☆☆☆

休場で窮状


 不祥事の記憶も冷めやらぬ、大相撲初場所が大変なことになっているという。休場が続いていた日本の期待の横綱稀勢の里が4日目までに3敗、またまた休場が危ぶまれていたところ、今日も出場して結びの一番となった。今日は何とか勝つのではないかと期待しつつ見ていたが、負けてしまった。力が出ないように見えた。一方、あの生意気な横綱はケガだとかでサッサと休場。今場所は無給だから逃げたんだと、口さがない向きは言う。そんなバカなと反論しようにも、ありそうな気がしたりするから始末が悪い。



 しかし、物事というものは誰もが期待するようには中々進まない。期待を一身に背負った真面目な稀勢の里は3敗してもなお出場を強行するがあっさりと負けてしまう。憎まれっ子の方は「あっ、ケガしちゃったもんね、休場、休場。なんか文句ある?」ってな調子にも見える。こどもの頃は「正義が勝つ」などというお題目を少しは信じようとしてはいたが、そんなものは幻だと思い知らされたのも遠い昔のことだった。「正義は勝つ」というのは正義が勝てばいいのにという大人の願望だったに違いない。そりゃあ、ま、お相撲さんの場合、正義も悪もないわけだが、最近のマスメディアの取上げ方を見ていると、そのような構図で考えると分かりやすい。早い話、軽く洗脳されているわけだ。

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リハーサル一回目



 ライブに備えるリハーサルとしては、ほぼ半年振り。27才から68才までが集って音を出す。やはり若手の爆音系を抑えるために少々時間を食った。音がでかいバンドだとみんなでワーワーやっていれば何とか格好が付いているような気もするが、静かなアンサンブルだと音を出すのが怖くなる。その緊張感を教えたいわけだ。なぜ怖くなるかというと、一つのフレーズがちゃんと弾けていないことが明らかになるというか、だいたいバレてしまう。バンマスの言い分としては「音圧で誤魔化そうたって、そうは行かないぜ」ってなところだ。理想はささやくようなウィスパー・トーンで表現できることにある。ま、それには何十年もかかったりするのだ。

 6人もメンバーがいると、思いも寄らぬトラブルが起きる。今日はピアニストだった。時間が過ぎても現れない。律義なヤツだから、きっと渋滞にでも捕まっているに違いないと、先にピアノ抜きでリハーサルを始めた。30分以上経って電話が入った。お巡りと揉めているという。えっ、渋滞じゃなくてお巡りに捕まっているのかってな話だ。後で詳しく話を聞くと、スマホ片手に運転していたと嫌疑をかけられたという。停車してハンドルの上にスマホを置き、地図を確認したりしていたらしい。少し走ってまた停めてということを繰り返していたわけだ。それを携帯を使いつつ運転したと見咎めた警官は自転車で追っかけてきて、窓を叩いて停止させ切符を切ると言い出した。若宮君の主張では、あくまでも画面を見ていたのは停車中であり運転中には見ていないと抗議した。決して通話をしていたわけではないから判断は微妙だ。だいたいナビを見る分には問題がなく、携帯の画面だと咎めるってのも妙な話には違いない。携帯電話を使用していたことだけが問題になっている。さて、猛抗議を受けて警官は援軍を呼んだ。パトカーも駆けつけ、赤色灯に囲まれつつも抗議は続いた。彼はリハーサルがなければ一日中だって抗議して切符にはサインしなかったと曰う。それほど怒髪天を衝く状態。しかし、このままではリハーサル無しになってしまうってんで渋々サインをしたと、それはそれは悔しそうに言うのだ。もちろん非を咎めたお巡りがそれを覆すことはない。行司は差し違えってものがあったりするけど、彼らにはそういうシステムがない。経験から言えば、彼ら警官は咎め立てした時点で、自分の意見での罪状を認めることを強要する。多くの冤罪はそのようなことから発生するともいえる。覆せないから押し通すわけだ。今日の件に関しては災難だったというしかない。

 さて、リハーサル。4時間や5時間で辿り着くところがパーフェクトであるわけもない。この先幾度できるかは分からないが、より良いところに皆が進んでいくことを期待しつつ、リーダーというものはパワーが必要だなあと痛感する次第。しかしながら、ドタバタしつつも、この初期の状態が圧倒的に楽しい過程であることは確かなのだ。

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高騰野菜


 野菜が高い。目が飛び出るほど高い。緑黄色野菜を一日300グラム以上食べること、などと仰せつかっている健康維持積極的推進者としては困った事態なのだ。レタスは緑黄色野菜に該当しないが、それでも昨日デパ地下で見かけたものは600円だった。



 度々足を運ぶJAの直売店でも驚くほど高値で並べられている。この時期はブロッコリーがありがたいわけだが、痩せ衰えた貧相なものが250円で売られている。過去の記憶ではブロッコリー豊作の年には一個だいたい100円あたりで、先日並べられていたようなものは、とても恥ずかしくて棚にも入れてもらえなかったはずだ。貧相といえば小松菜もそうだ。でも昨年の倍はする。元気なのはネギと大根ぐらいだ。白菜も年末に比べると倍以上の値段が付いていた。レジで「どうしてまたこんなに高いのさ」とオヤジに訊くと「さーて、ま、天気のせいでしょうな」という。10月の長雨と台風が大きく影響しているらしい。冷凍のブロッコリーという手もあるが、ほら、中国産だからと・・・躊躇う。この高値は春ごろまで続くという。春はまだまだ遠い。何とか確保して食してはいるが、いつもは冷蔵庫の中に野菜がワンサカ入っていたものが、今はサカってな案配で心許ない。

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ドルフィ


 エリック・ドルフィのレコードはかなりの数を、せき立てられるように買った。正直なところ、好きだったかどうかは未だによく分からない。基本的にはバップの延長線上にあって、そこから離れずにウダウダと奇抜な跳躍を取り混ぜて続けるものもある。そのタイプは少し退屈する。そのような路線でも、緊張感をやたらアピールしないLJQ(ラテン・ジャズ・クァルテット)とやったものや、ケン・マッキンタイヤーとの共演盤は軽めのアプローチが心地よい。

 

 しかしながら、ミンガスとの共演の際などに、自分のアプローチが炸裂し始めると手が付けられない。恐ろしいほどに攻撃的で容赦がない。そんなドルフィを怖いもの見たさで次々に買っていたような気もする。
 ドルフィのレコードはほとんどを処分してしまったが、このレコードはなんとなく捨てられないでいる。



 「Pieces by Lewis, Farbermann. Schuller, Smith / dedicated to Eric Dolphy」1966
 これはドルフィが演奏しているレコードではなく、彼に捧げられた作品集で、ジョン・ルイス、ガンサー・シュラー、ハロルド・ファーバーマン、WM. O.スミスのスコアが5曲演奏されている。メンバーはジェローム・リチャードソン、ジョー・ニューマン、ボブ・ブルックマイヤー、リチャード・デイヴィスなどで構成されていて、一曲だけヒューバート・ローズが参加しているが、ここではフルートとテナーサックスを吹いている。珍しいローズのテナーソロが聴ける。ジョン・ルイスのスコアはジャズ寄りだが、他のスコアは現代音楽的なアプローチが目立つ。ガンサー・シュラーの曲の一つはジム・ホール(ギター)とビル・スミスのバスクラ、メル・ルイスのドラムと二人のベーシストという編成で予想通りのマニアックなサウンド。ライナーノートはレナード・フェザーが書いていて、かなり詳しくアプローチを分析している。聴いた感触を言えば、ドルフィとは無関係であって、ドルフィという存在をモチーフにしてそれぞれの作曲家がイメージを膨らませた作品集ということになる。希少盤で、そもそもLPジャケットの写真すらネット上にはない。歴史に埋没していくアルバムの一つに違いない。このように話題になることもなく消えていくアルバムは捨てるのも憚られ、天の邪鬼の私としては「シュラーさん、ファーバーマンさん、これからもあなた達の苦心したスコアを何度も聴き続けますぜ」とエールを送りたくなるものなのだ。

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惜別


 昨夜、故宮地利治のお別れの会に参加した。葬儀は家族葬で執り行うということだった。それで、最後まで共に演奏をされていたトロンボーン奏者の中澤律子さんの尽力で、生前親交のあった演奏家などが集まった。中学時代の同窓生もいたし、スタイリスティックスでご一緒したテナー奏者との再会もあったが、ほとんどは知らない方々だった。疎遠になり始めたディズニーランド時代からの知り合いの方々が多かったわけだ。会はモニターにYouTubeにアップされた映像と音楽を聴く形で進行した。ディズニーランド時代の多くの映像も残されていて、ずいぶん多く見ることになった。



 出席者がそれぞれに彼の想い出を語るコーナーでは古株として挨拶をしないわけには行かなかった。中学、高校時代から始まって、プロの世界に飛び込むきっかけを作ったわけだから最も長く深く関わり合っていたことになる。なにしろ、小倉の「チャイナタウン」という店のキャバレーバンドに一緒に参加したとき、当方19才、彼は18才だ。先行きの不安は抱えきれないほどあったが、若いときは根拠もなく不安を吹き飛ばす夢とパワーがあった。同じ屋根の下での生活で、毎夜のように朝まで音楽のことなどを語り合った。半年ほどの小倉での仕事を終え、彼はひと足早く上京した。残されたこちらとしては散々お世話になったバンマスに暇を告げることが出来ず困り果て、前借りしていた金などを封筒に入れて先輩に託し蓄電するという、とんでもない暴挙で去ることになった。厳しいバンマスだったから、相談すれば「もう少し勉強してからにしろ」と言われるような気がしていたのだ。しかし、こちらとしては気が逸るばかり。20才目前であって「こんなところで足踏みするわけには行かない。えーい、逃げてしまえ」という短絡ぶりだった。彼から2ヶ月遅れて上京した。頼みの綱は、小倉の店のチェンジバンドのドラマーから頂いた同郷の先輩ドラマー西川喬昭さんへの紹介状だけだった。
 宮地はひばりケ丘に住んでいた。そこへ転がり込んだわけだが、彼はその時点では何もしていなかった。仕事を得るには何らかのきっかけが必要だったから無理もない。
 ホームページ「70年代」にも書いたが、こちらが用意していた紹介状にしても、住所が分かっているわけでもなく、新宿歌舞伎町のジャズ喫茶「ポニー」に行けば会えるという頼りないものだった。夜8時頃からポニーで3時間ほど待ったが現れず、会計の際にレジの方に紹介状を託して帰宅した。8時など、普通に考えれば仕事をしているわけで会えるわけもないのだが、舞い上がっていてそこまで考えは及んでいなかった。もしやと思い、12時過ぎに店に電話をすると西川さんが出て「すぐ出て来い」と仰った。最終電車で駆けつけた。後は電光石火だった。「先ず師匠を決めないとな」ということになり、菊池先生に付くことになった。次は仕事だ。その時間にポニーにいるのは、ほとんどがジャズ・ミュージシャンなどだった。西川さんは店の中にいるみんなに向かって「ねえ、このボーヤがさ、アルトで仕事探してんだけどさ。何かない?」と言うと、あちこちから「それだったら」という声が返ってきて、その場で2ヶ月間のトラだったが風林会館のバンドの仕事が決まった。その仕事場で最初にバンマスにお願いしたのはトロンボーン吹きの仕事の紹介だった。「おっ、なんでもいいのかい?」ってんで宮地の仕事もたちどころに決まった。当時のバンドマンの情報網は、それこそ網の目のように張り巡らされていた。なにしろ、今は無くなったコマ劇場の前の広場を取り囲むようにして、3つのダンスホールがあった。ダンスホールにはフルバンドとタンゴバンドが必ず入っていて、休憩時間にはあちこちから同じ色のブレザーを着たバンドマンが出て来た。その上、そこら中にキャバレーがあって、何れにもバンドがいた。どこの店でもフルバンドというものでもなかったが、最低でもナインピースのバンドを抱えていた。12時過ぎの新宿中央線のホーム、当時は10番線で向かいは外回りの山手線。このホームはバンドマンとホステスと酔っ払いで溢れ返っていた。一度どこかに所属してしまえば仕事は尽きることなくあった。20才と19才の東京での出発はそんな風に始まった。
 こう言っちゃあなんだが、戦友のようなものだった。あの当時の話を今できたらどんなに楽しかったかと思う。
 永六輔さんは生前、友人の葬儀に参列した後「生き残った」という安堵のようなものを感じることがあると仰った。宮地に関してはそのようなことを思うことはない。「先に逝ってしまいやがって」と置き去りにされたような悔しさだけが残る。ここ10年近くは会うこともなかったが、生きていればいつでも会えるという油断があった。今、二度と会えないということの悲しみを知った。挨拶をしていて、上に書いたように詳しく語ったわけでもないが、次第に悲しさが込み上げ言葉に詰まった。不覚にも涙があふれ出て止まらなかった。最後に、悔しいと言って終えた。あいつと過ごした20代の日々がどれほど大きかったかを改めて知ることになった。

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