えている。



 たぶんこの頃だと思う。一緒に写っているのは父ではなく、後に姫路で暮らしたときに来訪を心待ちにした父の弟の光敏叔父さん。

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ろー眼


 サックスのリードをマウスピースのどの位置に合わせるかは人により様々だが、自分なりの調整というものがある。40代半ばのある日、その位置を決めるのに手間取ることに気付いた。ようするによく見えないのだ。最初は見えにくいなあってな感じだったが、もしやと思ったのは老眼だ。洒落たインテリア関連の店で、プラスティック製の折り畳み可能な簡易老眼鏡を見かけ試しに買ってみた。げっと驚くほど見えるようになった。そうか、老眼かと肩を落とすというものでもないが、確実に加齢していることを知った。それで眼鏡屋に赴きちゃんとした老眼鏡を作った。




 まだ40代だから頻繁に使うものでもなかったが、これで一安心てな案配だった。スタジオでの録音で譜面を読む際には使わなくてもすんだから、結局はリード合わせのために買ったようなものだった。後に複視の傾向が顕著になりスタジオ業務からは遠ざかることになったのだが、この時期は老年の新人というようなものだった。50代に入るとたいして使わないとは言え老眼鏡をポケットに忍ばせるようになった。そんなときに知り合ったのがヴァイオリンの尾花さんだった。「あれっ、老眼鏡使ってんの。ダメだよー。これは使えば使うほど進行しちゃうんだから。」「でもさ、見えにくいときってあるでしょ」「いや、見るの。根性で見るの。筋肉関連が衰えているわけだから見ようとするのよ。すると進行が止まるからさ。オレなんかさ、今でも使うことはないよ。少々暗くたって新聞でも読めるからさ。」へーっと驚いて仰せに従ってみた。
 今、この歳でも本を読むのに老眼鏡は使わないというか。そもそも持っていない。むかし作った老眼鏡はフレームも曲がり雑多なガラクタと一緒に引き出しの奥深く眠っている。彼の言ったことは正しかったに違いないのだ。しかし、さすがに薬の小さな瓶に書かれている成分表だとかは判読するのは容易ではない。人の体は加齢と共にあちこちが消耗してガタが来る。最も気をつけなきゃいけないのは血管だが、歯、目など小出しに症状が現れ、気が付くと正しいお爺さんお婆さんが出来上がるってことになっているらしい。

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野菜を食べにゃあいけんよ


 ここ数年は野菜によって季節を知る。昔は野菜の旬の季節など気にしたこともなく無頓着だったが、1日300グラム以上の野菜を義務づけられて止むなく食い、ほとんど十日置きに通う野菜直売所で覚えてしまった。秋も深まるとブロッコリーがのさばり出すってな案配。



 それまで聞いた事もなかった野菜の代表が「つるむらさき」だ。これも緑黄色野菜だということで恐る恐る手に取った。



 少々ぬめりのあるポクポクした食感で、匂いも癖がある。美味いかどうかというとよく分からない、というかゆで立ては悪くないが保存は要注意。タッパに入れて保存すると、癖が強くなって食べにくくなる。しかし、贅沢は言っていられないのだ。なにせ300グラムだ。夏から秋にかけてはつるむらさきが大活躍だが、これからは小松菜の季節になる。ややこしい料理はせずにひたすらお浸しでムシャムシャと食う。レタスは好きだが、緑黄色野菜としては失格だからサニーレタスがメインになる。医者に最近は食べるということが全然楽しくないと言うと、「わかるわー」と笑われた。脂の多いものも遠巻きにするしかないし、塩分はご法度で糖分だって要注意。食べるものは限られて楽しいわけがない。むかし芸能人の結婚式の仕事に係わったヤツがあまりのギャラの少なさに呆れて怒り、パーティ会場にあった伊勢エビを6尾ほど食ってやったと息巻いていたが、そんなことも羨ましがってはいけないのだ。

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ターニングポイント


 人生に転機というものがあるとすれば武藤さんの誘いに応じることもその一つだったに違いない。ビッグバンドで演奏する道があった。切っ掛けは他にもあった。ゴダイゴでホーンセクションを手伝っているとき、ちょっとした揉め事が事務所とプレイヤーの間であり、ま、それは金銭的なことも絡んでいたのだけど、ホーンセクションを替えることになってしまった。しかしながら何が起きているか知らないこちらはトラブルに関与していなかったから、残って欲しいと言われた。自分のトラブルではなかったが、自分だけ残るというのも後ろめたいような気がして固辞した。しばらくして浜田省吾というロック歌手のツアーを何本か手伝った。ある夜、旅先のホテルで会食に招かれた。たしか彼のお姉さんがマネージメント担当で、ウチのバンドに加入しないかという話だった。誘いは光栄な話だったが、当時の彼のバンドのツアーは年に50箇所を超えていた。3日に一回としてもリハーサルを含めて年の半分は拘束されることになる。それはそのバンドの活動で生きる事がすべてになることを意味していた。頭を下げて断った。誘いに乗っていればロックの世界でサックスを吹くおっちゃんになっていただろう。



 ツアーを何年も続けることはあまりなかった。その中で3年続けた山下さんのツアーは珍しいことだった。そもそも自由な職業に就いたはずだった。それなのに自由を束縛されるような立場になることだけは避けたかったのだ。その山下さんのツアーも3年目が限界だった。来年も、という申し出を断ることになった。彼に感謝することはあっても嫌いだとかいうものではなく、自由が欲しいというような心持で辞することになった。ま、多くの事務所サイドからは生意気なヤツと取られたかも知れないが、フワリフワリと流れるように生きるのが好きだった。大仰にいえば、他人の音楽ではなく自分の音楽で生きることが大切だと信じていたというか、信じようとしていたのだ。あの時こうしていればという後悔があるわけではない。ビッグバンドのリード、ロックのサックス、どれもその立場にいる自分を想像できない。そんなことを言えば、スケジュールが合わなかった山口百恵さんのラストツアーや、海援隊のツアーなどに参加していれば、劇的な変化はなかったにせよ何らかの影響はあっただろうが、結局は今の場所がいるべき場所だったと思うのが正しいのだ。

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消えること


 毎度の辛気臭い話だ。人の死というものを最初に知ったのは小学1年か2年、姫路に住んでいるころだった。姫山住宅という、今でいえば団地のようなところがあった。三軒ほどの平屋の住宅が連なった長屋のような棟が幾つもあり、そこは東町、西町というように区分けされていた。それとは別に、やはり木造で大きめの大所帯のアパートのような建物もあった。そのアパートのような建物の一室で首を括った人がいるという噂があっという間に広がった。不気味な話だったが、その部屋のそばまで行った。多くの人が詰めかけていた。もちろん子供などが近くに入れるわけもない。遠巻きにしているだけでも、暗い部屋で自ら命を絶った寝巻き姿の男の姿が見えるような気がした。「襖に血で書かれた遺言があった」という話も聞こえた。何か書かれていたのは確かだろうが、血で書いたというのは作り話のような気がする。死というものを認識していたかどうかはともかく、建物の通路の暗さやその場の放つ重苦しい空気などにショックを受けたことは間違いなく、50年以上を過ぎた今でも忘れない昭和30年代初めのことだ。 



 それからも親戚内の弔事を聞きはしたが、長寿で天命を全うした者に対してのショックは別のものだった。ミュージシャンとして働き出して知り合ったバンマスに、元シャープス&フラッツでドラマーとして名をはせた武藤敏文さんがいた。当時は独立してニュー・シャープスというバンドを率いていらっしゃった。レギュラーとして鴬谷のグランドキャバレーに出演する傍ら、不定期に米軍キャンプの仕事などがあった。どういう縁か、一度だけ誰かの代わり、いわゆるトラで鴬谷の店に行った。すると武藤さんから何かにつけて頻繁に電話が入るようになった。その頃ウチには迷惑な電話魔がいて、うっかり取ると1時間も2時間も付き合わされた。武藤さんはその間中イライラと待っていたらしく、開口一番「しかし、長い電話だよなあ」と仰った。何が気に入られたのかは分からないが、とにかく自分のバンドに来いと何度も何度も誘われた。ある夜は「何か、そうだ車買ってあげるけど、どうだ」とまで仰った。絶句した。そりゃあ、ま、気に入られて気分が悪いはずもないのだけど、ちょうど新宿のピットインに出演して盛り上がっていたころだ。大所帯の中で演奏する心境にはなれなかった。ある日は楽屋で話し合いになった。武藤さんは昔の写真アルバム持参で、海外の多くのジャズメンと共演した際のスナップを嬉しそうに何冊も見せてくれた。この場所に一緒に行こうよと熱弁を振るわれた。トラで行くのは問題なかったが、武藤さんの誘いを断るのが申しわけなく思えて少し間を空けようとした頃だった。訃報が入った。武藤さんの趣味の一つがモーターボートだった。その日は子供を乗せて東京湾に出ていたそうだ。もしかすると時間の読み違えで焦っていたのか、帰りに操舵を誤り橋桁に激突し亡くなられた。子供の安全を確認して沈まれたと聞いた。武藤さん亡きあと引き継がれた方の元でも何度か演奏したが、もう来る必要はないなと痛感して行かなくなった。亡くなってからだ。武藤さんの人柄に惹かれていたことが分かったのは。縁は不思議なものだと思う。相性というものがあって、その人の前に出ると自分の悪い部分が首をもたげて来る場合もあるし、その逆に素直になって穏やかでいられる場合がある。武藤さんの場合は後者だった。嫌味な自分はすっかり影を潜め健全でいられた。死というもの、あの時初めて何かを失う悲しさというものを知った。

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